東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第9回(12/7)

# 6分ほど遅れ

こんにちは
まあいつもながら恒例のネットに書かないでくれ雑談で

# オフレコ

ともかくそんな雑談があって
そんな感じなんです

おもむろに授業へと向かって行くわけですが

1月22日
東工大で思想地図のシンポジウムをやる
目黒線の全車両に広告を出す
600人集客する
僕と北田さんのMAXの集客力の4倍くらいじゃないか
200人くらいしか来なかったらやばい
大変まずいことになる
最初はこじんまりとやるつもりだったから3時間も時間を取った
しかし目黒線に載ってしまった
暇な人も来る
それで3時間持たせないといけない
僕の人生の中でもっともハードルの高い講演会
ここらへんの近辺で授業一回休んでこっちに出てもらおうと思う
お願いですから出てください
こんな集客能力はない
何が600人だ
「国家・暴力・ナショナリズム」で600人集めるなんて無理だ

  • -
匿名性の話をした 表現の匿名性についてちょっと補足 ちょっと振り返っておくと面白い話 ISEDというのをGLOCOMでやっていた 単行本で出るけど700ページ×2くらいになる すっごく長い 本を出すときは校閲をやる 800ページとかになってくると、校閲をやる人のスケジュールを押さえるのが大変 本当は来年の3月くらいに出る予定だったけど あまりにも量が多いので秋ごろになりそう 議事録そのものは今でもネットで見られる 本にしたら議事録消えるかもしれないのでネットで見たい人は今のうちに 倫理研 第3回 ネットで公共圏は成立するか この問いはおかしくて、むしろネットの問題はすべてが公的になってしまうことが問題 どうやって私的領域を確保するのが大事になるのではないか 2005年でSNSが普及する前だから多少は先見性のある議論だった 2005年の年初だと、ようやくブログとかが出てきたころで 人々が世界中にどんどん手軽に言論を発表できるようになってよかったと言い出されたころに 私的領域の確保が必要なのではないかと言った 自殺予告、ネット心中 すごくプライヴェートなこと これらは今は警察が介入できるけど当時はできなかった 公権力は介入できるのか、どうかどういう根拠でできるのかを話した アクセス制限のかけられている領域、かけられていない領域を区別する かけられていない領域では顕名、 かけられている領域では匿名でやるのがいいのではないか しかし本当にそれでいいのか 日本のユーザはつながりの社会性を求めている つながりの社会性をポジティヴに捉えると ブログに書くと、コメントがついて、新しい仕事が得られるみたいな感じ しかし実際はその場限りの祭り アクセス制限のかけられた場でそれは機能するのか 公的な空間では一個人として発言する プライヴェートでは責任のない発言をする 無責任な発言を公的な空間に投げる 2chとかそういう半ば公的な空間に無責任な発言を行う こういうつながりの自由もある 匿名発言こそが公共空間に流れる 悪口でつながる自由 梅田望夫氏がどこかで、 日本のネットはあまり人を褒めない、お互いに褒めて盛り上げて行くべきだ、といった しかし日本のネットではそういうものはうざいと思われる あいつうざい あいつきもい 悪口でつながる 嘆かわしいけど国民性なのかもしれない 現状としてそうなっている 日本のネットワーカーが求めるのは悪口でつながる自由 これはとても厄介 制限のかけられている領域でのみ悪口を言えというのは通らない みんな公的な空間で悪口をやりたい それも匿名で 表現の匿名性と存在の匿名性 表現というのは自分が何か発信する これは責任が伴うから顕名になってもしょうがない ものを受け取る、知覚するというのは受身だから そのことについて責任を取る必要はないから匿名でいい しかしその間のような欲望もある これがつながりの自由なのではないか 表現の匿名性が生き残って行く 明白な結論はないけれどちょっと考えていく必要がある 強い表現の匿名性 良い意味では内部告発 悪い意味では爆破予告 高いリスクがあるので発信者を隠したい メッセージ志向 コンテンツ志向 内容が危険だから発信者を隠したいという匿名性 つながりの社会性の匿名性 コミュニケーション志向 メタメッセージ志向 内容はどうでもいい ある内容についてみんなでだらーっとつながりたい 固有名は邪魔 みんなでお祭りで騒いでいる間は、 一人一人俺はこういう人で、こういう意図で、といっていたらうざい