東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第4回(10/31)

教室で、ゼロアカ第四関門まとめ記事を書いているid:noir_k氏に「やずや・三ツ野チームの同人誌でマンガを描いているのはid:nitarで間違いないのか」という旨を聞かれました。それは間違いありません!

というわけで、『ケフィア』(目次はこちら)という同人誌に、「論者ハッタリたん」という1ページの愉快な漫画を描きました。これは11月9日に秋葉原で行われる文学フリマで500円で売られるものです。ブースはB-68です。文学フリマには自分も行くと思います。なお11月8日で25歳になります。この年齢には愕然としますが、おそらく自分は、さすがに10年後には偉大なクリエイターか何かになっていると思われるので、常識的に考えればこの本はとても貴重なものとなるでしょう。やずやさんを始めとして、この同人誌に関わっている方々の多くも同様だと思うのだけど、それは言うまでもないことで、まあつまり、よろしくお願いします。

それはさておき講義メモ。

こんにちは
いつもパワーポイント持ってきても使わないので今日は潔く何もない
普通に授業をやる

前回柄谷行人とかそういう話
文芸評論
その前はコジェーヴ
動物化

シラバスには昨年までと同じ授業やってもやる気がわかない
もう少し角度を変えて、
動物化した社会で公共性はどう成立するのかを軸に考えていく

公的であるとは何か
最近ネット論壇で話題
元々難しい問題

岩波『哲学・思想事典』の斎藤純一さんの定義
コンパクトだけどまとまっている
哲学とか思想は人によって定義が違うから
執筆者を気にしなければならない

最初の段落
 現在の政治。社会理論の用法としては、
 公共の言論空間、公論がそこで形成される市民生活の一領域を指す場合が多い。
 ただし、日本語では一般に公共事業など公権力の活動を正当化するための言葉として用いられ、
 英語でも``publicity''の語には宣伝・広報という操作の意味合いが依然色濃い。

既にかなり斎藤さんの立場が出ている
人文社会系の人たちの頭の中では、国家と市民が対立している
公共性は市民が作り出す言論の空間だ、と言っている
市民的公共性と言われる概念
市民たちが色々喋って作る言論空間

対して、国家
公共事業は基本的には国家事業
公共という言葉そのものは実は国家に使われることがある

本来は国家に対立する市民の側に使うべきだと言っている

パブリシティ
操作の意味合いが強い
市民的公共性に対して、操作的公共性
企業とか国家がメディア操作をする公共性

第二段落の一部
 公共性のこうした<規範的>理解に決定的影響を与えたのは
 『公共性の構造転換』[1962]以来のJ.ハーバマスの仕事である。

ノーマティヴ、規範的=あるべき姿として

『公共性の構造転換』ハーバーマス
3800円
思想書は結構高い
でも理系の本も結構高いか

ハーバーマスは1930年くらいの生まれ
30前半の本
今の僕よりも若い
なかなかハーバーマスはなめられない
もはや僕はフーコーが『言葉と物』を書いた年にさしかかる
テレビとか出ている場合じゃないかもしれない
操作的公共性の只中で生きている

この本で決定的な色々な話をしている
理論書というよりも、歴史書、思想史書
公共性という言葉がどういうふうに出てきて成長を遂げて危機に陥っているのか

第三段落
 【歴史的経緯】公共性は、18世紀にまず、
 カフェやサロンなどを舞台とした文芸批評の領域において、
 宮廷や教会の精神的権威に抗して表現や意見交換の自由を求める言葉として
 教養市民層に広がった(「文芸的公共性」)。

政治について自由に語ることが最初からあったわけではない
貴族のお嬢さんの前で、教養のある人が人間とは何ぞやと延々と語る
それが公共性の起源
文芸的公共性

# 新しいプリントが配られる

プライヴェートな人間たちの身分的な障壁を越えた話し合いの場
18世紀のヨーロッパで確立した

近代社会が確立していくに従って、
19世紀後半くらいから、
国家、経済が結びつくようになった
20世紀には空洞化
今でも益々とどまるところを知らない
何故空洞化したのかを書いた本

公と私を分けるというのは、ギリシャでの時代はあった
生活は全部奴隷がやっている
広場では、俺は貧しい、明日からどうやって食っていこう、とかいう話はせず、
抽象的な話しかしていない

