東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第8回(11/30)

# 6分ほど遅れ

こんにちはどうも

例によって雑談からはじめると
いつも遅刻して雑談ばかりしてあれですけど
今日もオフレコでよろしく

# オフレコ

大塚英志は最近柳田國男関係で何冊か本を書いた
大体一緒だから1冊読めばいい

柳田國男田山花袋は若い頃ともだち

田山花袋私小説の起源

柳田國男民俗学の創始者
どういうコンセプトで仕事をしたのかというと、山人
山の人間というのが日本の文化を伝えているみたいな

田山花袋の文学に柳田はどのような影響を与えたのか、
柳田の仕事は実は自然主義批判だ、
南方熊楠っていうのがいて
微妙に対立があったりする
南方も田山もだめで柳田がいいんだ、
みたいな話を大塚さんはしている

田山は私の人
南方はデータベースの人
柳田は物語の人
柳田は市民を育てて行くからいい
偽史サブカルチャー的に育てて行くので危険ではある
大塚さんはこういうところの感はすばらしくて優れている

私とデータベースが直結していて間がないのはセカイ系
自然主義は科学的な手法によって物事を描写する
そういう想像力が私小説になっていく
科学は博物学的なデータベースになっていく
柳田は物語で公共のことを考えた
偽史的な想像力を育てて行く
ブログ論壇なんかにスライドできそうな話

