東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第11回(1/11)

# 7分遅れ

あけましておめでとうございます

大変風邪気味

1月22日のシンポジウムは
講堂で600人入るところでやっており
目黒線の広告も高いのに
いつの間にか広告費が積み上げられている
東さん期待しますよとか言われて大変やばい

残りの授業日程が変則的
11、16、25、30日
この25日をやめて、22日のシンポジウムを出席に振り替える
これで200人とかしか来なかったら僕も終わり
すかすかなことは目に見えているが
しかしすかすかというわけにはいかない
22日に出席しないと単位とかなくなるらしいよ、とか
授業取ってる人に適当な嘘をついて集めてください

授業は今日を入れて多分あと3回

というわけで授業の続きとなるわけですが
あんまり覚えていない

雑談
といってもあまり雑談もない
仕事らしい仕事もしていない
外国とかに旅行に行ったわけでもない
実家に行って寒くて風邪ひいたくらい

東工大の図書館を利用した
『動物化するポストモダン』が間違った著者名で登録されていて
東浩紀で検索すると出てこない
しかも副題で登録されているのでタイトルでも出てこない
誰かあれを直したらいいんじゃないかなあと思います

# プロジェクターでスライドを映す準備をしつつ
このMacはすごく遅い
こういう使用に耐えない
だめだ
Macがまずいことになっているので諦めます

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サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」の続き 視覚の話をしていた 近代は視覚的な時代だった それに対してポストモダンは非視覚的 視覚的なメタファーで捉えられない 近代は映写モデル 大きな物語が一人一人に小さな物語を配分している 三角形の構造 この構造は映画の構造にすごく似ていて 大文字の映写技師がスクリーンに映画を映している 近代的な主体性は二重の視点になっている  大文字の他者  真ん中にスクリーン(世界)  自分 世界の中の誰か、現実のお父さん、学校の先生といった小文字の他者に対して同一化する これはイマジネールな同一化 人間が人間たる所以は他人を支えている後ろにいる大きな他者にも同一化する これはサンボリックな同一化 この二重の同一化が大事 この構造は同時に映画のメタファーでも捉えられる タレントに同一化するのはイマジネールな同一化 しかしシネフィルはカメラに注目する カメラが世界をどう切り取っているかに関心を持つ 精神分析と映画というのは両方とも1895年に誕生している 歴史的にも時代が同じ 映画的主体としての近代的主体 こういう視覚の話は「サイバースペース〜」ではしていないけど この二重性はフーコーのdisciplineの話でもある 前近代において人々は目の前に見えている人間から監視されていた 王は犯罪者を罰する姿を人々に見せる 私は合法的に殺せるということを示し人々を威武する 王は見えるもの 見えるものが抑圧していた 近代は王が後ろに退いて見えなくなった パノプティコンで描いた権力の構造は、私が私を監視する構造 監視している人間を有らしめている社会こそが大事 先生のような目の前に監視人がいるからではなく、 誰も居なくても、大文字のSの視点が内面化されているので悪いことをしない こういう話でジョナサン・クレーリーという人の本が参考になる フーコーの視覚に焦点をあてた視覚的な装置の発展史 フーコーとかラカンとかはすごく視覚的な思想家 これはフランス現代思想を読むときに頭に入れておいた方がいい デリダはそうではなく視覚的ではない人 デリダは文字に関心を持つ グラマトロジー マヤ文字の話 すごく変な象形文字 木の絵があったとする これは木という意味を表すと同時にキという音を表すのにも使える 木を三つ並べると、木が3つかもしれないしキキキという音かもしれない この線の連なりは一方では意味になる 視覚的連想が働く 他方では音になる 聴覚 文字は目と耳の中間 両方にまたがって情報処理されてしまうということをデリダは言っている コミケで風邪をうつされたと思う コミケは危険 娘を生後半年くらいのときにコミケに連れて行ったら風邪ひいてそれ以来連れて行っていない コミケは免疫の強い20代が行くところで、老人とか連れて行ったらまずいんじゃないか 元々デリダフッサールハイデガーの研究から始まっている フッサール現象学という概念を作った人 これはすごく視覚的なメタファーの哲学 「現象」自体に視覚的メタファーが入っている 『存在論的、郵便的』にも書いた 私が居て世界がある、という構造から始める 自分が絶対見えないのは私 世界の様々な物象を扱うのが諸々の学問 