ギリシャ語
oikos / polis
家     市
経済   政治
私     公
純然と分けられていた

アーレントは生には2つあると言った
・bios 生活の必要性に迫られない生き方
・zoe  zoo、動物的生命、生き物
今だとbiosも生命そのものを指す言葉になっているが、
ギリシャ語ではニュアンスの違いがある
明日のパンどうしようというのは、zoeの領域

公と私の区別は中世にはなくなっていた
中世は非常に厄介な世界

私的所有権
この土地は俺のもの、俺が自由にする
シンプルに紐付けされている
中世はそこまで明確な形で存在しない
土地の持ち主は、領主、教会、色々なレイヤーがある
全く違う経済システム
領主は公的か?
ある面では公的、ある面では私的
中世では分かれていなかった

公と私の概念はギリシャでは歴然としていた
しかし別の社会では存在しない
近代で再導入

斎藤純一『公共性』P21
 現代でこそ公共性はポジティヴな意味で用いられているが、
 19世紀半ばからおよそ1世紀の間、公共性はネガティヴにとらえられてきたと見てよい。

18世紀の文芸的公共性
19世紀真ん中には制度化される
しかしネガティヴに捉えられるようになった

 その一つの典型は、『時間と存在』(1927年)のなかで
 「公共性」を「世人」(das Mann)が支配する領域として描いたハイデガーだろう。
 ハイデガーによれば、「公共性」は、人びとが「お互いの異なりや際立ち」を失い
 「混入しあう」存在様式しか許されない非本来性の空間である。
この本のdas Mannはdas Manの誤り

非本来的
人間としての固有の力が奪われた

ハイデガーは公共性を批判した
キルケゴールも批判した
カントは啓蒙性とかが良いといったけれど

何を言っているのか

ハイデガー存在と時間』(上)ちくま学芸文庫P275
 第二七節 日常的自己存在と世間
  上述の共同存在の分析によって得られた成果のうちで存在論的に重要な点は、
 各自の現存在とほかの人びととの「主体的性格」は実存論的に規定さるべきもの、
 すなわち、ある存在相様にもとづいて規定さるべきものであるという知見である。

ハイデガーの文章は講義でやるのは難しい
アツいって感じ
翻訳が良し悪しを超えたところに何かある

共同存在
Mitsein
with-being
共に存在していること
それが何かを分析してきた

各自の現存在=人間
Dasein
there-being
そこにあること
人間が人間である意味はそこにあること
人間と他の人々の主体的性格というのは、簡単にいうと、
他の人と一緒に生きている、ということから考える必要がある
といったことを言おうとしている

das Man
これも変わった言葉
代名詞のmanと、名詞としてのMann=人間
manはsomeone、誰か
nが1つのmanに不定冠詞を付けて、英語でいうとThe someoneみたいな言葉にしている

ハイデガーは結局大衆社会批判をやっている

P276
 共同存在にはこのような疎隔性がぞくしているということは、
 とりもなおさず、現存在は日常的相互存在としては、
 ほかの人びとの指令下にあるということを意味する。

人間は共同で生きていると、単独で生きることができず、
色々な人の思惑に左右される、操られるようになる
特定な人ではなく、ぼんやりとしたdas Man(世間)

斎藤さんの本だと「世人」
ハイデガーだとどの系列の翻訳者を使うかで論文審査とかでいろいろうるさい

ハイデガーは基本的にはMitsein、共同で生きることを大事にしている
しかしdas Manに支配されていく
das Manに落ちていかないで如何に共同存在するか
das Manは誰か特定の人の視線ではなく茫漠たる誰か
非常に厄介な存在

特定な人間ではなく、日本語で言うと「みんな」
みんなそんなことやらないでしょう、の「みんな」
みんなの影響下において平均的になる、

疎隔性
Abstandigkeit
Ab ずれる、離れていく、そういうニュアンス disみたいなもの
standigkeit 立つ
自分が自分じゃなく揺らいでいく

