東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第13回(1/30)

皆さんこんにちは

まずレポートの提出概要前回もらってない人
取りに来てください
これでレポートを出せば単位がもらえるという構造になっている
非常にシンプル

日仏学院でやる講演のチラシを配れと言われているので配ります

この授業は非常にもぐりが多いので
回収枚数が少ないだろうけど
授業に対する評価のアンケートをやっていただきます
授業中にやって最後出しに来てください
これで評価されるので真面目にさくさくと回答しておいてください

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前回『動物化するポストモダン』という本の解説をした 今回は続編の『ゲーム的リアリズム』の解説をする そして私たちがどう生きていくのか話してこの授業のまとめにする 前回のシンポジウムに皆さん来てくれてありがとうございました 大好評で630人入った 人文系の思想関係のイベントではすごく多い 新宿の紀伊国屋ホールがあって批評空間はよくそこでイヴェントをやっていた 定員400人の紀伊国屋ホールがいっぱいになると大盛況といわれる 600人を超えたことは大事件 編集者たちも勇気付けられた 今日の話はシンポジウムの話と随分違ってしまうが、関連するところもある 中島さんの「方法としてのナショナリズムナショナリズムからアイデンティティの承認とか取っ払って、 公共圏を調達するためにナショナリズムを使おうということ 宮台真司天皇制を持ち出す論理と同じ ナショナリズムは厄介なところもあるけど良いところもある 僕はこれに対して疑念を唱えている 基本的にこれはある種の大きな物語再興論 大きな物語がないと、人々は、 自分は大きな社会の一部であり公共性に対して貢献しなければならない、 と考えなくなる 公共性が維持できないから大きな物語は必要だと言われる しかし大きな物語には厄介なものがあるので「方法としての」を付ける 公共的な資源の管理は必要 地球、伝統、歴史をシェアしている みんながフリーライドするとまずい 「公の論理」 私利私欲だけで動くのではなく公のことも考えるというイデオロギーというか物語 しかし本当にそうか? 私利私欲のレヴェルで動いていても公の論理は作られる それがマーケット 『社会契約論』を読み直した この秋ルソーとかホッブスとかロックを読んでいた 学生時代も読んでいたけど、昔読んだことは完璧に忘れている 君たちも今読んでもどうせ忘れるだろうけど、でも読んだ方が良い デリダの『グラマトロジーについて』 第一部  ハイデガー批判  オントロジーではなくグラマトロジー  哲学っぽい 第二部  大きく二つに分かれていて  一つは、レヴィストロース批判、文化人類学批判  もう一つは、ルソー再読 なんでこんなものがごちゃごちゃっと集まっているのかというと ここでデリダがやっているのは基本的には原初、自然、純粋なものを考えて、 そこからスタートしようという思想はデッドロックに乗り上げるということを、 3パターンで示している ・哲学 ・文化人類学 ・ルソー ルソーは自然状態みたいなことをよく言っていた デリダも指摘しているけど、 ルソーは、障害物というものをなくして純粋なものが良いと言う しかし非常にねじくれていて、そこで言われている純粋さなんてないんじゃないかという論 多種多様な業績がルソーにはある 『エミール』  教育論  今の僕たちの教育学の原点 『新エロイーズ』  ロマンティックラヴ  近代的小説の起源 『エミール』 人間は動物として生まれてくるので、がんがんラテン語とか叩き込んでしつける そうやって人間になっていく 文化が自然を抑え込む これが昔のヨーロッパの教育の基本としてあった しかしルソーは自然に帰れと言った 自然は純粋 赤ん坊の自発的な成長をいかに妨げないかというのが基本的な要諦 ラテン語を教えてもダメ 何も教育しないことが最大の教育 しかし本当に教育しなかったら何もならない 何かはしないといけない その何かは何だ ややこしくなってくる