見る側としての私を考えるのが哲学 これをどんどん発展させたのが現象学 ハイデガーは遥かに神秘的な思想 私は世界の中にも居る メタレヴェルとオブジェクトレヴェルに同時に居る 私の哲学的不思議さはメタレヴェルにあることではなくて 世界を有らしめているのにも関わらず オブジェクトレヴェルにもあるレヴェル的混同、短絡性にある 私はDasein 現存在 ハイデガーの言葉遣いは神秘的だけど数学的 世界の中にある私は存在者 私は存在者でありながら存在だから現存在 存在者は存在しているものing現在分詞 存在は不定詞 文法的に分けている オブジェクトレヴェルとメタレヴェルを繋ぎとめていることの根拠は何か ここから神秘思想化していく 僕は肉体であると同時に主体 何故同じ精神として同じ中にあるのか それは「存在の声」があるからだ フッサールはメタとオブジェクトを分けて頑張る ハイデガーは分けられない、ぴったり一致する それは何故か 声によって繋がっているから デリダの博士論文はフッサールについてだけど、 デリダを有名にしたのは『声と現象』という本 これが実質的なデビュー作 メタとオブジェクトを絶えず一致させている声によって現象学が保たれている しかし荒っぽいメタファーでしかないので、ここは脱構築しなければならない フッサールが目の人でハイデガーは声の人だとしたら、デリダは文字の人 メタレヴェルとオブジェクトレヴェルが分けられないというのは 西洋では20世紀のはじめから延々とやっている 同時にたやすく並べてしまうのが人間の認識の特徴 ここに大きな問題がある 元々哲学は数学に近い ゲーデルとかラッセルとか 世界をちゃんとレヴェルで分けて、世界の記述を論理的にやりたいが 集合論とかを取り入れるとそれは出来ないらしい これに反応しているのがフッサールとかハイデガー メタレヴェルとオブジェクトレヴェルを同時に認識するから人間はすごい、 というのをデリダは批判している 同時に認識できるのは単に書かれるからだ 書かれるというのは重要 コンピュータではデータとプログラムは同じように書かれてしまう 文章として書かれてしまうと両方とも文章になってしまう 私が日本人だ 「私が日本人だ」 カギ括弧を付けるとレヴェルが変わるけど、全体を見ないとわからない 書かれた瞬間はオブジェクトレヴェルでもメタレヴェルでも同じ 人間特有の認識能力ではなく、単に世界が文字で書かれているから、 オブジェクトレヴェルとメタレヴェルが分かれていないように見える 近代は視覚のメタファー ポストモダンは文字のメタファーで考えるべき 視覚的、空間的なメタファーでは捉えられない記号だけが集積された世界 文字の話からデータベースのメタファーが出てくる これが『動物化するポストモダン』に繋がる 僕の中核の仕事
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話を近代的主体とポストモダン的主体に置き換える 近代的主体は視覚の主体 ポストモダン的主体は文字の主体 まさに近代の主体は映画的構造で、 イマジネールな想像的同一化と象徴的同一化という二つの同一化が組み合わさって成立している 見える同一化と見えない同一化で二重性が確保される ポストモダンになったらどうなるのか 見える、見えないでは世界は捉えられないのではないか 近代の主体はどういうものか 僕が様々なキャラを演じていたとする ここでは東工大の教授としてのキャラ コミケでは売り子としてのキャラ 僕もまったく気づいていない変態的欲望を抱えた俺が沸き起こってきてやばいとか そういうものの背景にグレート東というものがあってサブ人格をコントロールしている 見えないところに本当の僕がいるというのが近代的なモデル 全てがフラットになってしまう書かれるものの世界では、グレート東もキャラに落ちてくる 人間は状況状況に応じて性格を使い分ける これは昔から変わらない 全ての状況において統一した人格で相手をしているわけがない しかし背後に本当の自分が居て統一性を与えていると考えられてきた しかしポストモダン的主体は それすらブログ上の人格、書かれるもの、世界の中でキャラ化されてしまう という病を抱えているのではないか 背後にはある種共通記憶みたいなものしかない 共通記憶の一部を呼び出すとある人格が出てくるのではないか 背後にあるのが隠れた人格だったのが単なるデータベースになっていく 近代的主体からポストモダン的主体に移っていくのではないか 多重人格 解離性同一性障害 精神医学は人文的歴史を考える上ではとても面白い存在 フロイトの時代はヒステリーがすごく流行っていた 19世紀末のウイーンで流行っていた ヒステリーとは何か 中年の女性が叫びだしたりぶっ倒れたり しかし今はあまり見ない 精神医学的には流行り廃りがある そういう意味で多重人格は時代的な現象 イアン・ハッキングという人の『記憶を書きかえる』という本 