大学院ではアニメとかじゃなくてこんなことをやっていた

ハイデガーの文章の読みにくさは、
こういう造語のニュアンスが翻訳でどんどん消えていってしまう
デリダもそういう作法をすごく引き継いでいる

P278
 疎隔性、平均性、均等化は、世間の存在相様として、
 すでに「公開性」として知られているものを構成する。

「公開性」は「公共性」と同じ

公共的であることはあることは、あんまり良いことではない
そういうことをやっていると、das Manに脅かされていく
みんなで共に生きると言いながら、自分に深く入っていくことが大事
とハイデガーは言う

 世間はいたるところに来合わせていて、
 しかも現存在が決断を迫られるときには、いちはやく姿をくらましている。
 けれども、世間はあらゆる判断と決断をすでに与えていると称するので、
 世間は各自の現存在から責任を取りさる。

das Manが常に責任を取ってくれるので、人は無責任になっていく
みんながやっているからやったんだ、
そういうことについてドイツ語特有のメタファーで難しく語っている
公共的な市民空間をネガティヴに捉えていた

『存在と時間』は1927年
あと10年くらいしてくるとファシズムが出てくる
爛熟した大衆社会がやばい時期になってきた
公共的とか言ってもdas Manばっかりで駄目じゃん

キルケゴールは全然読みやすい
アツい男みたいな感じで普通に読める

『現代の批判 他一篇』岩波文庫 P77
 一日のうちの幾時間かは、彼はおそらく公衆に属する一人であろう。
 つまり、ひとがなにものでもない時間には、である。
 というのは、彼の本来の姿である特定のものであるような時間には、
 彼は公衆には属していないからである。

これは結構良い指摘

僕たちは一人一人特定の人間でありながらマスの一人
実際にはマスなんてものは存在しない
僕が専門領域に関することを聴かれる
「哲学は最近低調だけどどうよ」
関心を持っていることに対して主体的な判断を求められる
そのときはマスではない
しかし、今日は何食うか、おにぎりかな
こういう判断はマスの判断
すごく予測可能な典型的な判断をしてしまう

bios 人間の人間性
zoe  人間の動物性

パンを食わなければいけないというのは生物的な限界、スペックに依存している
パンを食べることの自己表現ではない
意見があろうがなかろうが食わなければいけない

人間には人間的な行動もある
ある種主体的な行動
対象についてちゃんと考えて分析したり自己表現したりする
専門領域、周辺の様々なことに関しては、
僕なりの意見を持っているので、個人として話す

ところが没主体的に動物的に判断しているものもある
自分にとってどうでもいい判断はいっぱいある
多少コンピュータには関心があるからマックを選んでいる
これは主体的判断
しかしたいていの人にとってはOSをどう選ぶかは没主体的
彼らがやりたいのは年賀状作りたい、エクセルを使いたいだけ
安いものを没主体的に選ぶ
集団の一部として選ぶ

アーレントの場合
biosとzoeみたいなものを分けた時に、
動物的なものは、パンを食べる、性交して増える、寝るときに暖かくする
そういうものを指していた

しかし今では情報が多すぎる
没主体的、動物的に判断するものが増えてきた
もう考えられない
本来コンピュータを買うのは主体的なものだった
しかし今はとりあえずコンピュータが必要だ
主体的な意味を読み込んで消費している人も居る
雑誌買って、ネットをチェック
レビューサイト、ライターさんの文章を読み込んで買う
しかし全然関係なく買う人もいる
これは同じ消費
結局消費者でしかない
ここに難しさがある

私的領域と公的領域
生存に関わる領域と、人間的な活動している領域
同じものが扱われているのに、
単に動物的消費している人と人間的な意味を込めている人が
どの領域、レイヤーにもいる
そんなことを考えていたのでキルケゴールの
 一日のうちの幾時間かは、彼はおそらく公衆に属する一人であろう
という文章は示唆的だと思った

人間は24時間主体ではない
単にてきとうに生きている領域がある
モザイク状に、渾然一体になっている
この話はそのうちまた

斎藤純一氏の文章に戻る

公共性というのはネガティヴに捉えられてきた
シュミットもそう
『政治的なものの概念』をお奨めする
これは名著
政治の本質とは何かに答えを与えている
ぬるい話ではない
政治とは友と敵を分けること
美的判断にとっては、美と醜を分けることが重要
真実は真か偽か分けること
経済は儲かるか儲からないか分けること
政治は友と敵
友と敵をきっぱり分けて、敵の殲滅、存在論的殲滅
相手をこの世から消し去る
そういう発想が政治
ものすごくクリアな政治の定義

