東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第5回(11/7)

引用部分を写経するのが一番面倒な作業だということが分かってきました。

こんにちは
後でプリントを配る
それまでなんとなく雑談
てきとうにいく

今日は5回目くらいで一番たるんでくる頃
あんまり授業とかしたくなけどしょうがないからやる

プリントがないと話もない
知ってる人は知ってると思うけどゼロアカ道場というのをやっている
批評家育成道場

最初50人くらい
どんどん減っていく
最後残った1人に1万部の本を出させる
1万部というのは結構すごくて印税で150万円くらい

明後日文学フリマ
秋葉原で年に一回行われる
10人を2人ずつ5チームに分けて同人誌を作らせて
点数と売り上げで高い3組が抜ける
一部で異様に盛り上がっている
どう盛り上がっているかというと、ニコニコをみるとわかる

評論とは何だろう
ふつうは作品があって、作品について批評するという感覚がある
文学が好きだから文学について批評
美術作品が好きだから美術作品を批評

ここ数年見ていると、純粋に批評が好きな人
何か批評がしたい
どのジャンルでもいい
そういう人が結構いる
不健全と言えば不健全
しかし冷静に考えてみると、
先週話したハーバーマスの文芸的公共性、18世紀のサロン文化
サロン文化はもともと、何かについて論じたい奴が大量に集まっていた
ただわいわいやっている空間だった
これが市民的公共性へ発展していった
ネットは文芸的公共性を作りやすい
21世紀サロン文化が立ち上がっている

『らき☆すた』というアニメ
最初の4回で降ろされた監督の山本寛と対談してきた
山本寛さんはアニメをもっと批評して欲しいという人
僕も12,3年前にアニメ批評をやっていた

# http://www.hirokiazuma.com/archives/000460.html
# にあるような内容

というわけで、
ライトノベルとかギャルゲはやたらと評論が転がっているが、
アニメはあんまり転がっていない
そんなんじゃ良くないからみんな書いてくれないかな、と山本さんは言う

アニメが好きな奴がいる
批評を好きな奴がいる
批評を好きな奴は批評しやすい対象を探している
機能としては全然違う
ジャンルを応援したい批評家がいる一方で、
批評とか評論が好き、何かについて話す、考えるのが好き
素材はなんでも良いや、とまではいかないけれど、ある程度自由な人たち
そういう批評をやってくれる人たちがアニメに入ってこなくなった
その理由は様々で、「アニメ夜話」はいつになったら面子が変わるのだろう、とか

「思想地図」で黒瀬陽平くんに書いてもらったけど、
色々批判があって疲弊していた
そこで2つの道がある
・芸大とか出てるんだし、ブロガーなんてスルー
・ガチで戦って新しい世界を開く
黒瀬くんは華麗にスルーして、また一人消えていったかなあと

山本さんにそういう話をした

かつて「ユリイカ」で錚々たるメンバーが『エヴァンゲリオン』について語っていた
しかし今はハルヒらきすたについてみんな語らない
アニメ狭くなったなあ
何でこんなふうになったんだろう