ここら辺の話はあんまりまとまっていないのでここまでしか議論が進まないけど 考えるに値すること はてなはすっかり村化していて、同じ話題でぐるぐるぐるぐる、と批判されているけど 僕ははてなをよくチェックしている 終わった話ってあるじゃないですか、非モテとか 誰か抱いてくれないか、とか これは面白い匿名性 ある欲望に駆られてすごくプライヴェートなことをさらしている 内部告発とか爆破予告とはぜんぜん違う 新しい技術が可能にしたこと hashigotanという人は、初めは女か男かもわからなかった 一人称も俺だったし そのうち女であることがわかり 性的な欲望というかパートナーを求めていることが分かり 男からメールがわらわらとか ああいうタイプの欲望はインターネットが可能にした欲望 アーレント的には、欲望はちゃんと身体をもって表れないといけない、と簡単にいわれるけど、 ああいう書き手の仮想的なものと身体的なものの混じった欲望は 一方ではすごく匿名 一方ではすごく私的 実際にメールくれた人と出会ったりする そのこともおそらく書くでしょう リアルな現実とも関係しているのに、 彼女の顔や、どういう人なのかは、実際に会った人以外はわからない そういうタイプのコミュニケーションとかアイデンティティのありかた 弱い匿名性というのはそういうことも関係している
  • -
あと、『情報自由論』について言っておくべき事は 情報社会について考えていくときよく言われている話であるけれど、 最後に2つの本を挙げている ・『1984年』  ビッグブラザー  架空のディストピア小説 ・``Brave New World''(『すばらしい新世界』)  違うタイプのディストピア小説  二つのF フロイトとフォード  フロイトは心を操る技術一般の創始者  フォードは大量生産  2つが合体したところにできるディストピア 両方とも文庫で出ているので二つとも読んでおいたほうが良い 明らかな対比は 1984はみんな不幸 Brave New WorldはみんなHappy これがはっきりした違い 1984は共産主義ディストピア Brave New Worldは資本主義のディストピア Brave New Worldの冒頭は、人工子宮で子供がどんどん生まれてくる描写 DNAとかよく分かっていなかった頃の茫漠とした想像力だけど、 何か遺伝子操作が行われていて、 胎児が人工子宮で育つ間に遺伝子操作か脳生理学的の何かが行われて 人間がランク付けさけられる 労働階級は労働しているとハッピーになれるように条件付けされる この世界では薬物が発達している 絶えず薬が与えられている とにかくハッピーな管理社会 1984はすごくよく引かれる小説だけど Brave New Worldの方が面白いのではないか Brave New Worldは生物的 1984はまさに監視 1984は規律訓練型権力の果て ビッグブラザーがみんなを見ているだからちゃんとやれ でも実際にはいない フーコーパノプティコンで描いていることと同じ Brave New Worldは環境管理社会の極限 作者のハクスリーの弟か何かが生物学者だったりしてそういうのに詳しいためか、 管理するのは生物的な、化学的な基盤 今は現実には情報操作みたいになっている 人間は脳に電極を突っ込まれて操作されるとやばい感じがするけど サブリミナルだったらそうではない 認知心理学的な情報的な管理になっている そういうところを除けば、Brave New Worldは管理社会の極限を描いているといえる 規律社会は欲望の否定 規律訓練はそういうもの すごく脂っこいものを食いたいと思ったとする 規律訓練社会だったら、 でぶになってはいけないから食ってはいけないという規範意識を埋め込む 環境管理的な方法はどんなのがあるんだろう ないなあ だめだなこの例は 飲酒運転はできるけどするな それはやってはいけないと教育していく そういうこと言われると人は落ち込むから不幸な感じがする 環境管理では飲酒をすると車は動かない 欲望を抑圧されたという感覚すら起こらない 欲望を肯定した上でどうコントロールするかというのが環境管理型社会のひとつの方向 1984は欲望の抑圧の小説 Brave New Worldは欲望の肯定の小説 フロイトの評価の一つはセックス肯定 私たちは普段いかにセックスを抑圧して生きているか すごく素朴な理解だと、みんなセックスしたいんだということ ヴィルヘルム・ライヒという人がいた 