美しい、良い、儲かる、これらの判断は全然違う
政治はまた別の軸がある

多様な人たちが話し合って政治的領域が作られると言われてもピンとこない
それだけだとオタクたちがアニメについて語るのと一緒と思うかもしれないけど、
敵の殲滅に向かうものが政治
ナチスにも関わっていてやばい

大衆化社会になってしまってメディア操作とかやばい
公共性なんて維持できない
市民的な公共空間は駄目になっていく一方だというのが20世紀の前半の議論
後半に、考え直そうという議論が出てきた
アーレント『人間の条件』、ハーバーマス『公共性の構造転換』
公共性の議論に関心があるなら確実に抑えておくべき

20世紀は人類は真ん中くらいに巨大な打撃をこうむっている
すごく巨大な打撃なので近代が信じられなくなった
ナチスが人とか燃やした
もう駄目かな俺ら

もう駄目だというのが、ポストモダン思想
何故維持できないのか考えた

もう一度考えよう、頑張ろうとポジティヴに考える人も出てきた
J.ロールズ『正義論』
R.ノージックイデオロギー・国家・ユートピア』
これらが1970年代に出てきた
ここからリベラリズム論争が始まってきた
アメリカでも公共哲学が盛んになっていた

この2つの流れはいろんな箇所で論争がある
20世紀後半の哲学はこういう流れがある

ドゥルーズとかデリダと、
ロールズとかハーバーマスは
方向性、あり方が違うと思う

ハーバーマスの『公共性の構造転換』は1962年に出ている
西ドイツにはテレビがあまりなくて、
翌年アメリカに行ったときにハーバーマスはテレビを見たとか
しかし、テレビはなくても、新聞とかラジオで同じ問題が出ていた

『公共性』P23
 ハーバーマスが同時代に看て取ったのは、「操作的な公開性」であった。
 マス・メディアは特権的な利害の顕示のための機会を提供し、
 大衆はその操作的な力に曝されている。
 彼らは、「文化産業」(アドルノ)が繰りだすシンボルを唯々諾々と受容しているにすぎない。

アドルノ、ホルクハイマー『啓蒙の弁証法』
読むと面白い
第二次世界大戦が終わって、戦前の教養を受けていた2人の哲学者が
こいつはやばいぞと思った、という本

「文化産業」
独特のいやみが入っている言葉
戦前のヨーロッパの考え方からしたら、文化と産業は違う
ハリウッド、文化が産業になってしまう強烈な違和感
ハーバーマスアドルノの弟子というか助手だった

メディア社会の中で新しく公共性について考えたのが『公共性の構造転換』

基本的には戦後のアメリカ、ヨーロッパにおいては
メディアによる操作的公共性が強くなっていった
対して市民的公共性をどうやって立ち上げるか
それがハーバーマスにとって重要だった
討議の空間
「討議的理性」話すという理性のあり方
これが市民的公共性を作る
みんなが話すことが大事なんだ

最終的にはルソーの『社会契約論』を読み直すということがやりたい
250年くらい前の本
フランス革命の理論的支柱になった本
これは面白い本

みんな個人はばらばらにいると喧嘩とかしてよくないから、
主権者に権利を譲り渡す
その代わり主権者がやれといったら義務としてやらなきゃいけない

ルソーは中間団体は作らなくてもいいという
抽象的な社会とだけ契約する
自分と似たような奴を組織して、議論しても、
自分が元々やりたかったことがわからなくなってくる
みんな全部引き籠もっていて、
頭の中で考えていることが自動的に抽出されて、一気に一般意思がボンと出てくる

『社会契約論』の中身を読まずに普通に想像するに、
個別意思を持った人たち話し合えば一般意思が立ち上がる、
政府が暴走したりするとそれに対して否を突きつける、とか思うかもしれない
全然そうじゃない
ルソーが言うには特殊意思と一般意思が齟齬を起こすことはない
僕たちが考えていることが全部まとまって一般意思を作る
その中に含まれている僕が、一般意思と意見が違うことはない
もし意見が違うなら、一般意思を代行していると称している奴が悪い
政府が間違うことはあっても、一般意思は間違わない
一般意思には議会はいらない
ただ存在している
そんなことを定義して何の意味があるのか
しかしそれが『社会契約論』