こういう話は対談に生かされないかもしれないけど、
『アニメージュ オリジナル』に載ります

ちなみにA-1 Picturesはなかなか金持ちっぽかった

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しょうがない授業やるか 公共性について考えている 斎藤純一さんの本の良いところを持ってきた しかしプリントが来ない もう一つ余談するか いややっぱりちゃんと授業しよう ・ハーバーマス『公共性の構造転換』 ・アーレント『人間の条件』 この2人を中心に考えていくと公共性という概念が見えてくる 公共性は人文系の考え方からすると言論空間 色々な人間が色々な意見を戦わせる これが公共性の定義 言論空間というのはアーレントは人間の条件の中で、 人間の行動一般を次の3つに分けた ・action  活動 公の空間の中で言論を発すること ・work  作品 ものづくり 家で初音ミク作る、同人誌作る ・labor  労働 賃労働 バイトみたいなもの 牛丼屋で1時間働いたから時給650貰う 言論活動とものづくりと単に身体を動かす労働 3つの種類が人間の行動一般にある これは便利な区分 公共哲学、社会哲学の本を読むとよく出てくるので覚えておいて損はない アーレントの考えではactionが一番公共 action>work>labor 政治はaction 家で引き籠もって作品を作るのはwork ベタ塗りはlabor laborは生命を維持する活動 明日のガス代のために、生命の為に牛丼屋で働く 牛丼を作りたいわけではない 対極あるのは、世界認識をするための活動 多くの動物はlaborしかない 時々workをする動物もいる しかしactionだけは人間の領域 世界認識をするために言論空間を作る 人間にとって最も尊く重要なこと この順番の話は日常的に納得がいくこと 牛丼屋でバイトしていても、だんだん牛丼を作るのに命を賭けていくようになる あんまりいないかもしれないけど 牛丼という作品を作るのはwork 牛丼の意味についてブログで発信したりするとactionに近くなっていく 一つの行動に対して、どのように接していくかで違う # プリント配る アーレントギリシャ的公共性をモデルにしていた 都市と家 polisとoikos oikosは生命を維持するために必要 プラトンの本に出てくるのはみんな貴族 都市の広場に集まって適当なことを喋っている 生きるとは何だ 彼らの生命を支えているのは奴隷 polisの領域に入ってこない 奴隷たちはlaborの領域で働いている これがギリシャのモデル 奴隷労働されていることはすっかり忘れて、抽象的な思弁をして世界認識に向かっていく 明確に領域が分かれている ギリシャ的な社会空間 アーレントは明確に分かれるべきだと考えていた oikosの領域がpolisの領域に侵食しているのが今の世界 これは実感できること オタク的公共性がどうのという話をしていたが、実はもう少し違う発想 ネオリベな世界で人びとが苦しんでいる 誰が悪者なのか?改革できるのか? 世界はあまりにも複雑なので、世界を悪として名指すのは難しい 大きな物語は革命の物語 世界は人間の意志で変えることができる ヘーゲルマルクスの世界 これは1989年で崩壊 今でも左翼の人たちは革命の物語を持っている ネオリベに抵抗していく これは冷戦期の感性 ミシェル・ウエルベックある島の可能性』 文学と言えば文学、SFと言えばSF 主人公僕は45くらいの中年フランス男 メルセデス600SLクーペに乗っている金持ち 貧乏なモデルの女の子、エステルに出会って、ちょっかいを出していると言う話 P171  彼女はこうした不平等を、他の全ての不平等と同様に、いとも簡単に受け入れている。  僕の世代はまだ、望ましい経済の形態をめぐって、さまざまな論争を繰り返した世代だ。  とはいえ市場経済の優位性においてはいつもみんなの意見は同じだった  ――かつて別の形式を強制されそうになった民衆が、  それが現実になりうるとわかった途端、実に熱心に、ある意味血気盛んに、  それを拒絶したという事実が、その骨太な根拠だった。  エステルの世代には、こうした論争自体、存在しない。  資本主義は彼女にとって自然環境だ。  彼女はそこでのびのびと暮らしている。  生活のあらゆる場面で見られるこうしたのびやかさが、彼女の特徴をよく示している。  