東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第12回(1/16)

# 5分遅れ

どうもこんにちは
今日は人数が少ない
本当は今日僕の評価を決めるアンケートを配る予定だった
でも人数が少ないうえに、
この中の半分くらいもぐりなんじゃないかという疑いが消えない
次回にする

22日のシンポジウムを除くとあと2回
単位の話をしなければいけない

# レポートの説明が行われる

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授業をやりましょう この講義の最初の方はポストモダンの概念を喋って、 ポストモダンの概念を使うと、情報社会がこんなふうに見ることができるという話をした 共通の工学的な価値中立のインフラの上にばらばらのコミュニティ これで社会秩序を維持していく その後、 『情報自由論』匿名性、ハンナ・アーレント、公共性 『サイバースペースはなぜそう呼ばれるか』視覚では解釈できない 哲学的な話 といった話をした 技術的な変化は思想的な変化は共進化していく SNSが出ました ニコニコ動画が出ました 技術による新しいサーヴィス 技術が社会が変えるようにみえる しかし社会が技術を生み出したと考えることもできる ニコニコ動画 コンテンツよりもコミュニケーションの方が商品価値を持っている コンテンツをコミュニケーションのネタとして扱う 何故これが表れたのかというと ニコニコ動画を欲望するように社会が変わった ポストモダン化、リバタリアニズム、価値相対主義、云々 技術と社会は切り離せない ここが基本的に言いたいこと 最後の2回は『動物化するポストモダン』と『ゲーム的リアリズム』の話をして締める 僕は社会学者ではないけれど 社会学者という肩書きを付けられてしまうことが多く戸惑いを隠せない 社会学の学位を取っていないから制度的にも名乗れない 社会学よりもう少しいい加減というかアバウトな現代思想の中の 批評という分野の文化的産物 批評家としての僕の仕事がこの2冊 サブカルチャー批評をやっている僕の話をして授業を終わりたい
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動物化するポストモダン』2001年 今度フランス語でも出ます 「オタクから見た日本社会」というサブタイトル 何故オタクから日本社会を見ないといけないのか、ということを書いてある 今はアキバ系や萌えが一般に知られるようになっているが 2001年では数的にはメジャーだったがマイナーなカルチャーだった 社会の動きとはあんまり関係なく独自の社会を作っていると思われていた 皆さんの中の半分くらいは読んでいると思うので詳しくは説明しないけど 戦後の日本社会は3つに分けられる 1945-1970 1970-1995 1995- この3つは随分メンタリティが違う 偶然25周期になっていて後付けのようだけどそうではない 70年の近辺は大阪万博 三島由紀夫が死んだり色々な事件が起きた オイルショックで高度経済成長が終わった 学生運動が終わって政治の理念が死んだ 政治的にも経済的にも大きな物語がここで死ぬ 世界的にもそう フランス現代思想は1968年の思想だと言われる パリ5月革命があった 今でもフランスはやたらとデモが起こってバリケードが組まれたりするけど でかい学生運動のようなもの 世界中の学生と連帯したりして革命の夢が共有された フランス現代思想はこの学生運動の担い手と深く関係している ドゥルーズとか アメリカの学者フレドリック・ジェイムソンは 1968年から72年にポストモダンが始まったと言っている 1970年は大きな屈曲点、変化の時だった 大澤真幸さんは 1945年-1970年を理想の時代、 1970年からを虚構の時代と言っている 日本社会は70年まで理想が社会を動かしていた 所得を倍増するとか 70年からは虚構に大きくシフトしている テレビ文化 昔は今よりもマスコミが強くて特にテレビが特権的に強かった ギョーカイ人が文化的先端で金も持っている 裏事情にも通じている そう思われていた かつて同世代の経験は何だったのかというと 学生運動 あの頃はお互い熱かったねとか話す しかし70年代以降は同世代を結びつける事件がメディアの中にしかないと言われている エヴァンゲリオンを作った庵野秀明 1960年代生まれ 