東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度初回(10/3)

今年も頑張って粘着していこうと思います。ちなみに毎週金曜日16:40から18:10まで東工大のH111でやっています。

どうも
こんにちは
僕がこの授業を担当する東浩紀です

ポストモダンと情報社会
去年も一昨年も同じタイトル
内容については便覧に書いたとおり

毎年同じことをやればいいということになっている
単位は一回しか取れない
でももぐりとか何回も続けて出ている人とか
ネットに内容に公開している人も居るので
変わることが宿命付けられている

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僕は基本的には物書き 2001「動物化するポストモダン」 オタク論の中ではそれなりに知られている 現代社会分析も僕の仕事のうちのひとつ 1998「存在論的、郵便的」 「存在論的と郵便的」にしておけばもっと普通のタイトルだった ジャック・デリダについて 僕はもともとフランス現代思想の研究者としてキャリアをスタートした これが博士論文 大学院時代からいろいろな媒体に文章を発表していたが しばらくして2001年にオタクからみた日本の社会のポストモダン化について書いて 知られるようになった 哲学的なことが専門であると同時に サブカルチャー評論も専門と言えば専門 情報社会論も専門と言えば専門 混ぜ合わせて仕事をしている
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おそらくこの授業は必修でもないしもぐりもおおい 比較的アナーキーな展開でいこうと思っている 評価はレポート 電子メールで4000字くらい テーマは与えるけど、授業に出てなくてもなんとかなるくらいのぬるさ 最後にレポートさえ出せばいい、 というと問題になるので言いたくないがそんなもんです 出席はとらない
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ポストモダンという概念と情報社会の関係について 色々な観点から考えると言うアバウトな授業 そもそもポストモダンとは何か ここにいる人たちの半分くらいは何だって感じだろうけど 半分くらいはたぶん見知った顔だから説明するのは嫌なんだけど 説明する # 実際は多くが初めて講義を受ける人だった # まあ初回だからというのもあるだろうけど ポストモダン post modernity 脱 近代 哲学とか社会学はゆるやかにつながっている ゆるやかな人文系の世界では流行った 近代社会が限界に来ていて乗り越えないといけないと言われるようになった 1980年代に流行った 90年代になると人気がなくなって使われなくなった 最近は英語圏でも人気がなくなっていて 「動物化するポストモダン」英訳されたけど ポストモダニティという言葉をタイトルに入れるなと 版元から言われた 言葉は流行らなくなったが現象はある 1990年以降、世の中が変わった ネット社会の到来によってかなり実現している コミュニケーションのあり方が変わった リオタールが「大きな物語の崩壊」といった 近代社会は社会の全体性があった 社会全体を見渡す知が機能しなくなって全体性が壊れていく 90年代にネットができて起こったことはまさにポストモダン的現象 そういう観点から見ていく この授業も3年目ということで、かなりたるんでいる この間新潟大学で集中講義をやった 週4日で15限授業をやってすごい疲れた この秋の授業に対するモチヴェーションを使い果たした 今ひとつテンションがあがらない しかしそういうわけにはいかない
