東浩紀「ポストモダンと情報社会」1/29

今日の東浩紀の授業。

今日はまた人数が減って…
ということは先週はレポートのプリントを 1 枚取りにきただけなのか
大学生って暇だよね
最近はそういうのはメールかファックスでもしてもらうのかと

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さて引越しも終わったわけです 復活するかと思ったけど しないですね 復活とかとんでもない話です 疲れますよ引っ越しは 引っ越したら新しい僕になれるかみたいに講義メモに書いてあるけど なれるわけないですよね 子供もいるし大変 パワポも用意できず パソコンを設置したのも 24 時間前とかいう話 本がたくさんある 捨ててるものだけでもダンボール 10 箱とかになる 部屋の中がダンボールで埋められる 部屋に入るために手前にある屑な本を並べて迷路のように切り開く そのうち机にたどり着く ライプニッツ全集をカント全集の横に置くつもりが変なところに。 クイックジャパン全部捨てるか!とか 誰も要らないですよね 学生と話していたら 引越しとか光とかで出来ないですかねえ と言われた 漫画を捨てるために Winny で落とすのだとか メールアドレスも変わらないし コンピュータの引越しは簡単
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レッシグの話 # 引っ越してよかったことは # 『コモンズ』が見つかった # いろんな本が見つかった # 自分は哲学の人であることを再認識 # アイデンティティを確認 # 電撃文庫より岩波文庫が多い、とか 『CODE』 1999(出版年)->2001(邦訳の出版) 『コモンズ』 2001->2002 『FREE CULTURE』 2004->2004 『CODE』はコンピュータのプログラムと法律の二つの意味がある コンピュータのコードと法律が戦っている 第一部の頭の方で次のような例を出している コンピュータのワームを FBI が使って テロの計画、原爆の設計図を調べて 実際にばら撒いたとする 9.11 以降このような計画は何度も浮上している これは憲法の精神に反しているか反していないか コンピュータは自分の敷地だとすれば 明らかなプライバシーの侵害 直接自宅を引っ掻き回されると明らかな害だが ネットワーク上でワームがやってきて ハードディスクをひっかきまわしても 明らかな害ではない 明らかな害でなければよいのか? 難しい問題 プライバシーに関しては白田秀彰さんの本を読みましょう
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プライバシーの概念について 2 つのことを知っておくといい 1. イエロージャーナリズム(マスコミ) 19 世紀の後半から 20 世紀にかけて報道による有名人のプライバシーの侵害が起こる "to be let alone" 放っておかれる権利としてのプライバシー プライバシーの概念は有史以来あるものではない 社会制度的な条件が出現してから出てくる マスコミ、ジャーナリズムなど そして複製技術の出現 プライバシーの権利に対する反論 「昔はプライバシーなんてなかった」 村ではすべて知られていた 村っていうのはそういうものだ そこではプライバシーはなかった しかしそこではプライバシーがない代わりに 誰がプライバシーを侵害したのかがわかる みんなが知られてみんなが知っている これに対して近代社会がやってきたものは ある種匿名、無名というか、社会全体が誰か個人に対して好奇の目を向ける だからプライバシーの権利が出現 2. 福祉国家、企業データベースの台頭 1950-60 年代 国勢調査 IBM という会社の初期は事務用品 国勢調査で使ったパンチカードを処理する機械を売っていた 国勢調査で得られた数字を処理するのはすごく大変 アメリカでも 4 年に 1 回やっているが ある時期情報処理するのに 4 年かかってしまうようになった 昔はデータを集めても処理できなかった 雑誌についているはがきを送って貰っても昔は捨てるしかなかった データを集めても統計を取る手間が大きい 今は処理能力が高くなったのでデータを集めることが重要になった 僕の個人情報を集めている人がいても 僕自体は放っておかれている 何かの分析をされていてもわからない 個人情報を管理する権利としてのプライバシーが出てくる この 2 つは全然違う これらの概念は今のネットに合っているのかというとそういうわけでもない 自分の名前で Google で検索するとひっかかる これらのデータを個人で管理する必要はあるのか 池田信夫さんという人がこう書いている 個人情報管理権を徹底すると検閲権になる ネットは誰でも出版できる時代 個人情報管理権としてのプライバシーは強すぎる ネットワークから切断される権利というものを考えればいいと 『情報自由論』でかいたけど 言論の自由のある空間に生きている 天皇批判なんかを出版するのは簡単 例えばディズニーの批判を書きたいとする セーラームーンでもなんでもいい