さてまあ授業やるか

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匿名性とかの話をしていた 表現の匿名性とか存在の匿名性の話をしていた 大雑把にいうと現代社会は匿名社会から顕名社会になっている 何を買ったかだけではなくて、 どういう商品と一緒に買ったのかなどがわかるようになっている クレジットカードですでにそうなっているけれど 電子マネーなどでますますそうなる 匿名性について考える 一つは表現の匿名性  誰がその情報を投げたのか もう一つは存在の匿名性  街を歩いているだけでどんどん名前が明かされる これは分けるべきだろう プライバシーの保護みたいな話をするときここらへんが分けられていなかった 今人々が気にしているのは存在の匿名性 全てに名前が明らかになって、ものがトレースされていくのが本当にいいのだろうか
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雑談その2 ふっと思い出した 先週郵便の話をした 匿名で出して匿名で届くからとても危険、という話 ここ1週間で、僕の身の回りにそういう事件がおきた 僕の伊豆の実家に手紙を娘の写真付きで送った 手紙がなくなって、中身がミニストップの商品応募券の束になっていた これはどういうことか 届いていて、封筒も封がされている 日常の謎 ミステリー すりかえられたのは郵便の経路 ポストで出している 普通は一つ一つみない 郵便物の個別性はない 個別性が現れるのは受け手側 伊豆の別荘地の郵便局で何かが起きたのだろう 娘の写真を狙っている奴ではなくて 何かの動機でそれをとって、ミニストップの応募券にすりかえた ごめんねっていう意味なんだろう 何故ミニストップなのか 謎は尽きない 宅ふぁいる便で送ればいいんじゃないかと思う 郵便って危険 こういうことが意識されていくと 匿名性がなくなって顕名になっていく
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前回は哲学的な話をしなかったけど今回はする ■Rawlsの無知のヴェール論 Rawls「正義論」 稲葉振一郎リベラリズムの存在証明」 ロールズにとって正義とは何か right <-> good 正義は善と対立する 複数の善を調停するものが正義 例えば堕胎について生命尊重派と選択尊重派の対立がある 正義は特定の価値観についての議論ではない 複数の善があってどう調停するか そんなRawls「正義論」はさまざまな論点があるけど ここで注目したいのは無知のヴェール論 富の再配分がうまくいくには、みんながそれに同意する必要がある 同意がなければ社会契約にならない 富の再配分を同意するにはどういう条件が必要か それぞれの人間はどういう財産をもっていて、 自分は相手に対してどれくらい優位かを知らないと仮定する それぞれの人間が無知だったとしたら、彼らは富を再配分をする 無知だったら同意するはずだ 無知のヴェールというのは福祉国家の理論的正当性について重要 もし無知ではなく、自分自身に圧倒的に金も能力もあることを知っていれば 富の再配分に同意しない奴が出てくる 取られるのか与えられるのかわかっていたら同意しない みんなが無知だから、社会契約を介して富の構成の配分に同意する これは仮説というより、現実においても無知 10代くらいだと将来自分がどうなるのかわからない しかしこの条件が変わってしまったらどうか みんな富の再配分に同意しないのではないか  お前は全人口の1%に入れる  お前はどんなに頑張っても下の30%だ こんなことが10代に分かってしまったら同意しない これは結構重要なんじゃないか 抽象的にいうとプロフィールの非公開性 みんながどういう人間で金持っててどんな能力があるのか 全然見えていない状態は福祉国家にとって重要 それが見えてしまうユビキタス顕名社会はプロフィールの非公開性を脅かす 具体例は難しいけれど、格差社会とかの文脈で、 親が上流の階級だと、子供の成功する確率が高いとよく言われている 今は経験的に言われているけれど 高い精度を持って相関性が与えられていた場合はどうなるのか ニート論壇というのがある 今はニートとかフリータの奴も、60くらいになったら年金貰いたくなる その時どうやって支えていくのか これは普通に思うこと しかし金持ちのひきこもりはいる そいつらは100%年金要らない ひきこもって漫画描いて儲けているやつもいる 将来何が起こるかわからないから、みんなで将来のリスクを負担するのが年金 俺はどうでもいいよ、どうせ生きていけるから、という奴がいると壊れる みんなが平等に年を取り、年を取ると収入が少なくなって 国から金をもらわないと生きていけなくなる しかしそうじゃなくなったらどうか みんながそう思わなくなって将来が見えてしまうと壊れてしまう