多重人格は文化的な現象 そもそも1950年くらいまで多重人格は世界になかった 二重人格は19世紀からあった ジキルとハイド 狐憑シャーマニズム しかし人格がどんどん変わるということはなかった 50年代くらいからどんどん出てきてそういう小説がヒットしていく 多重人格を題材にした小説とかノンフィクションがヒットして また症例が増えて本が出てヒットして…の繰り返し ダニエル・キイスの『24人のビリー・ミリガン』 5歳か6歳くらいの子供から50の親父とか様々なキャラクターがいて ヒエラルキーがあってこいつがいるとこいつが出てこない こいつとこいつは話し合えるけど云々 一時期日本でもすごく流行った ハッキングが言っているのは、多重人格は一種の文化運動 主体の考え方が変わっていくのと連動している 多重人格のサブ人格として設定されるキャラクターが映画とか漫画に近い 類型的なキャラクターが発見されることが多い 単なる病気というよりもサブカルチャーポップカルチャーから影響を受けている 心というものに対する新しい捉え方をしている、という傍証みたいなもの 記憶だけが自分、記憶から一部を取り出して人格になる、 という人間モデルになっているのではないか 実際の人間はそう簡単に変わらないから無意味だ、という反論もあるが 実際の人間の心がどうかは関係ない しかし心について私たちがどう思っているかはどんどん変わっている 西洋的な近代が存在するまで恋愛という概念はなかった 恋愛は唯一的な運命的な関係性があるけど、こういう概念は文化的に生み出される 西洋的な自我が無ければ恋愛も無い 西洋的な自我は文化的に作られている 生理的な、心情的なものの愛は昔からあったが、 その上に重なっている恋愛をどう思い込むかはどんどん変わる 心がどう変わったかではなくて、心についてどう幻想を抱くようになったか 見えない俺が統御しているというのは超自我と自我 様々な自我がでてくるものがある その後ろに超自我がある この二重性が20世紀的な精神分析的な心についての考え方 ポストモダンでは超自我は単なる記憶のデータベースという発想に変わっている 人間は昔のことはマジで忘れる 5年間やったこととかを忘れていく 自分の今の人生に繋がっていることは忘れていない 繋がっていないことはぼこんと忘れてしまう じゃあ人間は自分というものを歴史をもって生きていくにはどうすればいいか 絶えず昔のことを思い出す、日記を付ける そうでないと覚えていない インターネット以降の世代であれば、デスクトップで検索、みたいなイメージをしやすいと思う メールとかの外部記憶として全て蓄積されていれば、 それを読んで当時の自分の気持ちが盛り上がってくるみたいな 人間はそうなっていい生物 技術的条件と社会的条件はcorrespondし合う ライフログが急速な形で発展している背景には、 人間モデルに変貌があって、 自分たちの人間的な中核がデータベースだと思い始めてきているからではないか 19世紀に同じ技術があってもライフログを作ろうとしないのではないか
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ここまでが「サイバースペース〜」の1回から6回くらいの話 7回からは『ヴァリス』という小説の読み ただしこれは謎めいてくるので飛ばす フィリップ・K・ディックの『ヴァリス』という小説を 今の情報社会から読み直す 飛ばすとかいって飛ばしていない 2人登場人物が出てくる ファットとソフィア 本当はそうなっていないけどある種の近代性とポストモダン性を象徴している オブジェクトレヴェルとメタレヴェルの無限後退がディックのテーマだけど ソフィアは近代的なやり方で脱出 ファットはポストモダン的なやり方で脱出 もし興味があったら読んでみてください
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第8回では デリダとコンピュータ科学を結び付けられるのではないか、 ということをちょっとやっている メタレヴェルとオブジェクトレヴェルが一緒になるのは コンピュータのデスクトップを見ればわかるのではないか コンピュータのデスクトップはすごく面白い 様々な映像がデスクトップ上で見られる デスクトップは空間ではない 僕たちの持っている空間性とはまったく異質の論理で作られている視覚的平面 油絵の向こうには描かれているものがある 現代美術とかでは平面そのものの物質性を示す平面 真っ白なキャンパスだったりする コンピュータのデスクトップの向こうには何も無いけど 平面の上には色々なものがあってクリックしたりすると別の画面が出てくる 別の画面もまた空間というわけではない まったく経験したことのない空間性、視覚性がある ポストモダン的主体を考える上で大きなヒントになるのではないか YouTubeとかニコニコ動画が明らかにしているけど、 