共通体験はみんなテレビの中にあると言う ヤマト、ガンダムを何歳で見た 事件の中継を何歳で見た これは本当の出来事だけど メディアが与える同時代体験 まさに虚構の時代 世代をまとめるフックが虚構しかない テレビはすごく大きい 本質的に生中継のメディア もちろんほとんど録画だが、放送している側と受信している側の同時性がある 象徴的に表れるのが紅白歌合戦 年末にみんながあの番組を見ている 映画がヒットしてもみんなが同時に見ているわけではない 時間的なずれを伴う 小説、CDもそう ラジオとかテレビは違う その時間、そのときみんなが同時に見ているという現象を引き起こすことができる 国民をまとめあげる理想のかわりに虚構がまとめあげるといったときに、 テレビというメディアは前景化する 同期的なメディアだから しかしインターネットは非同期なメディアだから大きく変わってくる 1995年以降はどうだろうか 95年は日本ではインターネット元年と言われていた それまではパソ通だった 95年からみんながインターネットを使うようになってくる エヴァンゲリオンのテレビ放映が始まったのは95年だけど、 NiftyGAINAXフォーラムで感想や予測を書き込まれながら放映が進んでいった 始めは小さな世界だったがブレイクしていくに従って拡散していく いっぱいホームページが作られていく GAINAXフォーラムに人が集まらなくなる インターネットが流行り始めた頃 95年にはオウム真理教阪神大震災もあった 90年代真ん中ぐらいに日本社会は大きく変わる 虚構の時代はあくまでも虚構だから虚構を作る人がいて踊らされる消費者がいる 理想の時代は市民の時代 虚構の時代は消費者の時代 バブルの頃はすごい勢いで人々が金を持ち始める 日本の消費社会は世界の最先端 資本のスピードは加速していきこそすれ衰えることはないだろう 楽天的な未来感が充満していた 僕は1971年生まれ 80年代が10代 90年代が20代 1980年代の真ん中に日本はすごく金持ちになる プラザ合意 すごい勢いで円が高くなる それまで洋酒を輸入する税金が高くて買えなかった 仲俣暁生さんは洋酒が高いという印象を持っているが僕には無い 僕がお酒を飲み始めた頃はバブル全盛 甘ったるいカクテルが流行っていた 僕はモスコミュールが好きだけど当時流行っていた カクテル飲みながらビリヤードがかっこいいと思われていた 学生の生活にもダイレクトに変化をもたらした 僕の世代は反米保守というかアメリカ嫌い 日本はすごいのに中国韓国に叩かれてむかつく というメンタリティを持つのは何故か 80年代真ん中は日本は経済的に強いのに外交的に弱かった 貿易摩擦でアメリカの労働者が日本車を壊したり 日本は何で金持ちで力があるのに…という鬱屈が10代の高校生でも体感できた 今の日本の経済の競争力はすごく落ちている もはやイタリアと同じかそれより下 バブルの頃は東京の地価だけでカリフォルニアが買えるとか すごいことになっていた 東京湾埋め立てるしかないのか 押井守パトレイバー1はバブル批判映画として良く出来ている 虚構の時代は、現実に根拠を持たないマスメディアのイメージで国民統合されるようになった 経済面では実際にものを作って豊かになって、というよりも、投機だけで回るようになる 同じ生活をしていたのに年収が3倍 3倍どころかいきなり土地が売れて土地長者 そんな虚構が90年代前半に弾けていく 日本はすごい国だ、安全で鍵をかけなくても大丈夫、とアメリカとよく対比されていた そういう安全神話もオウムと震災で崩れていく 少年犯罪も増えてきて治安が悪いやばい国なんじゃないか、というイメージに変わっていく 宮台真司さんが援助交際をテーマに仕事をし始めるのもこの頃
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95年を考えるときにオタクたちは重要な意味を持っている、という議論を立てた オタクたちは虚構の時代の申し子だから、 先ほど庵野秀明の名前を出したのも偶然ではない 僕が名付けたことも忘れ去られているけど、 オタク第一世代 60年前後生まれ オタク第二世代 70年前後生まれ オタク第三世代 80年前後生まれ と定義した 岡田斗司夫さんの理解だと一つずれている 戦後生まれのサブカルチャーを仕事にし始めた第一世代がその前にいる 全共闘の世代 右にマガジン、左に朝日ジャーナル 左翼で漫画とか好き 