最初の頃は、フロイトの読解、社会的なもの、精神分析的なものを混ぜ合わせる良い仕事をしていたが、 その後、空気中に満ちている性エネルギーを溜める箱を作ったりした フロイトには、 自我心理学な一派 ラカンみたいな存在的心理学な一派 セックス万歳主義みたいにカルト化していく一派があった ハクスリーが取り上げているのはカルト化して行くフロイト フォードは大量生産大量消費の父みたいな人 次から次へ新しいものを作る これが豊かさの指標 二つのF これはすごい象徴的で 今の僕たちもこの呪いから抜け出せていない hashigotanのブログは、自分がどんな心の悩みを抱えているかという話ばかり 心をどうコントロールするか 20世紀の消費社会の基本的な問題 そういうことを象徴している ヘーゲルという人がいて ヘーゲルを読んだコジェーヴという人がいて コジェーヴを読んだフランシス・フクヤマという人がいる 歴史の終わり、弁証法の精神史のプロセスが終わった とか書いて有名になった ポストヒューマンフューチャー 原題は、ポスト人間の未来、みたいなタイトルだったけどこの本の中で 『すばらしい新世界』を挙げている コジェーヴは人間の時代が終わった後、動物の時代が来ると言った 何かを欲望するとそれが満たされる 環境と欲望のぶつかり合いがない 毎日毎日欲求そのまま満たされてそして死ぬ 世界は動物化していく 『動物化するポストモダン』はフクヤマの名前こそ出していないけど すごくそういう見方をしている フクヤマはバイオテクノロジーに言及している ・抑うつ剤のプロザック うつが治るどころかすごく明るい性格になる 服用しすぎて社会問題化した 人間が人間である根拠は、人間と困難との戦いの中から弁証法的に新しい人間が出てくるところ しかしプロザックのような薬によって問題を乗り越えるようになる これは人間性を捨てているようなものではないか これは面白い論点 ・リベラルな優生学 これはどういう意味かというと 優生学というのは19世紀に始まってナチスドイツで使われたりした 乱暴に言うと、 劣勢の遺伝子、頭悪い、顔悪い、そういう奴らを殺したら 美男美女ができるんじゃないかということ われわれの社会はそんなものは認めない しかし胎児の段階でヘテロセクシャルホモセクシャルであるかわかるようになったとする ホモセクシャルを認めているような人でも 自分の子供がホモセクシャルなのは嫌なんじゃないか 優生学なんて必要なく、ただ市場原理に基づいて、プライヴェートな判断によって、 ホモセクシャルがなくなっていく プロザックは人間の欲望による環境のコントロールで主体が曖昧になる リベラルな優生学は自分の周りの局所的な功利的な判断によって優生学のようなものになる 公的な価値観私的な価値観が切り離されて行く さまざまな情報がインターネットで手に入るようになり、 自分の周りにどういう人が住んでいてどういう地域で年収がどれくらい外国人がどれくらい そういう情報が手に入る時代がくるかもしれない もちろん私たちは外国人を差別しない でも外国人はちょっと不安 できれば外国人が住んでいないところに住みたいと思う 結果、外国人が住みにくい世界になる リスクはかつて数量化できなかった リスクが数量化できて、各々がそれを最小化しようとすると これまで人類がもっていた寛容さ、多様さが維持できなくなるのではないか 子供を作った場合、すごく頭が悪いかもしれないし良いかもしれない ホモセクシャルかもしれないし病気があるかもしれない 今はリスク管理できないからなんとなくやっちゃってる リスク管理できるようになったら多様性はどうなるのか リスク管理自体は価値中立のように見える ・住む場所を選ぶ ・結婚相手を選ぶ ・子供をどこの学校に行かすか ・経営者となって従業員を選ぶ 大抵は相手側の情報は見えない どういうプロフィールでどういう人生を送ってきたのか わからないから、リスク管理できないから、多様性を肯定する わかるようになったら多様性はどこまで維持できるのか リスクは数量的に計れると局所的な合理性だけではなく 人間の場合は心理も影響する むやみに不安となってその影響が社会にもたらされる 僕は娘が生まれたからやたらと娘の写真をブログに載せたりする 非難をときどき受ける しかし皆さん知っているか 子供雑誌では読者モデルの実名、親の職業といったものを出している どうしてネットでは危険な感じがするのか 子供雑誌は子供のいる親しか読まない 君たちは「おかあさんといっしょ」なんて見ないだろうけど 実名で家の中までカメラ入ってがりがりやっている