ある種の純粋さを生かすために 何かの人工物を導入しないといけない しかし純粋さを生かすためだからできるだけ少なくしないといけない 『社会契約論』にも同じような話が入っている ルソーの主な著作に 『人間不平等起源論』  人間は自然人として生まれてきた  社会があるからよくない 『社会契約論』  主権者が死ねといったら死なないといけない  身を捧げて初めて自由になる の2つがある 全然違うとよく言われている ルソーは分裂している おかしいとよく言われている 人間は主権者に全てを捧げることによって自立する 『エミール』も同じ展開 これは僕たちの政治的言論に深く入り込んでいる 保守系の論理はそういうのが多い アメリカのリバタリアンネオリベ的なものは対照的 ノージックの議論に対して、誰だったか日本のある人が ノージックの哲学はフロンティアの哲学だと言った 誰も居ないところに人が集まって 俺たちが社会を作る、気に入らなかったら出て行けば良い、他で社会を作れ これがアメリカの哲学、社会思想 個人の自由を大切にする社会思想 同意したら社会に入る 社会に入ったら自由を渡す シンプル しかしルソーはわけがわからない 大陸哲学、フランス系はすごくわかりにくいといわれている フランス哲学のわけのわからなさは、 理工系の人や、人文系でも英米系、経済学の人からは あれは何だ、って感じがする こういう自由が自由があるために自由を渡さなければいけない 人が本当に主人であるためには誰かに従属しなければいけない パラドシカルなところに原点を見出している 「方法としてのナショナリズム」 公共性→物語→方法    ↑ 僕としてはここにハテナが入る Googleを一回使うたびにGoogleに貢献している しかし僕たちはGoogleイデオロギーに同意しているわけではない 私利私欲で動いているだけ ただし、インターネットの中にも物語がないといけないものもある オープンソース みんなで開発 充実のために物語が必要 市場は私=公 Googleはそれに近い ルソーの一般意思をGoogle的なものから読み直したら面白いんじゃないか こういう議論は抽象的であると同時にアクチュアル 東京MXテレビの「ガリレオチャンネル」 僕が世界文明センターに向かう橋の上で夕日を背景に歩いているシーンが見られる 見たくないけど http://www.nicovideo.jp/watch/sm1743813 そこでニコ動について語っている ニコ動は暇人のサーヴィスだとひろゆきは言っている 社会の本質が現れている コミュニケーションと買い物を区別する必要が無いとも言っていて、共感できる ひろゆきと思想が似てきている 終わりかなあ アーレントの公共性はギリシャのポリスがモデル 活動は政治、人間的 労働は非政治、生物的、社会 近代になって労働が活動を飲み込んできた 政治とか思考の場がなくなってきた 直感的には正しい 最近ブログで著作権について書いた 島本和彦著作権について語るシンポジウム 白田秀彰さんという法政大の准教授が参加していて、最後の方で白田さんが吼えている 一言でいうと「まじつまんねえよ」 まったくそのとおりだ 著作権について語るとお金の問題になって、 じゃあ適当にこの辺で折り合いを付けますかという展開 政治は利害調整だと思われている この発想そのものが、いかに労働が活動を飲み込んでいるかを表している ギリシャでは利害調整する必要が無かった しかし奴隷制があったから哲学ができた ブログでは団塊世代が俺たちから金とってるとかそういう話ばかり はてな読みすぎかもしれない最近 hashigotanとかすごい勢いで読んでいる 第一段階  ギリシャのポリス 第二段階  政治は労働に埋め込まれる 第三段階  暇人がボランティアでやるところに政治の可能性を見出していく 中島さんが居ないところでばんばん反論していると汚いかもしれないが、 宮台さんとかもそうだけど、一人一人が公共に関われという発想 その対極に暇人政治というものがある 暇人ポリティクスのようなものを考えたい ニコニコ動画は暇人がやっているだけ 意識のあるクリエイターが一発当てるために投稿しているわけではない 