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■Arendtの公共性論 斎藤純一「公共性」という小さい本がある 「フェミニズム」「ポストコロニアリズム」などのシリーズの一つ アーレントという哲学者がいる ドイツ出身ユダヤ系の女性の哲学者 ナチス政権のときアメリカに亡命 若く優秀でハイデガーの愛人だったという説もある 「全体主義の起源」反ユダヤ主義の起源みたいな話 「人間の条件」ちくま学芸文庫から出ている  どっちかというと歴史書 「イェルサレムのアイヒマン」ちょっと毛色の変わっている本  ナチスのアイヒマンという男がアルゼンチンで捕まった  その裁判を傍聴したときの記録  非常にいい本 哲学書ではないから読みやすい ナチスドイツはユダヤ人を3000万人くらい虐殺している 2年間でやったとしても一日数万人ずつ殺さないといけない 物理的に大変 基本的にアウシュヴィッツに行くと分かるけど 電車が門をくぐって止まってホームのすぐそばにガス室、焼却炉、そして骨を埋める これは衝撃的 今でも行くと灰をすくえたりする アウシュヴィッツ1と2があって、短い観光だと1しか行かなかったりする 1は収容所で働かせるようなところ 人体焼却工場みたいなものはない ポーランドクラクフのビルケナーに行くことをお勧めする 全ヨーロッパから効率よく10万人ずつ集めてじゃんじゃん殺す それをやるには鉄道が必要 その隙間にユダヤ人を殺すために電車をいっぱい走らせないといけない 結構大事なところで流通の問題 ユダヤ人の体を集めてガス室に送り込む流通システムを作らないとうまくいかない アイヒマンは鉄道省かなにかでこのシステムの担当責任者だった 要するに鉄道マン まじめな鉄道マン 上から言われたことをやりました 鉄道マンとしての誇りはすごくある ディテールに対して鉄道マンとしての誇りはある 当時の技術的な水準に対して最高の仕事をした しかしそれがなんの役に立ったのかというと口ごもってしまう アイヒマンはこれを悪の卑小さといった ナチの犯罪というと崇高な悪に思われる ヒトラーが演説してユダヤ人を虐殺するみたいな しかしこれだけの虐殺を支えたのは卑小な公務員たち 彼らがいっぱい集まってかつてない虐殺が行われた という話が書いてある これは技術者の倫理にも関係している ナチの虐殺を歴史書で読んでも、鉄道の流通などの問題はでてこない 3万人とかならすぐできる 1000万人はなかなかできない ナチの虐殺は普通の虐殺とはレイヤーがちがう ナチの虐殺は食肉工場に通底しているとハイデガーはいった 同じようなロジックで支えられている 手段としては同じでちょっとだけ目的を変えるとナチみたいなことができる テクノロジーは価値中立であることの怖さ アイシュヴィッツでは人体で石鹸を作ったプールなども見てきた 当時はまだあんまり観光地化されていなかったので廃墟 数キロかける数キロの巨大な空間 結構な数の収容所がある ここに集まっていた人は人を燃やしていた どんどん運ばれてくるやつを横にやって毎日毎日人を燃やさせる くたばってくると燃やされる 過酷な世界 僕が行ったときは冷戦崩壊後数年であまり整備されていなかった 50年くらい経っているのにもかかわらず、 火事になって崩れてしまったところは、火事で崩れた状態のまま放置されている 事件の残滓がまだ残っている ある意味で感慨がある 標識もない いい加減な絵が描いてある紙が渡される ポーランド語とかなにかで、英語のないパンフレット アメリカのグローバリズムが世界を席巻していなかったので ロシア語フランス語ドイツ語とかしか通じない 森がある ここにはいろんなものがある 森の中からでっかいプールが現れる ドイツ語とかで「ここでナチスは人体から石鹸を作った」とか書いてある 森があって灰みたいなのが浮いている すごいなホロコースト ビルケナーは一番すごい 行くんだったらお勧め アーレントは「人間の条件」という本の中で、こういうことを言っている 人間の生活を3つのレヴェルに分ける ・アクション 活動 ・ワーク 創作 ・レイバー 労働 これは非常に重要な議論 牛丼屋のバイトは普通は自己実現とかはない 店長になりたい以外は 店長になったりするとどんどん生きがいを感じるらしいけど 普通はそうじゃなくてまったりいきたい 労働 レイバー まさに時間を売って金を稼ぐ ワークは作品集に近い 物を作って、作ったものが残る 職人が壺を作る 作ったものが残る アクションとはなにか アクションは政治 自分という人間を公に結び付けて 自分の尊厳を認めさせるため公に現れ言葉を交わし公共空間を作っていく 牛丼屋でバイトしてときどき漫画を描く 漫画を描くのはワーク アクションは何だろう 漫画とか描きながらデモとかにいったりするとアクションになるんだけど 行かないよねえ ブログとかかな いずれにしてもこの3つのレイヤーがあって 人間を把握するうえで非常に重要 活動は人間の本質 人間というのは活動をやるときが一番いい これがアーレントの考え方 アーレントは面白いけれどその議論はギリシャのポリスに基づいている ギリシャ人たちはまさにアクションの中に生きていた 言論空間の中に人は生きていた 近代社会になるにつれてアクションができる公共空間が失われていった 消費は労働の裏返し マックで働いて得た金でマックで食べる 金とマックが俺の中を巡回していく どうなっちゃうんだろう やばい アクションは「公」 労働の空間は、アーレントにとって「私」 生命を維持するために行われるのが労働 ものに関らない、言論だけをやるのが公共性 そういう対立がはっきりしている ギリシャ人が何故公共性の空間にいられたかというと奴隷がいたから だから今の社会に当てはめることはできない がりがり労働してる奴隷がいたから、ギリシャ人は議論ができた ここで重要なのは、 公共性において、アーレントは「あらわれ」という言葉を使った 人が人と対等に表れることが公共性のために重要 牛丼屋では店長やオーナーとの間に圧倒的にヒエラルキーがあるから「あらわれ」がない 定時に来なかったら、いくら弁論を挑んでもだめ 「あらわれ」を可能にするものが言論 