彼女にしてみれば、人員削減計画に反対してデモを起こすなんて、  気温の低下や北アフリカのバッタの大群の襲来に反対してデモを起こすくらい、  ナンセンスなことだろう。  そもそも集団による要求という発想すべてが、エステルには押しなべて奇妙だった。  エステルにとっては、あらゆる死活問題がそうであるように、  経済面においても、人はみな自分の身は自分で守らなければならないし、  人の助けなど当てにせず、自分の人生は自分で切り盛りしていかなければならなかった。 これは優れた観察 22歳のエステルというのはロスジェネ世代 エステルはスペイン人 不当に貧しくて搾取されている しかし怒っていない 不当に経済状況が悪い、スペインに生まれてアンラッキーだった……で? 世界中でどこでも似たようなことが起こっている ダニエルがエステルについて言っているのは、 資本主義、搾取、格差という構造に抵抗するのが無意味になっている 世界がこうあるべきなんだ、ということがもうない この環境からやっていくしかない ウェルベックは新人類よりもちょっと上の作家 俺たちの世代は資本主義については論争がまだあった それより下の世代は論争すらない 資本主義は搾取構造、欠陥があるから変えるべき しかしオルタナティヴはもうない 微細な調整しかない 誰かが勝ったら誰かが負ける ベターにはできるけど、誰もが平等なユートピアを信じていない 誰かが搾取していても、受け入れていかなければいけない という感覚からスタートしている 上の世代からすると無気力に見える 大塚さんが僕に対して言ったことと近い 議論するって何だろう 大塚さんの考えではイデオロギー 社会はこうなるべきだという思想が戦う場 そういう戦いな場が無効になっている ラッキーな奴、不幸な奴がいる、それは変わらない それぞれの環境の中で自分が勝つか負けるかしかない では公共性とはなんだ オタクというと狭くて小さい世代論のような気がするけど、 同じようなことは世界中で進行している
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複数性と公共性 現われの空間 アーレントは公共性においてappearance(現われ)は重要だという 人の前に出ること 自分の姿を晒し、現れて喋る それが公共性を定義する ネットの空間は現れていないので分が悪い 『公共性』P38  アーレントにおいて、公共性は、二つの次元、  「現われの空間」および「世界」にかかわる。 現前的コミュニケーションを介して 世界認識に向かう言論空間 面と向かい合って、この世界はどうなっているんだと考える これが公共性だ そういえば大塚さんはこんなことばっかり言っていた みんなで話し合おう、世の中について考えよう! 「現われ」というのがポイント 『公共性』P39 アーレントからの引用  ほとんどの人は現われの空間の中に生きていない みんなあらわれている?いやこんなものは現れではない 斎藤さんは、アーレントのいう現われと表象(representation)を区別する 僕は今教師という表象をまとって講義をしている 皆さんを見ているときに学生だと思ってコミュニケーションしている ドライバーという表象で車を運転 自己規定のようなものをまとって、今の言葉でいうとその場のキャラで生きている 各状況において、人は何らかの表象をまとったコミュニケーションをしている 現われは純粋な僕自身でコミュニケーション 現われ 表象 who  what 斎藤さんはwhoとwhatで区別している 自分自身と、自分に関する様々な特徴の区別 色々な哲学者が色々なヴァリエーションで、いろんな言葉で出てくる ハイデガーだったら存在と存在者 柄谷行人だったら単独性、特殊性 固有名論 東浩紀は固有名 東浩紀という言葉を定義しようとする ・1971年生まれ ・男 ・日本人 ・ ・ いろんな特徴を挙げていく この特徴を全て満たす存在者がいたらそれは東浩紀 固有名の定義だという理論 なんでこんな理論を作らなければならないか 20世紀の前半において、言語、記号は何か、色々検討された コンピュータの変数の定義などにも関係している 固有名の厄介なところは、このように一回定義した後、 いやいや1973年生まれだったらしい、ということが日常的に起こる 特徴1、特徴2、特徴3の集積であると一度定義したのにも関わらず、 いやアメリカ人らしい、と言われたとしても、 東浩紀という固有名は使い続けることができる だとするとこの特徴以外のプラスαが宿っているのではないか クリプキ『名指しと必然性』でこういう議論をやっている プラスαな部分は何か? 