どっかが著作権をもっているものを批判したい しかしそれと関連する出版社では本を出せないし 図版とかも引用できない 著作権を侵害しているという形で 悪口を書いている人間には貸さないようにできる 批評には引用というものがある # 柄谷行人は引用が 5 ページくらい続いている # 写すだけで原稿料 5 ページ分かよ # やっぱ批評家は引用だよなーどんどん引用するか、 # と学生時代は思っていた # しないけど 引用なら著作権法違反だとは言えない しかし音楽はどうか 映画はどうか これらは非常に厳しい エウレカセブンか何かで あるアニメと他のアニメの戦闘シーンがそっくり youtube で比較画像が出ている 誰が見ても同じではなかろうか こういう検証がしたくても明らかに著作権侵害 こういうことは著作権侵害でことごとく潰すことは可能 著作権は検閲権としてもある程度機能する 言論の自由といわれていたものは守られるだろうけど 全く無関係だと思われていたプライバシーの権利とか著作権が デジタル技術によってこれらが言論の自由を脅かすものになった 私達が作っている法律は 国家(大きな権力、公)が 私的な権力の範囲をどこに確定するかの関係として考えられる このバランスは人類社会が 2、300 年ずっと考えている 情報社会は公私の関係そのものが変わってきている mixi はパスワードで電子的に守られているが mixi 日記は mixi のサーヴァーにあって、もはや出版しているも同然? 少なくとも私的なものではない これで他人の権利を脅かすことができる 個人情報を管理するものは「公」だと思われていた 「私」は管理されるもののはずだった あらゆるウェブサイトはみんなビッグブラザーみたいなもの みんなが互いに個人情報を脅かしている 僕の講演の写真を無断でのっけて悪口を書いているブログを 肖像権侵害で潰せる 東浩紀がインターネットを見ていることは知られている だから 罵詈雑言を書くのも読まれるのも全然いいしそう思われているけど 写真をのっけるのはやばいと皆に思われている 実際、顔写真はどうでもいい 顔っていうのはインターフェースとして作られている 哲学的に深い話になってしまうが… 指紋認証は抵抗があるが顔認証はぜんぜん抵抗が無い みんなが自然にやっていることだから 人間の錯覚かもしれないけど本質かもしれない 顔は常に外観として晒されていて認識に使われる 住所は個人情報のかたまりのように思われているけど (こういった個人情報に敏感になったのは SPAM が来るせい?) これを絶対的に秘密にしておくと 地図も成立しなくなる パブリックにしないと存在意義がなくなる 名前だってそういうもの ペンネームを使っている人は隠したいかもしれないが… # 宗教的には名前は結構面白くて # レヴィストロースが調査した部族では 2 つの名前を持っていて片方しか言わないとか 河口湖湖畔のオルゴール美術館に年末に行った 奥さんと子供で言ったら 「東さんですか? 本読んでます!」と声をかけられた 僕は全然いいんだけれど 放っておかれる権利を脅かされていると考えられる このような事と、住所、名前を知られることは全然違う 住所、名前を知られることにセンシティブになっている 一昔前の本には作家の住所が書いてある 『超人ロック』が引越しの時にでてきたけど住所が書いてあった すげえなあ、チャレンジャーだなあ でも当時はそうだった お便りだそうってことか 作家が惨殺されたということは聞かないので大丈夫だろう 年賀状みんな出してる 僕は出さない、これは怠惰だからだけど 年賀状は個人情報の塊 親 2 人、子供の写真などなど平気でばら撒いている 物理的なメールボックスは簡単に開いてしまう 102 号室だったら番号 102 とかでがんがん開いてしまう 閉じていないやつも多いし 物理的なメディアは本当に危うい 盗まれる可能性もある しかしデジタルなデータとして表示されるとすごく怯える 物理的な世界で個人情報がばらまかれてしまったことが すぐにデジタルなデータになってしまうようになれば プライバシーの意識はずいぶん変わるのではないだろうか
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簡単に『CODE』の内容を紹介すると 新しい法律と技術に対して語られている 国家はまったく技術を規制するべきではないという考え方、 サイバーリバタリアン cyber libertarian(リバタリアンは自由至上主義) 『CODE』はサイバーリバタリアンに対抗している本でもある 国家も大事だ アーキテクチャを制限するのは国家 制限によっていい方向に持っていくことが出来る 皆さん読みましょう 『CODE』は学者的に書かれている 行動的ではない インターネットのガバナンス問題 統治 プライバシーの問題とかでひっぱりだこになっていって 運動を始めていく そのきっかけが『コモンズ』という本 それと『FREE CULTURE