新しいサーヴィスが出てくると、そこで公共に結び付けようという発想がでてくる セカンドライフで選挙率上げようみたいな しかしぽかっと開いた暇人な時間で、日々な労働から切り離されて楽しいことをやる そういうところから社会的判断に結集していかなければならない 「方法としてのナショナリズム」は人間のモデルが違っていて、近代人としての自覚を持つ 人は労働で毎日大変 私利私欲の方向にいく 私利私欲の方向に行くからこそ公を自覚し公に向かって正しい判断を下せ 公による私の抑圧モデル しかし私利私欲に溢れている自分を公共的な理念で隠すことはできない 人間は私利私欲でしか動いていない でも24時間フルタイムで私利私欲で動いているわけではない 時間が空くと変なことをやる 関心が無いところに関心を持ったりする インターネットは、 個人の暇な時間の抽象的な思考、抽象的な判断を集められる意見集約のシステムを 可能にするんじゃないか ここまでシンポジウムで喋りたかったことの補足
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動物化するポストモダン』2001年 『ゲーム的リアリズム』2007年 その間にオタクブーム、萌えブーム、アキバブームがあった 社会がアキバ化したときに人はどう生き抜いていくのかというのが 『ゲーム的リアリズム』のスタンス データベースがあって作者がいて作品があって読者があってデータベースに繋がる 昔はデータベースが大きな物語だった 今は読者が作品の読解をいくらやってもサブカルチャーのデータベースにしか辿り着かない 自分の中にあるデータベースに辿り着くだけ 作者が用意した萌えポイントを発見するだけ しかし、読者A、読者Bというふうに読解コミュニティがあって 作品外のコミュニケーションに読解の軸がある 単に作品を読んで泣いてかわいかった終了だけではなく、読者共同体を作る 社会学的って感じがするけどそうじゃない ここ数年、作品を読むというのは作品の需要について語ることになっている ブログ論壇を見れば明らか 作品論をやっても意味が無いから消費論をやる 文学の読解は、作者が意図しなかったものが作品に表れているのでないと読解の意味が無い 作者が思ったとおりに影響力を与えるのであれば、頭を使って読解する理由は無い 作品には意図しないものが入っていると読者に信じてられてきた しかしライトノベルを読解する時、作者の意図以上のものが入っているということは信じられない 作品にそれ以上のものを読もうと思ったら 作品の外にある社会的現実にスライドしなければいけない コミュニティの軸と 作品そのものの読解の軸に分かれている そういうふうに見たほうがいろんな人の言説は良くわかるのではないか 僕の話は実証とかはないので信仰みたいなもの どうして僕はこんなにやけくそなんだろう どうせ僕は何もわかってねえよみたいな 普通に考えたら、 データベースの軸に乗って職人的に萌え要素を注ぎ込んで物語を提供していく 大塚さんが揶揄したような物語消費 そうではないとすれば メタ的、コミュニケーション的に読まれていくことを前提とした 作品作りをしていかなければならない 『ゲーム的リアリズム』のメインテーマ 動物化するポストモダンはデータベースしかないんだ、 というふうに読まれたので、修正している 読者が複数化、多様化していくことでコミュニケーションの問題が出てくる コミュニケーションの層にどうアプローチしていくか 『ゲーム的リアリズム』はライトノベルをどう読むかという意図としても書かれたけど これはイデオロギーの問題でもある 何か一つのことを信じられなくなる この授業で言ってきたことはポストモダン化、技術的な社会的なことは共進化していくということ 宮台さんが例に出すことだけど 人類は月に行ったことの検証可能性は僕たちにない NASAとか行けばいいのかもしれないけど普通は無い 歴史問題でもいい 南京大虐殺とか 検証できないことは満ちている それが真実なんだと信じて生きている 新聞で報道されたら信じる いちいち誰かの陰謀で、とか言ってたら頭がおかしくなる 