東浩紀「ポストモダンと情報社会」12/11

今日の東浩紀の授業。

どうもこんにちは
皆さん元気ですか
今年の風邪は厳しい
今回は参った
10日くらい使い物にならなかった
先週の授業の翌日取材をキャンセルした
小松左京のグレイトなパーティに行って家に帰って倒れた
土曜日小松左京マガジンの座談会の仕事を入れたり
小松左京先生のせいで厳しいことになった
皆さんも気をつけてください
不調だなと思ったらすべての仕事をキャンセルしないといけない
3kgくらい痩せた
チャーハンとか食おうとしたら吐きそうになる
心は腹が減っているけど体は減っていない
こういうところ(講義)に行くと風邪をひくと思う
一緒に小松左京先生の仕事をした大森望さんにもうつったのではないか

授業どこやってたかわからないがこういうときのために
はてなダイアリーがある

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動物化するポストモダン 1950、60年代のSF 将来のコンピュータはマザーコンピュータのようなもの 佐藤俊樹ノイマンの夢・近代の欲望』みたいなタイトルの本 半分くらい面白くて半分くらいハテナ? 情報化社会のイメージの考古学 科学技術庁 今は未来工学研究所がやっているが 5年に1回くらい専門分野の科学技術者の予想のアンケート集を出す デルファイ法によって予測 この間出たのは2035年の科学技術 第1回は1970年に行われた 当時インターネットに相当する項目はない そもそもインターネットに関して想定されていない エキスパートシステムに関してはたくさん予測されている 自動翻訳とか人工知能とか 1950、60年代ではプロの研究者であってもインターネットを予測できていない CPUのスピードとかメモリの大きさとは関係ない 科学技術では予測できない 情報社会のイメージ自体を更新しなければいけない 今から30、40年後の情報社会を想定した場合 あの頃みんなGoogleすごいって言ってたよね Googleが支配してるかもしれないけどそうでないかもしれない 社会の中の人々のイメージの話にならざるを得ない 現在の情報技術のイメージはポストモダニティの影響を受けている 集中よりも分散の方がいいみたいな 現実に分散の方がいいかもしれないけど 分散の方がいいはずである、というイデオロギー それがポストモダニティ 大きな物語 →(移行期)→ 大きなデータベース 大きな物語 - 皆が1つの価値観の中にいる みんなに物語を分配 今の社会 - 大きなデータベースを共有している 人間と人間はでっかいハードディスクを介して繋がっている 電話は人間と人間を繋げている インターネットは人と人とが直接繋がっているわけではなく データベースを介して繋がっている 実際にはみんなが巨大なデータベースにアクセスしているのがインターネット上の繋がり まだテレビとか強いので移行期 紅白歌合戦の視聴率が激減したのが80年代の後半なのではないかと思うけど こういう国民的な番組というのは1時期70、80パーセントはあった 物語系のメディア MIT所長の予言 今 有線のものはすべて無線になるだろう 無線のものはすべて有線になるだろう 通信技術はものすごいスピードで進んでいる 蛍光灯の点滅で通信を行ったり いずれにせよこの手の技術開発は皆熱心 テレビなんかは光ファイバーを引けばいい 1つの番組をみんなが見るというのは インターネットにそぐわない youtube極楽とんぼの動画に100万件アクセスがあっても 同時に見られているわけではない データベース系のメディアは非同時性 双方向性 テレビメディアは時間を支配できる 学校で昨日のテレビ番組の話題をする テレビが時間を支配している データベース系のメディアに移行してしまうと時間を支配できなくなる ドラマは『スタートレック』とか『24』くらいしか見ていない 地上波のドラマはここ10年くらい見ていない データベース系のメディアになると、 例えば24だったらすべての話数がいつでもデータベース上から引き出せるようになる 毎週毎週追わなくてもよくなる 時間を支配できなくなる テレビは毎週毎週どきどきわくわくしながらみんなが付いてくる 社会に対する影響力が違う 想像の共同体 という言葉がある 日本は1つの国、北海道も沖縄も1つ だと想像する 新聞がそうさせている 新聞というのは毎朝毎朝昨日何が重要だったのか教えてくれる 1つの共同体を作る 一方、韓国とか中国とかでは全く違う事件が重要だとされている 新聞は毎日毎日更新されるもの 1つの共同体の時間を支配できる それは新聞でありテレビである ポストモダンの社会ではそういうものをなくしてしまう youtubeGoogleは世論を支配できない 時間を支配するメディアではない 情報技術を使っても、一斉通知の方向にもできた プッシュ型のような受信機としてのインターネットは駆逐された 非同期型が受け入れられた