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98 年か 99 年くらいに Sony Bono Copyright (Term?) Extention Act 著作権拡張法 死後 70 年保存される これはかなり長い 殆どの著作物は存在しなくなる どんどん伸びてこうなった アメリカがなぜ著作権を伸ばしているのかというと ハリウッド然り、ディズニーランド然り、一大コンテンツ国家で 知的財産の不動産業みたいなもの 著作権を延長すればするほどお金の入る期間が長くなる レッシグ著作権のありかたに関して議論をしていた 1995 年くらい エルドレッド・アシュクロフト裁判 日本でいうと青空文庫をみたいなことをやっていた 彼はパブリックドメインに入っていたものを公開していた 1998 年にロバートフロストという人の詩が切れる予定になっていたので詩を公開しようとした しかし著作権を 20 年間延長されてしまった 予定通り出版して裁判 この時にもレッシグは大きな役割を果たした creative commons という活動を始めた commons 共有知 情報社会は土地のメタファーがすごく多い スペース、フロンティア、コモンズ、etc 著作権などの問題は、この土地をどうやって囲い込むか、 あるいは共有のスペースにするかの問題として捉えられる アメリカの著作権にはパブリックドメインという考え方がある 著作権がなくなったもの 聖書とか 誰でも自由に出版していいもの public domain <-> property(所有物) creative commons はこの真ん中くらいに位置する 自分の作品にあったライセンスを選ぼう 何か文章を書いたときに 普通の著作権だといろいろなものが守られる 無料で出版するなら著作権は守られるが有料なら守られないとか そういうことはちゃんと契約しないとできない 契約のテンプレートをたくさん用意して上書きしてしまおう いろいろなテンプレートがある 改変していいとかだめだとか がちがちな著作権に風穴を開けていこう 日本でも著作権保護期間の延長問題を考える国民会議が発足して活動している 著作権も問題は 創作者の問題というよりも、私達の社会をどうデザインしていくか、情報の所有の問題 情報を誰が所有するのか ハッカーからレッシグまで問題になり続けた 経済学では土地と労働が問題になった 土地は昔から誰かの所有物だったのか 土地の所有権は近代の産物 労働力は誰のもの? 森に行って木を切っていかだを作ったらそれは僕のもの しかし社会が複雑になったら雇うということができる バイトを雇っていかだを作らせてもそのいかだはバイト達のものではない これは公正なシステムなのか?ということは延々と言われている 労働力にお金を払うのは普通の取引と違う なんでこんな事が可能なのか 私達の社会では禁じられているが 借金に苦しんでいるやつを奴隷にもできる 究極的には 情報社会ではこの問題がもう 1 度出てきている SE になる プログラムを書く 巨大な RPG のあるレンダリングの部分を 3 年間書いた しかしその人は作ったものを自分で管理できない 漫画は出版だから作家に権利がある アニメは監督が作った、演出がすごいかもしれないが 法律的には会社のもの 監督や絵コンテマンは使い捨ての労働力ではない 古典的な作家とはまったく違う職種 今世の中でクリエイターと呼ばれている者の多くは労働者 自分の創作物に関して自分で管理する権利をもっていない 消費者に尊敬されてお金ももらえるかもしれないが 創作物の権利はもっていない 誰が作ったものを誰が所有するのか 労働の問題と密接に関わっている
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ハンナ・アレント Hannah Arendt 1906 年生まれ 政治思想家 ユダヤ系ドイツ人 戦争の頃にはまだ 30 代 すごく若い頃から名前が知られていた 『全体主義の起源』 社会思想史的にも有名 『イェルサレムのアイヒマン』 ナチはユダヤ人をたくさん殺した ナチの責任者は世界中に亡命しているが、その中にアイヒマンという人がいた 鉄道を動かしていた人 なぜ鉄道が重要なのか なぜドイツ人はユダヤ人をあんなに殺せたのか 500 万人殺すには工場みたいにするしかない 1 日数千人着々と殺さなければならない ユダヤ人を運ぶための鉄道を走らせていた 几帳面に既成のダイヤをぬって真っ黒な電車が進行してそこにユダヤ人を乗せる その管理人がアイヒマンだった 南米で捕まってエルサレムで裁判が行われた アレントは裁判を聞いて、アイヒマンを徹底した凡庸さと表現した アイヒマンは悪者だけど単に鉄道を動かしていただけ 普通のどこにでもいる人 鉄道マンとしてダイヤグラムとか引いているだけで人を殺してしまう このような人間がいて、ナチの虐殺は成立した 非常に良い、大好きな本 アイヒマンの凡庸な悪と『人間の条件』、 所有物を誰が管理するのかという問題は密接に関わっている 技術の問題 技術を使って何をやるか それに対してどう責任をとるのか 自分が創りあげたものは誰のものになるのか 来週はハンナ・アレントの『人間の条件』の話をしてそれで締める