「われわれは明日のジョーである」 後のオウムに繋がるような漫画的革命 僕はそれを一つずらした これは何の意味があるのか オタクというものを完全に脱政治的なものとして定義した 全共闘と新人類がそれぞれオタク趣味を持つのは、似ていながらすごく断絶がある 笠井潔さん ミステリ書いたりしているけど、元々全共闘の闘士 サブカルチャーをやるのは政治的な意味を持っている 世代的条件 大塚英志さんもそう オタク世代 岡田斗司夫、唐澤俊一 1980年代に若いクリエイターとして作品を作り始めた人々 政治性が切れて虚構が自立していく 理念が離れて虚構だけの世界 1980年代のサブカルチャーの変化はこの世代の人々が起こした 漫画的アニメ的想像力の自立化 これは『ゲーム的リアリズム』の主題になる 新井素子さん 1960年生まれの小説家 この人がある種の切断を象徴的に表している そういうところから僕の本はスタートしている オタクについてのそれ以前の本と、僕の本とのもっとも大きな違いはここにある それ以前の本はオタク文化をカウンターカルチャー、幼稚なものとして扱っている 僕の本では、オタクたちの世界はパラレルワールドのようなもので、 社会性、政治性から関係が無い政治性を作ってしまう カウンターでも幼稚でもなく独自 オルタナティヴな社会、文化を作っていくその一例 オタクたちは虚構の時代の申し子 虚構の時代は1980年代に花開く バブっていって虚構の王国が到来 95年に弾ける そしてどうなったか 日本社会は長い夢から覚めて急に現実とかリアルとか言い出した 社会学化 95年に24歳だった僕にとってもっとも印象深いのは その前後で思想の社会的言説に期待されるものが変わったこと 社会的有効性が求められていくようになった 1995年をオタクから見ていく 第一世代と第三世代の消費行動の対比 オタク第一世代はある種のスノビズム 嘘を嘘だと知りながらその嘘と戯れていく くだらないものだとわかっているけど、 戯れることによって社会から距離をとるというメンタリティ 第三世代は動物 当時はほとんどまだ消費者として見えていない世代だったけど 現在では僕が思っていたように着々と証明されている 第一世代はうんちくとかが好き オタク的教養主義 スノビズムに基づくオタク的教養 大文字の教養、古典的教養に対する、特撮、フィギュアなどの小文字の教養を作る こういうことを岡田さんとか唐澤さんはやっている 第三世代は動物的になっている 歴史が無い 自分の快感原則がどう適合するか 動物的反応によって消費者の行動は制御されるようになっていく こういう女の子を出してこう転ばすと萌えるんじゃないのか そしてオタクたちがごろごろ転んでいく こういうことと日本の戦後社会論とどのように関係しているのか そしてポストモダニティとどう関係しているのか 95年以降は動物の時代と名付けたわけですが ポストモダン的な発想でこれを捉えると非常にわかりやすい 理想の時代は大きな物語がある時代 虚構の時代は物語がなくなったのだけど物語の代替物をメディアが供給していた 消費者の方もそれが代替物と知っていて戯れていた 象徴界の想像的シミュレーションがメディアによって供給される 象徴界が担う機能を想像界が担うようになっていった わかりにくいので本には書いてないけど 動物の時代はそれもなく端的に物語がない ないからどうするのか 個々の作品に対して身体的には反応しているだけ でも無秩序ではない ばらばらに作られている虚構が要素に分解されてデータベースを作るようになった ・理想の時代 文学にしても映画にしても社会全体のイデオロギーを持っていた ・虚構の時代 ネタとしてのイデオロギー 嘘だと知っていても戯れる作法 北田暁大さんの『嗤う日本の「ナショナリズム」』を読むと良くわかる 北田さんは僕よりずっとテレビを見ている 僕はテレビが嫌いでワイドショーとか唾棄すべきものだと思っている 昔はトレンディードラマとか見てたけど ・動物の時代 共通の物語はない しかし作品が作られている要素、共通記憶のようなものが消費者には大量に作られている 物語なき社会秩序へ いっぱい上にコミュニティがあってその下の工学的なインフラが調整しているイメージ オタクによる作品評価の軸は社会の変化とパラレルになっている 基本的なアイディアはこう 第一世代と第三世代で大きな対比があって 虚構の時代と動物の時代のメンタリティの違いがよくわかる 