検証不可能なものの束が大きな物語 現実はそのまま解釈しようとするとすごく複雑 検証できない 検証の枠を狭める解釈枠のようなものが物語 ポストモダン化、情報社会化によってどうなったか ポストモダニズムは結局、単一の解釈枠が維持されず、 すぐ揺らいでしまうから信じてはいけない、 南京大虐殺なんてあったかなかったかわからない、 ヘゲモニーで決めるしかないから本当はどうだったかわからないのはしかたない ある種の相対主義だしある種の不可知論 かつてアルチュセールが「国家のイデオロギー装置」という言い方をした 国家が個人に対して呼びかける 僕はそういう人間なんですね、と答えを返す イデオロギー装置は昔はすごく少なかった 今では教会で誰かが何か言っても、情報化によって「教会の発言まじうざい」とブログに書ける 解釈枠をばらけさせる 朝日新聞が何か書く 「朝日新聞はまたアサヒってる」と書く それに対する反論も書く 炎上 これが今のコミュニケーション環境 何が真実か決めるのが非常に難しくなる 何かについての事実 命題P PについてのメタP、メタメタPというものがすごい勢いで増殖 元々がなんだったのかすぐにわからなくなってしまう 結局何が起きているのか この世界では多少賢いと、Pが何かということについて喋らなくなっていく 南京虐殺について喋っても論証のパターンは出尽くしている よっぽどの圧倒的な新事実を持っていない限り論争に参加しても意味がない Pについて何が語られていたのかというまとめサイト的なリアリティ コミュニケーションの連鎖こそが信じられる唯一の基盤 Pそのもの、Pについての反論は各自勝手にやってくれ このことをちゃんと喋ろうとすると難しいけど、ルーマンとか読めばできるかもしれない 何かを信じるということが単純に出来なくなった場合、メタ的な操作をやる 昔は哲学者しかこんなことはやっていなかった 俺がここにいるかどうかわからないけど、わからないかどうか思っている俺はいる そんな変わった思考は近代において必要がなかった 今はナチュラルにやるようになった リアリティを確保しようとするとコミュニケーションの連鎖そのものがリアリティになる 何かの物語を信じてますよー そういう状態があったとする 同じ物語を信じているのでコミュニケーションが取れる それがダメになった ダメになったらどうなってるか 物語1 ← 人1 物語2 ← 人2 物語3 ← 人3 物語4 ← 人4 『恋空』で泣けるのは恋空リアリティを持っている人だけ リアリティはいっぱいある 物語がいっぱいあるという現実、事実性そのもの 上に立つと物語がいっぱいあることがわかる ローティの公的なもの・私的なもの 私的には韓国人ぶっ殺したいけど公的にはそうじゃない、とか 私的には物語を信じることはできる 昔だったら話し合って物語を統合する 今は話し合うことがネタ ウォッチしていればいい 収集がつかないことになる 物語のレヴェルの調整はやめて、この平面から出て、 いろんな見方が世界にはありますねーという事実性だけもって物語に入っていくしかない 内容の剥奪された物語の事実性で繋がっていくしかない 検索エンジンはそういう装置 いろんなページがばっと出てくる つい20年前までそんなテクノロジーはなかった 何かについての意見を調べようと思ったら 論壇誌や新聞を読んだりしないといけなかった 簡単には、物語がいっぱいありますね、という視点には立てなかった こんなにいっぱい意見があるんだということを体感できなかった Googleによって簡単に出来るようになった その代わり一つの物語を信じることが難しくなった 物語が社会的現実を支えている現実がかつてあったとする 今は複数の物語が存在しているという事実性が社会的現実を支えている このような変化が起きている ある種のリアリティの維持の変動が構造的にあった これを「ゲーム的リアリズム」と呼んでみよう ということをあの本で本当にやりたかった というか遠くやりたかった 昔からあったんじゃないか、という人はいる 昔はすごい抽象的な思考をする人しかこのような事実性を発見できなかった 今は検索エンジンが…とかいうとガッカリされる