僕という人間がいる、こうでこうでああだ、 という色々な特徴を持っているけど、 例えば東工大の特認教授だから、と慕ってくれている相手がいる しかし僕が特認教授じゃなくても慕ってくれるのだろうか 僕が何かじゃなくても云々 こういううざいトークの果てに残ったもの 特徴と、特徴が全て剥奪されたあとに残る東浩紀そのものの区別 P40  そうした空間を「現われの空間」と対比して  「表象の空間」(the space of representation)とよぼう。  「表象」とは、他者の行為や言論を「何」という位相、  すなわち他の人びとと共約可能な位相、入れ替え可能な位相に還元する眼差しのことである。  表層の眼差しで見られるかぎり、私は、他者の前に「現われる」ことはできない。  表象が支配的であるその程度に応じて「現われ」の可能性は封じられるのである。   日本人、という表象、アイヌという表象、女性という表象、障碍者という表象  老人という表象、同性愛者という表象、ホームレスという表象……。  表象をもって他者を眼差すこと、あるいは表象をもって他者に眼差されることは、  私たちにとってもごく日常の経験である。 こいつはホームレスだから、日本人だから、といっても、 人間の固有性は捕まえられない 公共性においてはどうなるか P42  ある他者が私たちの前に「誰」として現われるのは、  私たちがその他者にいだいている予期が裏切られ、  私たちの「表層の空間」に裂け目が生じるときである。  他者に対する完全な予期をあきらめることが、「現われの空間」を生じさせる条件である。  予期するということは、予め決定するということである。  予め決定してしまわないということが、他者が「誰」かとして現われるための条件、  すなわち他者の自由の条件なのである。 良くあるロジック 皆さんの誰かが質問に来た 特認教授だし、ちゃんと答えてくれる、と思ったら意外と全然違った 生の東浩紀に触れた! だからどうした 現れの空間、予期、自分の身に纏った表象が全部なくなって、 それぞれの人間が固有に現れる 社会的にさまざまなステータスを持っている この空間では僕が一番発言権が強い 教師というリプレゼンテーションをまとって、一方的に喋っている 公共的な空間ではない みんなプロフィールを捨てて、一人の人間として向き合う これが公共的で、現われのコミュニケーション 1人一票 10億円持っている奴と100万円持っている奴がいたとする 普通に考えれば発言権は10億円の方が強い 資産1000億、年収300万、ニート、同じ年齢だというだけで発言権一緒 どう考えても1000億の話を聴くだろ しかし人間なんだからみんな同じだ まさにこれはappearanceの問題 100億持ってるとか全部関係ない お互い対等で一対一で裸のまま 公共的ということの根底にある こういう発想をしたヨーロッパ人はすごいとしみじみ思う これはすごく人工的な考え方 人権宣言 高校生の頃に公民の授業とかで教えられてそんなものかなと思うけれど、 社会人として15年くらいやっていると、 みんな平等というのが如何にフィクションなのか分かる 人間は平等だと強引に決めたところから社会を作っていくヨーロッパはすごい 固有名、単独性 単独的な個人のコミュニケーション そういう話 ここまで斎藤さんの言っていること 僕の考えでは appearanceと全てのステータスが剥奪されて一対一になることは矛盾するのではないか 現れてしまったら顔も身体も身なりも見える 空間を共有する、目に見えるコミュニケーションはすごく情報を交換する まず現れてしまえば男性か女性かはすぐ分かる 僕は20歳、相手が50歳、だとしたら僕は相手の話をきいてしまう 一対一の対等な関係を維持するには、現前コミュニケーションはできないのではないか 元々デリダをやっていたのでそういうふうに発想する アーレントギリシャのポリスみたいなものを考えているけど、 この理念をちゃんと考えたらネットとかの方が適している 対等であること、対等なコミュニケーションは現前ではできないのではないか しかしネットは良いのか ネットこそがステータスの塊 裸のユーザとしてどこかにログインすることはできない 色々なプロフィールが付いていて、何かのサーヴィスを利用している 本当に一対一で全てのプロフィールが剥奪された生のコミュニケーションが出来ているのは、 2chなんじゃないか 