『動物化するポストモダン』はわかりやすいがゆえに単純に受け止められてしまう オタクたちは動物化している、快楽原則に反応している、エロゲークリック終了みたいな しかし本当にそうか 2001年以降の純愛ブーム、ケータイ小説 泣ける、笑えるといった身体的反応の価値が重要視されて 複雑な物語、メッセージの価値は下がっている 動物化しているのは明らか しかし一方ではコミュニケーションとか自分探しをしている 繋がっていないと不安、友達何人 つながりの社会性 mixiSNS コミュニケーションは人間的な欲望だが、 消費財に対する動物的な欲求の関係への疑問が出てくる こういうことを想定して書いていた本でもあった ポストモダンの主体は解離的主体になる 一方で自分を承認してくれ、自分を愛してくれ、という人間的な欲望もある とにかく抜ければいいや、別にポルノに限らず、 楽しければいい、笑えればいい、という動物的消費 この関係を考えたときに、とりあえず解離という言葉で特徴付ける 近代においては 大きな物語←読者←作品←作者←大きな物語 作者が作品を作る 読者が作品を見る 読者からすると、作品の中に含まれている作者の意図を感じる 作者がそういうことを書いている大きな物語、社会とか世界に対する認識 それが自分の持っている大きな物語と一致することで理解 作品の読解にある種、動物的、快楽的水準と、 人間的、意味的、解釈的水準がある どんな作品にもこういう2層がある 良い作品はこの二つの適度なバランスで成立しているのだろう、ということはなんとなくわかる 近代は弁証法的構造になっている 作品を見て動物的に受け止める そして解釈をしていく なんでこういう主張をしているのだろう 作者をとりまく社会状況を考える そういえば俺自身もそうか 現国の授業みたいだけど近代の読解システムはこうなっている オタクたちの読解システムはどうなっているのか データベース←読者←作品←作者←データベース こういう図が描ける ツンデレの女の子がでてくる ツンデレで良かった どうしてツンデレがでてくるのだろう 流行だからか そんな流行に規定されている俺が居た、終了 何も起きない しかし読者Bとか読者Cとかがいて、同じデータベース、同じ作品に繋がっている 読者は作品そのものの読解、動物的快楽的な消費の可能性しか見ていないが データベースを介して、ネタにすることによって、 コミュニケーションの回路を開いていく この回路こそが人間的、意味的な欲望を満たすようにできているのではないか 表面的には動物的、深く読むと人間的な二重構造が近代 ポストモダンではコンテンツそのものは動物的 いくら読んでも何も始まらない コミュニティを作ることで人間的な空間が広がる コンテンツとコミュニケーションの軸が交わらない 泣けるとか笑うみたいな感情は 最初は泣いた、笑った、しかし解釈をしていくと深い意味がある、そして社会について考える 身体的反応から意味へ、そして社会へ 近代のつくった作品、文化消費の優れたところ ポストモダンではコンテンツは快楽だけに奉仕 人間的な意味が無くても機能する 原稿が詰まっていたがために『恋空』を読んだ 結論から言うと素晴らしいと思った 泣ける構造がちゃんと作られていて良く出来ている 難病、流産、レイプをただ繋げてあるだけではなくて結構複雑 しかし人間とか社会の理解には奉仕しない どうやったら効率的に人を泣かせるかという技術はすごく高まっている 恋空は文体もない、基本的には構造しかない 構造の技術に特化 感情はここで処理する 意味とか解釈はコミュニケーションで満たされる しかし社会の理解には繋がらない 俺はこう思う いや、俺はこう思う ぐるぐる展開 プチ公共性 オフ会とかもやる 承認欲求は解決 この2つが深く結びつくとコンテンツとして大ヒット しかし社会の理解には結びつかない こういう構造のコンテンツが作りやすいインフラがある 2001年では萌え要素がデータベース化されるといって 頭の中でデータベース化されるしかなかったが 今ははてなキーワードなどで目に見えるデータベースがある コミュニケーションの空間も 2001年では同人誌空間、リアルが混じった社交の空間を考えていたけど 今はまさにブログ こうした文化消費を加速 社会がこう変わったからブログとかが出てきたと言うこともできる オタクたちは解離的なんだ、というのが動物化するポストモダンの主張だけど 解離する〜とかをタイトルにすると絶対に売れないから動物化で良かった