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フランス現代思想はこういうものなんだという話はするけど 東工大のこの授業では公共性とは何か考えたい Ggooleストリートビューがネット上で問題になった ・これはすごいパブリックで便利になる ・誰とも話し合わないで私企業がやっていいのか インパクトのあるサーヴィスだったからみんなびっくりしたけど、 そもそもGoogleはみんなただで使っている Googleは今や世界的なインフラ GmailとかYouTubeとか様々なサーヴィスが乗っかっている これで今の情報社会が成立している じゃあGoogleって何だ? 今までの社会とか国家のあり方を考えるとわけがわからなくなってくる 営利企業だけどサーヴィスはただで使える 梅田望夫ウェブ進化論」を読むとわかる 単に検索エンジンを提供しているというより、 世界の知をみんなに公開しよう 世界のいろいろな図書館と連携して、 著作権の切れた図書館の本をネット上で公開する おそらくGoogleがやりたいのは全世界の本をネット上で公開すること 実現してしまったら、世界中の図書館が全世界に公開 そういうことをやってるGoogleは何ものか? どう位置づければいいんだ 便利でいいじゃないかと思うかもしれない しかしそうはいかない 今までの社会でイメージされていた公共性は話し合って決めようということだった 公共性  公共圏 public sphere   哲学思想系の概念  公共財 public goods   経済学系の概念 公共圏  みんな利害の異なった人たちが話し合って意見調整していく世界  国会、市議会、タウンミーティング  パリのカフェで親父たちが政治談議  基本的には話し合うこと 公共財  非排除的な財、非競合的な財  灯台の光、みんなが使える、減るもんじゃない  道路、公園 今までの世界の構造だと公共財は国家がやるものだった 国家は公共圏によって運営されるものだった 公共圏的な話し合いが議会 その結果、ここに道路を作るよとか言って公共財が生み出される ところが、Googleの出現 公共圏がないまま公共財だけがある 私企業が勝手にやっている ストリートビューやるべきか聞かれていないし、Googleは聞く気もない 8月に公開された後、様々な画像が発見されて祭りがおきてどんどん削除されている 削除されたからといってGoogleは反省しているわけじゃない 削除要請が来たら削除しているだけ やりたいことをやっていた結果、公共財として機能してしまう これって許されることなのかと意見が分かれるし、 話し合ったからといってどうにもならない Google的なものの出現で考えなければいけないのは、 許されるとかそういう話じゃなくて、 公共性は何を意味するのか、公共性の新しい概念を考えるべき 別の例 公共性に対してprivate 以前だったら明確に分かれていた 今はこの境界が曖昧になっている  mixi日記  Amazonで本を買った情報 協調フィルタリング リコメンデーション   いったん購買履歴はパブリックな情報になっている アメリカの巨大SNS Facebook すごい若いCEOがやっている 新しい広告サーヴィスをやろうとした 僕がAmazon楽天でこういうのを買う、こういう動画をダウンロードすると、 東さんは何々していると友達に自動的に告知されていく これはプライヴァシー団体によって潰れたけど 僕がここで「動物化するポストモダン」を買ってねと言っても買わないが マイミクの誰かが「動物化するポストモダン」を買ったと日記を書くと つい買ってしまう Facebookはそういうのを目指した 本質的には何を意味しているか プライヴェートだと思われていたものがパブリックに染み出している 日記だと思っていたら世界中に公開されていた、というのはいいとしても、 ネットのこれからのサーヴィスはそれぞれの人間の個人情報が パブリックの方にどんどん染み出させていく 公私の境界が変わってきている ネットとは関係のない例 最近ロスジェネと言う言葉があって ロストジェネレーション 皆さんと僕の間にある就職氷河期世代 20代後半から30代前半 若手論壇人としてどんどん出てきている 上の世代と下の世代は就職できて 俺たちだけ悲惨まじむかつくんだけど 秋葉原事件、派遣労働 赤木智弘さん 希望は戦争ということを去年言った 事例として興味深い 自分は30とか超えて結婚もしてなくてもてなくてコンビニバイトで悲惨 しかし運良く就職できた奴は結婚できて将来も安泰 人生こんなに違う これは許されることではないだろう これまでの左翼運動はせいぜい正社員の境遇を改善しようとはするけど 運が良い奴と悪い奴の間は埋めてくれない だから戦争でもやってがらがらがっしゃんとなってほしい かつて労働運動、政治、社会について考えるときは、 富裕層が自分たちを搾取しているから社会を変えなければいけないという話になっていた しかし赤木さんは、俺ついてない、ということしか言ってない すごくプライヴェート ロスジェネが論壇で話題になりつつも異様なのはプライヴェートだから 俺は苦しい、私たちの生活をどうにかしてくれ 社会構造を変える提案はあんまりできなくなっている 政治は公的なことを語ること 私的なことから距離を置く 今政治を語ることは私を前面に出している これがロスジェネの人たちの一つの特徴 公と私の関係は変わってきている こういう状態からポストモダンという言葉はどう見えるのか