本当か? アーレントの言う公共性、世界認識に向かっていく開かれた言論空間 しかし2chは公共的な感じがしない 斎藤さんの文章にもごまかしがある 気付いていないはずがない 現れていたら絶対に対等に離れない ごまかされて書かれている P42  他者に対する完全な予期をあきらめる 何か決めようとするときに意見が合わない 純粋に意見が合わないのではなく、 お前はこうこうこれだからこう発想するんだろ、という話になる 人は常にポジション、プロフィールを考えている 政治は常に政局、派閥の議論になる どこかの国会議員が死刑を廃止、消費税を上げるといっても、 こいつはこういう派閥でこういうポジションだからこうするのだとすぐに思う そういう予期をなくさせるにはポジションをわからなくする 内容だけで判断するしかなくなる コンスタティヴ、パフォーマティヴ 事実確認的、  行為遂行的 すごく簡単な区別なので知っておいた方がいい言葉 斎藤さんは言う 公共的コミュニケーションの空間においては、 パフォーマティヴなことはできなくなるから、 コンスタティヴな空間を作らないと公共的コミュニケーションはできない みんながパフォーマティヴな意見を言ったら何も決められない お前はこういう立ち居地だからこうだろ、云々、 何を話しているのか分からなくなる しかしこれも微妙 他者に対する予期が完全になくなるというのは、 俺自身が本当にこう思っているんだ、ということをまともに聞き、お互いぶつけ合う空間 ところが色々考えてみると、 相手のステータスを一切隠す、ただ内容だけを判断する、ということは、 俺が、ということが消えている 発言者の名前すら要らない 一方において、 発言者のステータスがはっきり見えるコミュニケーション これは斎藤さんの考えでは× representationにすぎない 発言者のステータスが全く見えないというのはどういうことか 2ch用語で言えば全員名無し しかし「現われの空間」なのかといったらこれも違う 論理的に考えるとかなり曖昧でアクロバティックなことをいっている 現れな空間を作ろうとしたらどのようなシステムを作れば良いんだ 謎 公共空間をどう作るか 人間のコミュニケーションとは何か 常にこの謎に突入する いろんなところで繰り返されている 愛 私が美人だから好きなの? そういう話 美人じゃなくても好き? お金持ちじゃなくても好き? 私自身を愛してもらいたい 行き過ぎると誰でもいいということ 金持ちじゃなくても美人じゃなくてもいい、 じゃあお前誰でもいいんじゃね それと同じ問題 固有性というのはどっちの極に行ってもなくなる 固有のコミュニケーションとは何だ、というのは難しい そういう危うさがある アーレントを読む斎藤さんはいずれにしてもそういうことを言う P43  「現われの空間」は、他者を有用かどうかで判断する空間ではない。 渋谷の宮下公園がナイキ公園になろうとしている 昔から渋谷に近い割には薄暗くて荒れているというイメージの公園 阿部和重の『インディヴィジュアル・プロジェクション』でもここでぼろぼろにやられる それがナイキの全面出資でナイキ公園になるらしい しかし案の定反対運動があって、ここで寝てたホームレスの人たちはどうなるんだ 「現われの空間」ならホームレスの意見も聞くべきだ でも税金も納めていない、自主的に管理しているわけじゃない しかし耳を傾けなければいけないのが公共性の原理 ネオリベ、急速に有用性によって判断するようになっている 公共性は近代社会が作り上げた貴重な倫理なので、多少は守って良いのではないか  他者がどのような必要を抱えているかによって判断する空間でもない。  「現われの空間」は、他者を一つの「始まり」と見なす空間、  他の一切の条件にかかわりなく、他者を自由な存在者として処遇するということは、  他者を非-決定の位相におくという態度、予期せぬことを待つという態度を要求する。 