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大きな物語 - 社会の全体の理念 大澤真幸の言うところの理想の時代 移行期は 大塚英志の言う物語消費がキーワード 理念の名残と消費者は戯れる もはや戦争は描けない あえてガンダム ロボットもの 「あえて」のアイロニー 実際に革命とか社会を改革する動きはない 大きな物語は信じられなくなっている 信じている振りをする そうやってやりすごく シニシズム(冷笑的)の時代 オタク文化はシニシズムの文化として発達していっている 2001年に『動物化するポストモダン』を書くまで、 日本のオタク文化というのは歴史的に位置づけられなかった 変わった人たちがやっているのだと思われていた 岡田斗司夫大塚英志が例外的にやっていた 「サブカル」に関してはわりと語られていたが 大塚英志の『物語消費論』は2000年頃絶版だったし忘れ去られていた 当時著者は戦後民主主義とかに興味があった 『動物化するポストモダン』で大々的に扱ったので復刊した オタク文化でのモードの転換 かつては作品に対してシニカルな読解の戯れを行っていた 1995年以降 ベタ、単なる感動、感覚的、複雑な読解とか無関係に単なる絵に萌える といった人たちが増えてくる エヴァンゲリオンが結節点 物語消費に対してデータベース消費というトレンドが出現 大きな物語から物語消費へ 物語消費からデータベース消費へ オタクが機能したのは1995で終わっている オタクイズデッド 虚構の時代 by 大澤真幸 物語消費 by 大塚英志 オタク的シニシズムが機能していた時代 現在のオタクという言葉はかつてのそれと違ってきている 旧世代の使用法  世界への距離のとり方  ある種の対象との距離のとり方  それがつまりシニシズム的メンタリティ データベース消費の時代  絵に対して萌えとかいってる  身体的な快楽やベタな感動を求めるなかでたまたまアニメとかゲームが好きな連中 # 美少女ゲームに対してシニシズムをリバイバル
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ハリウッド映画 映像エンターテイメント一般 物語は希薄になっている 作品というのは3つのモードで語られることがある 小説  文体  物語・意味・主題  消費構造 一般的に作品というのはこの3つのレイヤーに分かれている 文学研究はだいたい文体に対して行われる ここで出てきたこの単語は云々、などと 漫画研究アニメ研究を学問的に確立させるには 文体レベルの話をすればよい 例えば『テズカ・イズ・デッド』 映画研究もフレームの話ばかり このレイヤーは確固たるものである 消費構造の話は社会学の話 このレイヤーも確固たるものである # みんな手塚治虫とかちゃんと読んでるんだろうか # ある美容師 #「手塚治虫って知ってます?手塚治虫って話面白いから絵が上手ければもっと有名になる」 # キター # 日本の美容師会は大丈夫だろうか 物語・意味・主題を扱う このレイヤーが批評 例えば少年犯罪が話題になっていた頃の少年犯罪小説がたくさん書かれた この小説のモデルはあの事件だろうか そういう回路があれば批評は成立する その回路がなくなると成立しなくなる 人々がそれぞれの価値観で勝手に読めばいいんじゃないの、みたいな 2次創作的作り方 最初にキャラがあって こういう物語も出来るね ああいう物語も出来るね パロディもやってみるか キャラがあって、それを使って遊んでください ある物語があって、それを世の中に問う ということが希薄になっている 作家性というものは 以前では物語・意味・主題のレベルに宿っていた 今では極めて希薄になっている 今は物語・意味・主題を語るのが難しい 今は批評が難しい こういう時代にはどういう作品が受けるのか キャラクターの話は文体の話に近い キャラクターをどう立てるか、というのは文体の力に依存する ツンデレ、12歳、150cm代?、魔法が使えて、でも男の子から何かされないと使えない そういう要素を組み合わせても、キャラが立つかどうかはおそらく文体の力に依存する 涼宮ハルヒを真似ようと思っても谷川流の文体はなかなか真似られない つまり文体はまだ生きている 消費構造について語るのもまだ生きている ハルヒの感想ブログについて語るとか さらにそれについて語るとか けれども 物語については…まあどうでもいいか、みたいな 語れない 『24』は文体が良かった キャラが立っている それに尽きている オタクっぽい女の子も良い感じ 『24』を語るネットワークも生きている しかし物語について語る気はしない あんまり期待しない 『24』はアメリカ社会を写しているわけではない シーズン1はボスニア戦争の名残 あとはアラブと中国…すごく凡庸 物語はどうでもいい 例えばイスラムとか旧ソ連、中国はもう古い 反トルコ運動とかが良いんじゃないか でもそんな設定言ってもみんなわからない トルコなんかわかんないよ! 世界史的な予見的な知はまったく期待されていない アラブあぶない、中国人権無視、2chで語られているレベルの話になる スタッフの労力は物語に使われていない SFXとか広告とかに力を入れる この傾向というのは半世紀くらい変わらないのではないか 小説家になるのはやめたほうがいい 厳しい道だ 批評家も無理ですね 物語とか意味とか主題とかは社会全体としてはなくなっていくけれど 一部のそういうのに語りたい人たちが集まっていくことになる はてなダイアリーとかがそういう場になるのかな