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大塚英志さんという評論家がいて、 「リアルのゆくえ」という対談本を出した すごく喧嘩している本 そんなに言うなら帰りますよみたいな感じ そういうトークが延々と繰り返されて楽しいと評判 それだけじゃないけど なんで喧嘩になっていると 公であることは何か、というのがテーマ 大塚さんは話し合う意見をぶつけるのが公共性という 僕は、意見とか戦わせるのが無効化しているというのが今の世界という 僕は南京大虐殺はあったと思うけど みなさんにあったと説得できることは別 今までの世界は、南京大虐殺についてのソースは限られていた そういう人たちは書く資格があるから発信しているだけで価値がある しかしネットは、また火病ってきたよ、と色々な言葉がくっついてくる 反論以前に発言が無化されるネタ化 真実か真実じゃないかはほとんど関係なくあらゆる言説について言われる 良いか悪いかは別としてそういう環境にある メディアが一極集中でなくなった 意見を戦わせて、これが真実かもしれませんね、ということが本当に起こるのか この情報環境の中では、すぐにネタ化されてしまい、 想定される反論はすぐ来る 真面目に喋っても真面目に聞いていないということがあまりにも明らか もう知識人は啓蒙とかできない これが対立の大きな原因 ある種、公共的な話し合いを信じるか信じないかというのは大きな論点 信じる派と信じない派 信じない派の東浩紀は単なるバカでやる気ないと思われるかもしれないが あの本で何が言いたかったのかというと、 例えばGoogleは何が画期的かというと 内容に関係なく知の秩序を作っている ページランクは内容には関係していない 非難するためにリンクしていてもリンクはリンク 肯定的でも批判的でもページ構造だけ 嫌われていても関心をもたれれていることだけが重要 今まで人は世界中にいろんな情報をどう秩序付けていくかを内容で考えていた こういう主張、ああいう主張、どう意味づけて全体的な世界観の中で与えていくか これが知の秩序を作ると言うこと Googleの場合は内容の解釈は意味がない 誰かに触れているということだけ 南京大虐殺の賛成か反対か どちらも南京大虐殺に触れているという等価な事実 戦って意見を調整するという近代の秩序とは全く違う 知の秩序の変化をGoogleは象徴している Googleがつぶれても他の何かが受け継いでいくはず 何かを言っても無化されていくのが前提 そういう世界について考えていく これが授業の主旨 …授業が暗いですね 俺が元気ないからか 今日の夜ネットスターで僕が出てるんでそっちは明るくやってるはず 最近人に教えるということに懐疑的になっている 「リアルのゆくえ」みたいな対談をしているとそう思う 大塚さんは啓蒙は大事だと言っている 僕は大事じゃないといっている 大塚さんは僕の話を聞いていない 大塚は僕の意見を完全に門前払い 話しても駄目だと改めて思った 人と話すって空しいな 公共性について考えるのは、全体性って何かということでもある 公共性、Google、そういうことを織り交ぜながら話していく 工学っていうものは今は大事になってきている 大事になってきているという意味を深く考えて欲しい 大学制度の基本みたいな話をすると 元々中世で生まれたもの 理学部、神学部とかはあったけど、工学部は入ってない 物理学は神学に近い 世界の原理を取り出す学 ヨーロッパの基本的な発想としては 工学はもともと学じゃない 学はもっと高尚で超越的 職人が手作業でやることじゃない Universityと高等専門学校を分けている 工学部は外側に押しやられていた 経営学とかもそう 20世紀の後半になってくるとそちらの学がすごく強くなってきた Googleを起業した人が 