コミュニケーションとコンテンツと言う話 『ゲーム的リアリズム』でも使われる対立 人間的な承認欲望 | 動物的な欲求=快楽 二項対立 今の僕たちの文化消費はこの方向に向かっているが、色々な問題を抱えている 作品読んでも社会と繋がらなくなっている コンテンツ産業は、消費者の快楽を先読みしどう提供するか、技術的な産業でしかない そしてコミュニケーションの場で人間的な承認を得る しかし他方、 近代的な大きな物語に支えられている純文学、日本映画とかもあるじゃないか 東浩紀が言っているのはあまりにもオタク的で大きな傾向とは言えないのではないか それになかなか反論しにくいけど、 ここでのコンテンツ思考、コミュニケーション思考の分離は 状態そのものではなく、そう解釈可能なプログラムのようなもの メタレヴェルで見れば純文学のコンテンツは 物語が後ろにある、複雑な文体、純文学的な萌え要素 そういうメタ解釈が挟まってしまうと純文学も同じ事をやっているように見える こういう語りの構造を持っていれば受ける、コンテンツで満足 泣くではない、萌えではない、しかし純文学的な深みのような快楽があって満足 批評の空間も配置されていて承認欲求が満たされる パーティとかで作家があって社交がある 文芸誌がやってることはmixiとかと変わらない こういう枠組みで文化消費を理解できてしまう 本人たちがどう思い込んでいるかに関わらず外からはこう見えてしまう コンテンツは快楽に奉仕する コミュニケーションの場を整える これしかない コンテンツ作る作家は空しくないか? 今までは背景の大きな物語を伝達して社会を変えるのが希望 もはや作家というのは人々の快楽に奉仕するだけの存在 もし本当にそうだとすれば作家のモチヴェーションは何だ 残念ながら僕たちの社会はものを作るイメージを変え始めている 「コンテンツ産業」という言葉からわかるように、 もはや産業 技術の集積 プログラムの結果 個人が作るものではなくて産業がつくるもの 近代が作った作家、作品の幻想がトータルで変わりつつある じゃあどうするんだ?と言われると困る でもやっぱり物語を信じるべき? 僕も批評職人、非モテのブロガーに喜ばれるものをがんがん書いていく それは空しい 元々作品を作る、文章を書くというのは無根拠なものだった それが近代の幻想によって覆い隠されていた 社会が変化し、ばらばら剥がれてきて露呈したということなんじゃないか
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日本の話として話したけど これはアメリカ化の問題だと言っても良い 動物化というのはほぼイコールでアメリカ化 経済がグローバル化、インターネットはアメリカの技術 そういうことだけではない コジェーヴというフランスの思想家 人間の歴史の弁証法 ポスト歴史の時代には2つのモデルがあると言った 一つの日本型スノビズム もう一つはアメリカ型動物化 ヨーロッパの歴史は戦いの歴史 ところが戦いが全て終わった後、歴史はどう動いて行くのか ・日本型スノビズム 物語はないのにあるかのように振舞って生きていく ・アメリカ型動物化 大量消費社会 コカコーラを飲みマックを飲みガソリンをぼかぼかダイエット器具とかを買う そういう腐った生活をしている奴らを見て、コジェーヴは動物だと思った コジェーヴは日本型スノビズムに期待をかけたいと思った これは日本ではすごく有名 坂本龍一とか浅田彰はよく引用していた 日本型スノビズムが勝利すると言う物語が作られていた しかし勝利しなかった オタクという日本土着で出てきたサブカルチャーの申し子も アメリカ型動物化も免れていなくて再編成されている だからオタク的なものを海外に持っていくという考え方もとれない 森川嘉一郎さんのような考えから距離をとらざるを得ない グローバリズムの抵抗になるという大塚さんの考え方もとれない オタク文化はそもそも翻訳から始まったという前提だけではなく、 スノビズムから動物性への変化 これはかなりアメリカ化 コジェーヴがアメリカと呼んだ問題がここにもある

東先生より30日の講義後に打ち上げがなされる旨が伝えられました。幹事はどういうわけか私がやることになっているので、16日に「打ち上げ参加したいと考えている人」として挙手をしなかった方で、参加予定の方は↓のコメント欄に参加確率でも書き込んで下さると人数把握がしやすくなるので嬉しいです。