今まで映像を見るといったら 新聞で広告を見る、映画館に行く、帰ってきて映画雑誌やプログラムを読む、というルート 新聞を開くという行為があって 映画館では映像とだけ向かい合う空間、時間がある 映画について知りたかったら映画雑誌という異なったメディアがある これが映画を見るということ 単に映像とか映画だけを見ているわけではない ニコニコ動画になるとクリック、コメント、ほとんどデスクトップ上に収まっている 本とかも最終的にはほとんどデスクトップで読めるようになる デスクトップ上に集約される 映画館はコンテンツ 新聞や雑誌はメタコンテンツ 昔は空間的に切り離されていた コンテンツだけ需要される空間の物理的な外側に映画雑誌や新聞があった インターネットは空間性を壊してしまう このニコニコ動画面白いという記事を読んで同じブラウザでそれを開く コンテンツとメタコンテンツの境界が崩されている 僕たちの認識はメタレヴェルとオブジェクトレヴェルを分けないといけない 南京大虐殺を朝日はあったと言っている 誰々は無かったと言っている 括弧入れして相対化している デスクトップという視覚的な空間はその境界を次から次へと壊していくように機能する 僕たちが本を読む時、本だけを読んでいない 講談社BOXに収められている時点で、ある読者は獲得でき、別な読者は獲得できない 流通のシステムまで含めて本 みんなが等価に発信できる意味は、パッケージというものがなくなる 標準化されたパッケージで全て流れる 本がこういうふうにデザインされているからこういうふうに読むべきだ という暗黙知からインターネットでは引き離される 近代的な主体は映画をモデルにしている 映画は映画館で見ることまで映画 今では映画を見るにしても家で見たりする トイレに行きたくなったら止める、巻き戻す これはラカンが考えていた映画の体験とは違う ますますオブジェクトレヴェルとメタレヴェルの区別が付かなくなっている そういう連載
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9回、10回では未来学の話をしている 今はネットで検索してもあまり出てこない情報だけど 1970年代くらいに未来学がもてはやされていた 大阪万博の時代 ある種の経済予測に基づいた楽観的な近代主義の拡張、楽観的な社会観 1950年代ではここまで人間できるようになった 19xx年ではここまでできるようになるだろう 地球をコントロールし宇宙に進出できるようになるだろう 今までは産業社会、じゃあポスト産業社会はどうなるのか 情報の時代 世界中の知が結びついていろいろなことができるようになる その頃テクノロジーとして想定されていたのはメインフレームとか電送新聞 未来学的な情報社会のイメージ ハッカー的なイメージと対立しているが密輸入もしている サイバーパンクでは人間をサイボーグとかグロテスクに変えていく サブカルチャーとも結びついているイメージ 未来学的イメージに対するアンチ 『ウェブ進化論』は未来学的 メインフレームも電送新聞もないけど ますます情報発信してクリエイティヴになるというのは未来学的イメージ 梅田望夫的な楽観主義は今でもすごく根強い しかしそれはまったく幻想 これから出てくるのはすごくシビアな状況 『フラット化する社会』 アメリカの税理士はインドの税理士と戦っている アメリカよりもインドの方が安いからインドに発注する それは何を意味するのか ネットワークは地理的な境界を消してしまう ドカタはインターネットでアウトソースできない 税理士だったらインド人でもOK 何がアウトソースできて何がアウトソースできないのか アウトソースできるのは、今ホワイトカラーがやっている仕事 高学歴、高収入が貰えている人の仕事 日本だと日本語という言語の壁があるけど 完全なWeb2.0的な時代が来ると、 世界中の消費者を対象に仕事をしている人が一番国際的な競争力に晒される 国家資格によって守られているものは別の問題が生じてくると思うけど そうじゃない仕事は知的な仕事ほど安い国に流れていくので先進国で維持できなくなる クリエイティヴやコンテンツも怪しくなる 監督とかはクリエイティヴかもしれないけど他はITドカタみたいなもの FFで木しか作らなかった 葉っぱだけを作り続けてきた 『スチームボーイ』の煙のスペシャリスト こういうものこそ国境が要らない 本当に一部の人間だけが突出してクリエイティヴでやっていける 他はITドカタみたいなもの ここの部分に関しては日本人は給料高すぎて発注できない セル画という物があるからみんながジブリに集まって塗る セル画がデジタル化されてしまえば集まらなくても良い 一部のすごく優れたクリエイターだけが生き残る 梅田望夫さんのイメージとは違って ホワイトカラーこそが生きられないという極端な世界が展開するのかもしれない そういったことをシンポジウムで話そうと思っている