哲学、神学的理念をもってGoogleのサーヴィスを作ったわけではなく、 効率よくページを探したくてポンと出てきた 世俗的な技術革新から出てきたものが世界観を変えている もともと工学は世界観と関係なくやれるものだった 文学部とか医学部は超越的な理念が必要で教えなければならない 工学部は世の中の役に立てばいい しかし今は工学こそが世界を変えることになっている エンジニアリングが変えてしまう世界はどういう世界像なのだろうか エンジニアリングの世界も考えなければいけない 東工大と言う場所で僕がこういう授業をやることで 何か果たしていければいいかと思っている 単なる役に立てばいいサーヴィスが世界全体を変える 単に役に立てば良いのです、では済まされなくなっているのではないか
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ポストモダンというのは1970年代に有名になった言葉 脱近代、これ自体には深い意味はない 脱なんとかっていう言い方がすごく流行っていた こういう言い方に大した定義はない 空気を伝えるような言葉 近代社会が終わったあと、どんな社会が来るのかみんな考えるようになって、 ポストモダンの思想家が出てきた ポストモダニズムは2つの流れからきている postmodernism ← アメリカを中心した消費社会の進展(についての観察) ↑ フランス現代思想 一方ではフランス現代思想という哲学的思弁的 東工大の学生たちが嫌いそうなわけのわからないやたらと難しい文章を書く人たちがいる デリダの差異とドゥルーズの差異、差異と差異の差異について 僕は元々これの専門だった はっきり言って役に立たなそうな話 他方でアメリカで起きていることの社会的な観察 アメリカはヨーロッパと全く違っていて ヨーロッパが考えていた近代的理念からずいぶんずれていった コカコーラは一体なんだ ハリウッド映画、グローバルに受けているアメリカのもの アメリカ文化というより、人々の身体の快楽に直接訴えてくる消費財 消費社会がアメリカで実現するのは1930年代くらいから 今では当たり前かもしれないけど、なぜ服に流行があるのか 服なんて暖かければいい しかしなんとなく、買い換えてしまう そういう消費者が大量に出現したのがアメリカ 消費者の集団は実は19世紀くらいまでそんなにいなかった みんながお金を持っていて、消費財が供給されている、そこそこものを変える世界が 20世紀アメリカで実現した 近代社会は18世紀のヨーロッパで生まれた、近代的な市民像、社会像が崩れてきた 大衆はこんなにバカだったのか ホルクハイマーとアドルノが「啓蒙の弁証法」という有名な本 大衆社会は啓蒙の結果裏切られ、出現したのはバカばっかりの大衆集団 近代的な市民に対して疑いを投げかける 近代的な人間観というのを乗り越えなければいけない そういうのが混じってできたのがポストモダニズム その時にフランス現代思想にどういう人たちがいたか Jean-Francois Lyotardポストモダンの条件」1979年 この本の中で「大きな物語の崩壊」ということを言った リオタールは何を言ったのか 知の全体性が崩壊したということ 1979年にはまだインターネットとかはないけれど 情報社会と言われていた メディア社会 テレビとかラジオとかみんな聴くようになって世の中の情報が増えた かつて社会というのはあんまり情報がなかったので全体を見渡すことができた 複雑になって様々な学問領域があちこちで出来て、知の全体性が壊れた 大きな物語はどういうことか ヨーロッパの哲学にはヘーゲルという人が居た 19世紀の真ん中ぐらいの人 弁証法  僕がこうするべきだ、相手が反対だ、調整する、  もっと上位のもっと両方が納得するような意見が出てくる 人類の歴史はこの繰り返しで成立している 人間はメタレベルに上っていく 絶対知に辿り着く これが人類社会の進歩だとヘーゲルは考えた この発想はヨーロッパの哲学にすごく影響を与えた 単に哲学者というだけではなく、大学制度にも影響を与えている 近代の大学制度は弁証法的な発想からきている 社会の知の全体性を保障している 社会全体を見渡す視点を大学は与える そういう知があるから社会は次のステージに登れる しかし工学、経営学的なような知が20世紀後半に多様な形で出てきて 知の全体性、大きな物語が崩壊した 