ホームレスはここにいたいから反対している というのではなくて、 自由な意思で反対している 実際はどう見てもここにいたいからだろ しかしそういう理念 難しい話 斎藤さんの考える公共性の一つの定義 ・現われのコミュニケーション もう一つ斎藤さんは定義している ・共通の世界への関心 ・公共圏 言論空間 open ・公共財 共通の財 commons 斎藤さんは2つちょっと混ぜていて、 公共のコミュニケーションはopen、全ての人に対して自由な人間として遇していく ステータスとかプロフィールによって排除しない みんなが共通に存在している共有財について考える みんなで生きているこの世界に対する関心も必要 ここが結構難しい ここから後の斎藤さんの記述も、 現われの空間の時のスムーズさに比べると、やっかいなうねうねした記述になっている 家帰ってから読んでもらうとして… 昔は共通の世界に対する配慮があった しかし近代社会になって急速に生命への配慮になった これは重要な指摘 action labor 世界  生命 どういうことか 僕たちの現実でもわかりやすい いろんな生き方をしている人たちが、防犯、セキュリティの問題ではまとまる 秋葉原事件が起きた、ああいうやばいやつが居るからセキュリティアップだ 全然違う価値観をもった人たちがきゅっと集まる 地域共同体がどんどん衰退していっているけど、 防犯という話だと地域コミュニケーションが復活している 世界に対する配慮は少なくなる 生命に対する配慮で公共的コミュニケーションをつくる アーレントの本来的な公共性の定義からすると公共的ではない 世界は僕たちの外にあるもの 世界に対する共通の配慮 みんな命大事だからまとまっていこう しかしあいつの命と僕の命はちがう 共通の世界でまとまるということとは全然違う機能 P48  つまり近代の人間が「世界への配慮」の喪失と引き換えに手に入れたのは、  厳密にいえば「自己への配慮」ではなく、  万人にとって同一である「生命への配慮」なのである。  「生命への配慮」がただちに公共性の喪失を惹き起こすかどうかには疑問の余地があるが、  言葉が人びとの内部にあるもの――必要や欲望――を伝え、  それを調整するためだけの貧困な道具になりさがり、  人びとの<間>にあるものについての意見の交換メディアではなくなってしまっている、  という同時代への診断には真実性がある。 まったくそのとおり 「自己への配慮」というキーワードがフーコーにある 僕と君の間にあるものに関心をもっていない 両方の命を守るために調整していこう アーレントの本では半世紀くらい前に指摘して、 それからも着々と粛々と進行している 人間と人間の間にある世界への配慮が盛り上がることはないだろう これがデフォルトなんだ 公共性はこういう色々な豊かな含みがある 色々なものが公共性と呼ばれる資格がないという状況になっている アーレントハイデガーの愛人という噂もある愛弟子の一人 ハイデガーに依拠した言葉を使う 生命の問題に関して言えば、 配慮=care ドイツ語ではSorge ハイデガーの本でも重要 人間は世界に対する配慮によってできていた 今は生命への配慮 security = se + cure careとcureはもともと同じ言葉 se = without セキュリティというのは元々ケアしないこと 配慮しないでいいこと 安心 セキュリティマンション=防犯の心配はしなくて良いマンション 心配しなくていいのがセキュアな状態 セキュアであることを求めるというのは哲学的に意味深い ハイデガーは人間はcareする生き物だと定義していた 今の人間はなるべくcareしたくない 非モテ論壇でよく言われる、 リアル女子と付き合うのはcareばっかりなのでギャルゲでいい これもセキュリティ 卑近なところまで含めた今の人間の行動においても、 careはリスクでありコスト なるべくcareしないという方向に行くようになっている これはすごく大きいこと どうなっていくのかよくわからない セキュリティを求める 人間関係を切るしかない 現われのコミュニケーションはハラスメントだらけ 大学の教師として存在するのは大変 教師と生徒という関係性 一緒に飲み会にいって現れたらハラスメントになる すごくリスクが高い 現われのコミュニケーションなんてしない方がずっとセキュア 愛のコミュニケーションはケアとコストとリスクの塊 教える学ぶなんていうこともそういうもの 昔の大学教授はハラスメントばりばり 人格関係、相手を傷つける、すごくうらまれる そこまでのリスクを背負って相手の人生を変える 今careというと軽い感じがする 老人介護で身体を拭く 本当はそうじゃない 人を傷つけることもある representationは安全 役割をやっている ロールプレイングのコミュニケーション 教師だから教師として役割を果たす 現われはヘビー これをコストだリスクだと考える社会になっている ハイデガーとかアーレントが言っていた世界へのcareをする人間として、 どうやって社会生活を送っていけば良いんだろう また来週