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意味がなくエンターテイメントを消費していくこと 動物化動物化」とはなにか というのは思想的な文脈があって A・コジェーヴヘーゲル読解入門』分厚い本 ヘーゲル(超有名)を読解している本 ヘーゲルの基本は弁証法 these antithese → synthese 正  反      合 人類はこれらを繰り返して進歩していく ナポレオンと同時代人 ドイツには将来有望な哲学者がいっぱいいた フランス革命で大変盛り上がった 理性で世界をコントロール これは素晴らしい 歴史は終わった でも実際は終わらずその後もいろいろあった コジェーヴ第二次世界大戦が歴史の終わりといった フランシス・フクヤマは1989?が歴史の終わりといった おそらくこれからも「歴史の終わり」が繰り返されるだろう ポスト歴史 ・アメリカ型動物性   カエルとかセミのようにコンサートを開き   子供の動物のように遊び大人の獣のようにセックス  アメリカ嫌いのフランスの反発  我々はポテトチップスバリバリ食ってるけれどもこれはアメリカ発祥  アメリカは欲望に対して忠実な国  欲しいものを作って対象生産まっしぐら  何でアメリカはこうなったのか  文化の剥奪された移民が集まってきたからか  こいつ何か変じゃないかと言ってもみんな変  普遍的コミュニケーションの裏返し?  こういうものをコジェーヴは嫌いだった ・日本型スノビズム  アメリカ型動物性の対極にある  例として江戸時代 歴史の終わりっぽい  戦国時代が終わって国も閉鎖して300年くらい何も発展無し  無意味な事に没頭し、無意味なことが無意味なことを知りながら洗練していく  例えば切腹  皆が死ぬのは無意味だと思っている  誰も死ぬ必要がないけれど儀式を貫徹させるためにやる  全く意味がない  儀式の複雑さ、プロトコルだけが洗練されていく世界 日本のフランス系知識人は後者が大好きだった 日本の行くべき世界だと80年代は特に思われていた でもこれは1970-95年のメンタリティ オタクそのもののメンタリティ 『オタク学入門』もそういう観点から読むとほとんど同じ 戦隊もの 話は無いに等しい やっぱり女の子がたくさん出てくるアニメの方が好きなので例に出しやすいな 髪の色とか細部だけを洗練していく 物語は口実でしかない # エヴァンゲリオンは話もあるし立派 「あえて」のメンタリティは 大きな物語が崩壊していく過程でちょっとだけ表れるけれども 結局は容赦なくアメリカ型動物性になってしまう オタクたちも動物化しているし 文化っていうのはあるけれども 人間の身体的快楽にダイレクトに訴えかけている 身体 ハイヴィジョンを見るとびっくりする おおすげえ ああいうのも身体的な快楽 ある種のイリュージョン 食べたり飲んだりする快楽とは違うものだけれど ハイヴィジョンに写っているものはどうでもいい ワイドショーとか でも綺麗であればいい 目の前で展開している質感の快楽 映画とかを見るときもそう ふかふかな椅子 大スペクタクルを見て驚く ピーター・ジャクソンの『キングコング』 オススメのSFX キングコングティラノサウルスが戦う 話は必然性がない はらはらもしない キングコングが勝つに決まっている 純粋に映像の快楽だけ 一種の身体的な快楽 オタク達が萌えとか言っているのもそう 線、塗り、テクスチャ、 そういった記号の身体的快楽が精緻に張り巡らされていく つい1世紀前まではいろいろなものがなかった コカコーラもポテチもない ファストフードがうまいということを1世紀前までは知らなかった 体に悪いのだからそれをうまいと思うこと自体人類のバグ そういう身体的快楽をつつくノウハウが文化にまで広がった 「動物化」というのはアイロニーがこめられている言葉 超人間というものが語られていた 今までの近代的な人間がアップグレードされて新しい人間になる でも実際、 ポストモダンでは人間はだめになる Googleとかは人間を馬鹿にさせる 記憶の外在化というのは人を馬鹿にさせる エクリチュール 書くこと 書くことによって人間は頭が良くなるか馬鹿になるか ソクラテス曰く文字を書いて安心して人はますます忘れるようになる 人間の知的能力を高めるための補助剤は本当に良くなるのだろうか ポストモダンでは人間がだめになるということがいよいよ明らかになっていく 身体的快楽に対して無防備 ポストモダンだと言われていたものの必然的な帰結 僕も動物化しているし悪いことではない 古い人文的な考え方からするととんでもない