後々批判も浴びる本
ファシズムの理論的支柱にもなる
話し合わなくてもいい
絶対に一般意思が正しい

ルソーは個人の自由を言う
『人間不平等起源論』
自然人というのが居て、社会を作っていくに従って、自由が失われていく
反文明、自然に帰れ

ところが、『社会契約論』では人間がばらばらに
個人が抵抗していくのは不可能

どういうことか
ルソー問題
E.カッシーラージャン=ジャック・ルソー問題』
これはいい本
ルソーの2面性がコンパクトに書いてある

ルソーの考えでは市民的公共性とか討議的理性は要らない
ハーバーマスは明確にルソーを批判している

この授業はマニアックな方向になっている
そこまででもないか

『公共性の構造転換』P137
 ルソーは政治に浸透された社会という非市民的理念を構想するが、
 そこでは自律的な私生活圏、国家から解放された市民社会は、存立する余地がない。

ルソーにおいては私生活がない
生きていることそのものが一般意思を生成する
プライヴェートな公共圏とは別の議論空間が存在する余地がない

 非公共的意見は「公論」という新しい名のもとに、唯一の立法者へ高められる。
 しかも、論議する公衆の公共性を排除した形においてである。
 ルソーが用意した立法手続きは、この点に疑いの余地をのこさない。

万人の意思がそのまま一般意思になる
パブリックオピニオンだけが存在する

どういうことか
ルソーの問題はいろいろな意味で考えると面白い

単なるアイディアでしかないけど、
市民的公共性というのは言語の世界=公=bios
しかしそれとは別に動物的世界がある
人間は市民的に公に現れることはできる
しかし人間は24時間全部公的ではいられない、主体的に振舞えない
動物的、私的な部分をどう処理するか
動物的かつ私的な部分を、時間的、空間的に局在化して押し込める

これが機能しなくなるのがIT
家で書いている日記がネットで書いた瞬間にパブリック
私的、公的という切断線が曖昧になってきた

これまで市民的公共性だけが社会を作ってきた
今のテクノロジーは動物的生、
コンビニでおにぎりを買うということも、
社会設計のためのデータとして使えるようになってきた
これが社会設計の哲学を考え直さなければいけない大きな理由

近代社会は2つの権力があるとフーコーはいう
・規律訓練
・生権力
  zoe、人間の身体をコントロールする権力、
  保健衛生、統計的知に基づく集団的管理
近代社会はバカみたいに大量な人間を一気にコントロールしなければならなくなった
軍服を何十万着作らなければいけない
どれくらいのサイズを何着作ればいいのか
そういうことに近代社会がいきなり直面した
人間の背丈をみんな計って平均値を取る
統計の手法
色々なものをデータにして社会に押し込めていく
それを生権力という

今までの思想の生権力に関してなされていた議論では、
身体は一方的に管理されるものだった
動物的生を管理し、枠に押し込めるもの

食事をしっかりしよう、コンビニで食うな、奥さんが作ったものを食べろ、
スタンダードなライフスタイルを作るのが近代的な生権力

コンビニで食べてもいいけどそのデータをがんがんとって、
最適化するように資源配分されていく
多様な動物的生を多様なまま生かす
昔の生権力のモデルでは考えることが出来ない

これはルソーの言う、生きているだけで一般意思が生成されるというのにに近い
Amazonで買う、検索ワードを打ち込む、懸賞に応募する
全ての生活の行為が何らかの形でデータになって、
どう資源配分すれば良いかの一つの資料として生かされる
それを一つの理念系にすると、ルソーの話が空論ではなく読める

授業の後、noir_k氏とpggmと飯。どうでもいい事とどうでも良くない事を色々話せて良かったです。教室にはmassunnk氏も居たのだけれど、彼はリア充なのでどこかへ消えてしまいました。しかし深夜には筑波批評社のustに出演しており、高いポテンシャルを感じさせます。