相変わらず「酸っぱい葡萄」がわからない

ちょっと前にロフトプラスワン秋葉原通り魔事件に関するディスカッションが行われました。その場で東浩紀が「非モテ男性には二通りある。それは男性コミュニティからの承認を欲するタイプと、運命の女の子を信じて待っているタイプだ」と発言したことについて、コミケ惑星開発委員会が売っていた冊子に、宇野さんが、これは優れた免罪符で非モテ達がモテていないことの言い訳に使える、と書いています。

この発言だけ読むと確かにそうかもしれず、この文章で宇野さんが行ったように文脈無視で取り上げると、本当にこの発言をブログに劣化コピーして貼り付ける人たちが出てくるのかもしれません。しかしこの発言は、非モテと彼女居る居ないは関係ない、後者の人たちは彼女が居ようが結婚していようが非モテ非モテ、東読者には彼女がいる奴も結構多いが言ってることはどう考えても非モテだったりする、という文脈の中で出てきたのであって、あの場にいて東さんの発言が非モテの言い訳に使えると思える人間がいるとすれば、相当に頭がお花畑な人なんじゃないかと。だって自分と同じような非モテメンタリティの奴にコスプレイヤーの彼女が居たりするわけで、その状況はどう考えても何かおかしい!って思うんじゃないでしょうか。

「運命の女の子」を探していることをモテない言い訳にしている人間を自分はあまり知りませんが、「サークルのクソ女どもでは満足できない」と言い訳している人間はそこそこに居ました。そして宇野常寛説によると彼らは「サークルのクソ女と仲良くなったその瞬間にコロっと転んでい」くそうですが、確かに彼らがクソ女(しかしこの表現はひどいな)と付き合うような展開もあるでしょう。しかし、誰かと付き合ったとしても彼らは相変わらず「サークルのクソ女どもでは満足できない」と主張し続けています。これではいったい何がどのように「酸っぱい葡萄」なのかさっぱりわかりません! 「サークルのクソ女どもでは満足できない」と主張し続けていても彼女が居る人たち(特に東読者)がいる以上、これを言い訳にすることはできないのではないでしょうか。