現実的にはどのように実現可能なのか アーレントは匿名性の話はしていない しかし今の社会で対等なあらわれが可能なのは、匿名性によってしかない 相手が上司の親戚だったら対等なあらわれではない ネット上における匿名とか、HNによるコミュニケーションによって、 人々は対等で自由な議論ができる 公共性の概念において、アーレントの継承者であるといえる 現実に人と会うと、男性であるとかがわかってしまう  しかし通常はアーレントについて語られるとき、  肉体をはっきりさせたうえで議論を行うことが想定されている プロフィールの非公開性が対話的コミュニケーションを可能にする コミュニケーションコストという考え方がある コミュニケーションコストを下げるには、同じような人を相手にすればいい 飲み屋で合コンとかやると話が合うかわからない ネットのオフ会は気軽 話が合うことがわかっているから よく人は他者とコミュニケーションを取れと言われているけれど 何も知らない人とのコミュニケーションコストは非常に高い なんでそんなコストを払わないといけないのか 低くていいと思うなら、mixiみたいなコミュニケーションは役立つ 高いコミュニケーションコストこそが公共性だという、 知的な伝統もあったということを知ってもらいたい
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■ソール・A・クリプキの固有名論 どっちかというと分析哲学の人 クリプキの仕事はいろいろあるけど固有名が有名 「名指しと必然性」の議論は日本では有名 なぜかというと柄谷行人が『探求』のIかIIで使っているから 何が言われているのかというと、固有名とは何か、 これは結構面白い問題 「水がもし油だったら」 これは純粋に意味を成さない AがAでないものの集合に入っているから矛盾 ところがここで 「漱石がもし女だったら」 これは有意味というか有効な言説 僕たちの思考にすごく頻繁に入ってくる 何故有効なのか 固有名というのは確定記述と言われているものの束でできているという考え方 本名 夏目金之助 代表作 それから 一般名詞で書ける定義を大量に書く 大量に書いた定義を満たすものが漱石である 固有名というのは大量な一般名 一般名をandでつないでいくのが面倒だから固有名で縮約している しかしこれだと「漱石がもし女だったら」という言説が有効ではなくなる では確定記述の束に分解できない固有名の要素はなんだろうか 漱石漱石であることは、言語学的に、確定記述には分解できない 可能世界、if文を考えることで機能する これはいろんなことに対して言える みなさん大学生だから愛に関心がありそうだから 愛の問題について 相手がいるとする さまざまなプロフィールがある あなたは私が好きなのは 低い身長だから? ツンデレだから? 私が好きなのか、それともプロフィールが好きなのか 愛が愛であるといえるには、プロフィールではない何かが好きでないといけない 君がもっていない君の中にあるものが好きなのだという言説でしか語れない 違う属性になったら好きではなくなってしまうのなら萌えと変わらない 愛は属性変更可能性に強くないといけない これはさっきの固有名と同じタイプの議論 人間を人間として認めるときにこの問題が出てくる もっと先鋭な問題としてでてくるのは子供の問題 子供はどんどん性格が変わる それでも愛し続けるしかない それは何で可能なのか 人間を人間として認めて関係を持つ場合、対象はプロフィールではない コミュニケーションの性質が先鋭に表れているのが固有名 どうでもいいやつはプロフィールに分解している 重要な奴はプロフィール+αを好きになる 精神分析とかでは数式を使って問題に答えてくれる 疑似科学っぽくていい 知らなくていいけど、現代思想をやるとこういう知識も得られる 確定記述群+α(人格みたいな)=固有名 αの部分は実態的には言えない 実態的には言えないということを了解しあってコミュニケーションを作るのが人間 ある種の言語的効果しかないのだろうけど、 それを効果にしてコミュニケーションを取る 顕名社会は何を意味しているのかというと、 人格=確定記述群 あなたがあなたであることの根拠はデータベースによる、 というある種の哲学的な前提 暗黙のうちにわれわれが前提としてしまっている しかし人間のコミュニケーションはそうではないのではないか αの部分は定義的にデータベースには入ってこない 人間のコミュニケーションを円滑に進ませるには、全てが確定記述に分解される必要はない されない方がいい
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政治哲学の話、分析哲学の話を混ぜて話してきたけど同じことを言っている ある種の無知 相手がどうなのか、自分がどうなのか 無知を使うことによって人格的、対等な関係を作っていく 人間はどういうもの 近代社会がどうとか技術的なもんだいではない ある種のばば抜き 要らないからといってばばを抜いたらゲームは成立しない 余剰物を回す必要がある 人間はプロフィールに還元されるかもしれないけど、 還元されないと思うことでコミュニケーションを作る 哲学的、人文的な伝統からすると、データベースに還元するのは変な話 次回はこの続きをやりつつ情報自由論の違う話をする

授業の後、東先生に今開発しているWebアプリを触ってもらいました。割と褒めてもらえたので、営業先に「東浩紀も良いと言ってます」と主張したいところですが、彼らの多くは東浩紀なんて知らないだろうしなあ。