ネットで写真を載せることがいかにちょろいか 子供が居ない人からすると、ネットに娘の写真を載せることが非常識に見える それぞれのある種の蛸壺の中では当たり前のことだと処理されていたことが 他の規範を持っている人からはすごくリスクが高く見える 大したことがない、といって処理されていたことがそうではなくなる 不安の水位が上がる リスクが数値化できるようになるだけではなく、 異なった規範、常識がぶつかり合って リスクよりも数値化できない不安が巨大化する 赤木智弘さんという若い評論家がいる 『若者を見殺しにする国』という本を出した 「論座」で「「丸山眞男」をひっぱたきたい」という問題提起をした 30代のフリータは戦争とか起こせ 富裕層はどうでもいいと思っている 六本木ヒルズ田園調布に住んでいる人はどうでもいい 近くで同じ街に住んでいるのに、あいつは将来の不安がない、俺は不安だらけ 階級格差の闘争ではない 赤木さんの考えでは、富裕層は遠すぎて見えない 中流からそれ以下の人を平等にしてくれという問題提起 なんでこういう問題提起が起こりうるのか インターネットが深く関っている 自分と同じ年の人間がどういうものを買ってお金を使っているのか かつてないほど見えるようになっている クラスメイトの親父がいくらくらい年収があるか 実家がどのくらい広いか 昔はよっぽど親しくないかわからなかった しかしブログとかmixiでどんどん書いている そうするとわかる あれっ俺って貧乏なんじゃないのか もうみんな童貞じゃないのか そういうことに気が付く これは本質的な意味を持ち始めているのではないか お互いにプライヴェートなことがすごく見える 80年代の差異のゲームは見せびらかし消費だけで生活全体は違った mixiのような私的な領域が公的な領域に繋がっているようなところでは、 生活全体が差異になる すごく近いところの差異が巨大化する 家族構成も変わらないのにあいつは年収500万で俺は年収200万のフリーター なぜだ 今までにないかたちの心理的な不安 大局的な判断を誤らせる プロザックAmazonのリコメンデーションに近い 誘導されてクリックしていく これは主体的な自由なんだろうか 何が自由なのか そういうわけで フクヤマのすばらしい新世界の読解は役立つ 情報自由論で補うべきところはそんなもんでしょうか 気が向いたら読んでください
  • -
ここから先は 「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」 について数回授業をやる 「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」って奴は 打って変わって哲学的かつ文学的 元々僕はそういう仕事をしていたのでそういう授業をやるのもいいかな 気が向いたら買って読んでください 同時期にジャック・デリダについて博士論文書いたりいろいろやっている 僕がやっている仕事が分裂しているように見えるのは これが本にならなかったことが大きい この論文はとてもまとまっていないけど ある意味で僕がやっていた仕事のコアにある ポストモダンと情報社会の問題提起もここから発生している このエッセンスを伝えようかなと 空間の隠喩 不気味なもの これまで社会論とやっていたのに、急に抽象的な感じがして戸惑うかもしれないけど 空間は視覚 ヴァーチャルワールドのようなものが我々の社会とは別にあって、いったりきたりする そういうイメージは間違いであって ヴァーチャルワールドは空間の捉え方をかく乱するもの こういうことを難しく言ったのがこの論文 空間的な配置 親密かそうでないか 自分は自分にとって一番親密 家族も親密 学校はちょっと親密 遠いところに違う世界 携帯電話やポケベル少女 若き宮台さんがポケベル少女、援交とかのフィールドワークで快調に活躍していた そういうことを少しは僕は意識していた 援交世代よりも上の世代から不気味に見えたのは ポケベルとかケータイが大きいと思った セックスは基本的にすごく近くまで他者がやってくるところ 空間的な接近なプロセスに他ならない 動物はある程度の距離になったら喧嘩する 文化によって違うけど適性距離が決まっている 求愛行為は距離0まで持っていく これをいきなり他人とやってしまう これがセックスワーカーに対する戸惑いを与ええる セックスワーカーを排除する以前に戸惑いがある ぽんっと人間の距離を飛び越える 援交少女は何でいきなり体を許すのか すごく遠い他者と距離0になるのか