じゃあお前らどんな話がいいんだ こういう結論に到達するしかない 大衆的なレヴェルで事実性そのものが目に見えるようになったのは人類史上初めて 物語は人類史上ずっとあったとかもいうけど 近代は一億人とか二億人とかで一つの物語を信じることができた 力道山がどう戦ったかとか マスコミの出現がなかったら有り得ない 前近代にはなかった 技術的な条件によって変わっていく 近代の哲学者を読み直すとこういうことを言ってたりする しかしそれは近代的な現象ではなく彼らは特別に頭が良かったから もう一つはGoogle Googleの回し者みたいだがGoogleが一番面白い ルソーを読み直したいというのは これから新しい社会を考えていくうえで 「方法としてのナショナリズム」、物語で公共性を支えているという前提 この前提をやめる 複数の物語があるという事実性で社会を維持できないか すごく抽象的ですごく具体的 全然別の考え方を持っている他人がいても 資源が安定している社会をつくる 話し合いましょう 利害を調整しましょう そうじゃない考え方がある、 それが市場 経済学弱いのであまり経済学のメタファーを使いたくないけど 市場っていうものが僕たちの資源管理のやり方として、国家とは別にある 国家の市場化を推し進めるとかいうとネオリベっぽくて嫌だが 僕はベーシックインカムは支持 自己責任で全て市場原理で、というわけではない ベーシックインカムを市場を使ってできないかということを考えている 市場のやり方を変えたりすればなんとかなるんじゃないか 公共性について考えるのは大事だと思っているけど、 他方、日本の状態を見ていて嫌だなあと思うのは、 さっき白田さんの話をしたけど、 政治について考える時利害についてしか考えていない 日本という国が貧しくなって将来がないからこう思うんだろうけど 正義とか善とかも、弱者をどうするしか考えていない 抽象的な正義を考えることはない せせこましすぎるのではないか ベーシックインカムについてはてなダイアリーについて書いている人が居て、 一人頭いくらか配分するから独身者差別だ、子供が居ないやつに不利になる とコメント欄に書いているやつがいた すぐに出てくるのはこれか 差別はすごく強い言葉 人種差別、民族差別は制度と結びついて生まれた瞬間から差別されているが、これは違う オタク差別とかいうけど生まれた瞬間からオタクではない オタク遺伝子とか言ってる人は放置 独身者にとってある程度不利な制度があったとする 子供がいる家庭を優遇する これは差別だというと差別という言葉がおかしくなっている 今だからこそ原理的な思想がわかるようになってきて柄谷さんの思想もわかるようになってきた NAMはわからないけど
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というわけで「ポストモダンと情報社会」ということで話してきたけど 皆さんの糧になるものがあれば幸いです アンケート書いてください 折角シンポジウムに人がたくさん来てくれたのに、この回収率が小さいと僕がやばいので

授業後、打ち上げがありました。とりあえず何の創造性もない選択だけど大岡山の庄やで飲み。東先生の描くラムちゃん入りのサイン会が行われました。ラムちゃんだけではなく、観鈴というキャラクターも描こうとしていたけど髪型が良くわからないようなので、そこで自分がGoogleで資料を探すにあたって「観鈴って何のゲームのキャラですか?」と聞いたら、周りから「ありえない」「今すぐやれ」と糾弾されました。非常識なまでに知識がなくてすみませんねぇ。

自分は『雫』『痕』とやって、それらは面白かったのだけど、『To Heart』があまりにもつまらなかったため、それからあんまり真面目にこういうゲームをやってないのです。もうちょっと根気があれば『ONE』まで辿り着いて、今頃Key信者になっていたかもしれず、そうすれば『AIR』を知らないせいで糾弾されることもなかったでしょう。それとは別のラインで、『悦楽の学園』を遊んで『DESIRE』も遊ぼうとしたけれど途中でパソコンがバグっておかしくなって挫折。『YU-NO』に辿り着きませんでした。