大きな物語は本当はヘーゲル的な弁証法の話なのだけど もうちょっと拡張すると 20世紀は冷戦構造があった ソ連があった ヘーゲルから発展したマルクス主義、大きな物語を信じている そういうのが今は崩壊している そもそも近代社会とは何か 前近代では貴族の息子は貴族 流動性がなくしっかりしていた 社会全体について考えなくて良かった 農民はどうして農民なのか、 社会の中でどういう位置づけなのか考えなくていい 近代社会 人権とかでてきた みんなばらばら、同じ人間 自分は何で貴族なのか、こういう職業についているのか、 自分で自分を正当化しなくてはいけなくなる 考えなければいけなくなる その時に出てくるのが大きな物語 一旦社会の上から見下ろす必要がある 社会はこういうふうにできている、だから自分はこう生きている そういうロジックとして正当化する 新聞はぱっと開くと、社会面があって、色々な大きさの記事がある 社会を見下ろしている視線 これはすごい重要だから1面なのだ 社会の中で個々の事件を位置づけて上から見下ろす 国民国家が出てきたときに誕生する視線 社会の全体性は近代ですごく重要 社会の全体性はどの時代でもないと言えばない 50年前の人が本当の意味で社会の全体性を捉えていたわけではない しかしこれを読めば社会の全体性がわかるという言説はあった そういうものにすがって人は生きていた 前近代は大して流動してないから身の回りだけ見ていれば良かった どこかの国王がやってきて村が焼き払われた しかしどこかに忠誠心を持っているわけではない その村に生まれたから でも急に巻き込まれてしまった ドイツ人とかそういうアイデンティティはなかった 18世紀の末に近代になった結果、 ばらばらの人間を位置づける物語が必要になったため、 社会の全体と言うくくりが必要になった フランス人、日本社会 みんながアイデンティティを作った Nation、国民国家への所属が必要になった 前近代 貴族だったら何々の一族というアイデンティティは強いが国へのそれはない 農民とか庶民はそういう発想がない 日本でもおそらくそう 江戸時代以前の人たちにとって日本というアイデンティティはおそらくなかった 薩摩藩の農家の息子にとって北海道とか東北で何が起こってるのか知る必要がない みんな固定されているので大きな枠組みは要らない 近代はみんな平等ということになったので でっかいことを考える必要がでてきた だから大きな物語が壊れると言うのは大きな意味を持っている 所謂宗教とは違う 前近代でもどこの国にも宗教があった しかしそれは近代の大きな物語とは違う 大きな物語がなくなってみんな一個人ばらばらに投げ出される 今は過渡期 近代国民国家が作り上げてきたそれぞれの人間の人生を安定化させる装置 それがなくなったが、 それに代わる安定化が見つからずふらふらしているというのが 今の僕たち 大きな物語を担っていた組織 学校、会社、地域共同体、マスコミ 日本はこうある、こういう状況にある、そういう情報をフィードバックしてくれる 今は教育とかマスコミがうまくいかなくなっている 自分はどうして今の社会を生きているのか納得できないまま ときどき事件が暴発している セキュリティがすごく問題になるのはそういう背景がある 大きな物語は社会の安定化装置 それが壊れていく過程が1970年代から始まる どういうことか 1970年代は世界史的に見ると大きな事件がいっぱい起こった 68年革命 日本で言うと全共闘 所謂左翼運動 学生たちが左翼運動に身を投じた バリケードを築いて権力と戦うというのが世界中でおきていたが 68年を前後に決定的に失敗していく 左翼運動が限界を迎える(政治的なもの) 成長の限界(経済的なもの) 近代社会といったときにもう一つ大事なのは産業革命 それから世の中は上り調子だった どんどん物を作って世界全体が豊かになっていった 70年代に環境問題によって限界がでてきた 1970年代までは環境問題なんて考えていなかった 地球やばい、資源も枯渇してきてる 経済的な成長神話も限界を迎えた コンピュータ・ネットワーク(メディア)が誕生した ARPANetが起動し始めた インターネットの起源 パーソナルコンピュータという概念も出揃ってくる まだ萌芽的だが今から思えば決定的 近代的な政治、経済が限界になり、メディアが出てきた これらが重層的に社会を大きく変えていくことがポストモダン