これは今でも受け継がれている hashigotanの話 なんでブログ上でいきなり私とセックスしませんかと言い出すのか なんでこんなことが可能になるのか 普通のリアルな社会に住んでいると戸惑いがある 空間的秩序が壊れていることの戸惑い インターネット、電話、電子メディアっていうのは 人間がもともともっている空間的な秩序を壊していく役割があるのではないか 空間的秩序対テレメディアみたいなことを考えていた 情報通信というものが整備されていくと、根底の空間的秩序が崩れて行く こういう図式でメディア論、メディア史を見ていくと良いんじゃないか マクルーハンという人がいた グローバル・ヴィレッジ メディア論の創始者 1960年くらいに活躍していて代表作は『グーテンベルクの銀河系』 メディア論ではなく文学研究 一部にすごくメディア論的なところがあってそこが高く評価されている いずれにしてもマクルーハンはグローバル・ヴィレッジという事を言った グローバル・ヴィレッジは地球大の村 単にインターネットのせいで地球が一個の村になってよかった というだけではなく 活字は朗読とは違って個人で向かい合って読む 本を読むというのは個人が回りと切り離されて本に向かう 演劇などは違う テレビとかラジオは前感覚的な共有を復活させているメディアだとマクルーハンは考えた それが地球大に広がったのがグローバル・ヴィレッジ 前近代的な村に飲み込まれる グローバル・ヴィレッジの考えでは、 テレメディアは空間の秩序を一個の村にする これは間違っているのではないか 我々ははたして、インターネットに接続して、世界を村だと感じているか 南米の誰かと一瞬ですぐに連絡が取れる それは可能になった しかしインターネットは非常に広大な空間で、それ自体が宇宙のようなもの その宇宙の中で誰とコミュニケーションしてどういう情報を集めていくのか見えない それがインターネット 空間的秩序対テレメディアというのは、 視覚的秩序 対 非視覚的秩序と言い換えることができる インターネットは非視覚的世界 WWW ウェブブラウザによるハイパーリンクのわかりやすいシステム ああいうものがあるのでネットは視覚的な感じがするけど あるページをみている時その隣のページはわからない 隣のサーバのファイルは見えない ある経路しかない 空間はそういうものではない 空間でばっと見たときに近傍空間が見える インターネットではそうではない 誰かにアクセスし、またそこからアクセスする 近傍にどういう人がいるのか分からない ハイパーリンクは非視覚的な世界 視覚的な性質をインターネットは持っていない こういうことを軸にしてメディア論について考えると面白いのではないか これが「サイバースペース〜」のメインモチーフ テレメディアが支配した世界 どういう世界なのか 視覚的で空間的な世界認識というのは 近代社会にとってすごく重要 パノプティコンのような近代における権力というのは 見られていないのに自分を自分でコントロール 常に見られている人間 世界を見ている人間 情報革命が引き起こしているのは 我々は世界が見えないということ 経路しかない 空間はない 空間対経路といってもいい すごく遠くのものに簡単に到達できるけどそこには経路しかない そのことによって我々の世界認識はどう変わるのか 精神分析はすごく映画に似ている なぜか これは次回に持ち越すけど 簡単に言うと、映画は中に何が写っているのかと別にフレームがある 中に映っているもの+フレームの選択 カメラは時間がたつにつれてフレームが動く 中に映っているものと、どういうふうにフレームで世界を切り取っているかということ 2つのレイヤーがある 主体とか想像界象徴界の関係に似ている 1895年はルミエール兄弟が映画を取った年 フロイトも本を出した これらは人間を視覚的なメタファーで捉えた芸術であり理論である 今はインターネットによってむしろ全く違うタイプの世界の出現を見ている どういう新しい主体の理論、人間の理論を考えることができるのか おお、なんかすごく新しいことが言われるのではないか と思うかもしれないけど 「サーバースペース〜」では 新しいことは断片的に良く分からないまま進んで行くことが明らかになる ポストモダンは80年代の流行 僕がポストモダニティで言っているのは 非空間的、非視覚的な世界の登場 この話がないので僕の議論は変なふうに捉えられる
  • -
来週はこの年の最後の授業になるのかな 今年はあと1回あって 1月22日に一回分振り替えるけど話が尽きないようであればやる