東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第6回(11/14)

どうもこんにちは
今日も例によってプリントがある
後から来る

去る日曜日の文学フリマの後、
2chでめちゃめちゃ叩かれている
鬱になってブログをやめる寸前までいっている
2chごときで鬱になっているわけではなく別の原因がある

大きな物語がなくなると批評は蛸壺化する
好きなことしか語らなくなる
そこではお祭りによって繋がる
祭り空間、コミュニケーションのプラットフォームの上に乗った島宇宙
プラットフォームにしか全体性とか大衆性はない
2chはプラットフォームに過ぎない

それぞれのスレッドは横の繋がりがない
横の繋がりがあるとすれば、2ch語アーキテクチャの生態系』にそういうことを書かれている
よく出来ている
濱野智史さん
28歳くらいの若い研究者
2chとかニコニコ動画から日本社会論

2ch島宇宙化した
ニュー速の住民が東スレに来ても少数
2chアイデンティティはどうやって作るか
それが祭り
AA、独特の2ch語、氏ね
何故発達しているのかというと内容のないものだから
内容のあることでは島宇宙にしかならない
内容のないことでしか繋がらない

ゼロアカ道場
批評をお祭りにする
語りたいけどアツいことをやらない?という意図

文学フリマ
文学系同人誌の即売会
1000人くらいの入場者数
コミケより2.5桁くらい小さいイベント
今まで一番売れたのでも250部
ゼロアカでもせいぜいそれくらいかと思っていたら、8個中5個完売
ゼロアカ効果か何かで1.5倍くらいの入場者数
大変盛り上がったが、
2chで僕へのバッシングが始まった

祭りになるとはどういうことか
ゼロアカ道場は勝ち抜いた人が講談社で1万部の本を作る
僕は選ぶ人
しかしお祭りの場になると、東いらね、ということになる
騒いで盛り上がりたいだけ
能力を評価する、誰かを贔屓するのはやめろ、盛り上がりに水を差すだけ
俺たちがゼロアカ道場をやりたいんだ
俺たちはもう楽しいから東は出て行け

今までだったら、
誰か権威のある人、大きな物語に認められるために、色々な人間が集まる
今は権威が失墜している
そこでゼロアカ道場を始めた
始めから権威がない
批評は楽しいと言う雰囲気作りから始めよう

バッシングで鬱になるわけではない
ゼロアカ道場の基本的なコンセプトは、僕がやっているのに、僕はいらない
今何かを盛り上げようとした時の本質が全体的に出ている

マスコミ主導型、発信者主導型で何か仕掛けようとしても裏切られる
ユーザが勝手に盛り上がるのがいい
勝手に集団的に生成されるコンテンツ
ニコニコ動画の盛り上がりも全部そう
誰がが仕掛けて祭りをやるのは最初の起動部分しかない
途中からは全部ユーザ側にやらせてしまう
向こう側で勝手に盛り上がれる
それを使ってうまく金に落としていく

今の世の中で、物を作る、文章を作る、ということは、
どういう意味があるんだろう
大きな物語を作ってメッセージを伝えようとすると島宇宙
ブレイクするには祭りにするしかない
祭りになったら自分とは関係なくなってしまう
うまく権利関係をやって金を稼ぐくらいのことしかできない

この間ヤマカンと対談をして、
その時もアニメと原作みたいな関係を話した
アニメでも何でもそうだが、アニメのDVDは2、3万本くらいしか売れない
ライトノベルとかもそう
全然売れていない
しかしアニメ化すると、祭りが起こる可能性がある
大抵は起きないが、一度祭りさえ起こってしまえば、原作なんて関係ない
良いコンテンツを作ってもスルーされる
着々とステップを上がっていくということはない
文学賞はともかく、マーケットにはそんなものはない
漫画化されると祭りになる可能性が増える、アニメ化されても同様
祭りになったらどーっと売れる
良いコンテンツを作ったから、というわけではない
京アニさえ来てくれれば俺も家が建つ

内容がある島宇宙
内容のないでかいインフラ
でかいインフラで流通するのは祭りとか熱気
コミュニケーションのネタ
ハルヒの原作なんて読んでないけど痛車で知りました
そういう奴らがわらわらと押し寄せて金が入る

そこをブレイクスルーしたい
批評とか好きだという人間が小さくかわいくやっていた
ちょっとだけ規模が大きくなってくると祭りになってくる
東とか講談社とか顔を出すな、俺らが俺らで盛り上げてやるからよ、ということになる

ゼロアカ道場はようやく半分
これからこの祭り方向に加速する場合、俺要らないということになる
誰も審査すんな、講談社で1万部なんて要らない、企画そのものがつぶれていく
どうしようかな
ということを思って鬱になっている

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去年までのチャート式東浩紀読解みたいなのはやめて、様々なものを読んでいこう 公共性の概念について喋っている 斎藤純一さんの『公共性』 公共性の定義というのは、 ・現われの空間 ・共通世界についての認識 この2つの特徴がある ■現われの空間 appearance(現われ) <-> representation(表象) 単独的な個人、裸の自分 <-> 〜としての自分 固有名としての個人 <-> 確定記述の集合としての個人 プロフィールをまとった人間が現われる場ではなくて、生の一人の人間が何か言っている そういう場がアーレントの公共性 ところが大きな逆説がある 生の人間として現われるというのはどういうことか 全てのプロフィールが剥奪されている 人の意見を聴く時に、こいつは無職なのかニートなのか想像したりするが、 相手がどういう人間であるかに関わらず対等に接する つまり匿名的な名無しの空間 2ch アーレントはそんなことを言ったのか? そんなことはない ギリシャのポリス oikos 生活はプライヴェートな家の空間 polis 都市、公共空間では抽象的なことを話す ポリスでは人びとが面と向かって喋る 公共的な空間 actionの空間 アーレントの思想の中では現前性 人と人とが会って実際に喋るけれども、どういう人かは無視して生の人間として尊重する空間 しかし実際に会って話してしまう時こそ、相手を既存のイメージに押し込める 背が高いかどうか、美人じゃないかどうか、若いかどうか、判断して聞く 会って喋っている時の方が、表象の空間に近い アーレントが想像していたのは、実現不可能、相反するものが入っている ■共通世界についての認識 みんなが生の人間に対等に喋る 何について? みんなが共通して持っている世界について喋る ハイデガーにおいても世界は重要 現存在=世界内存在、世界について常に配慮し続けている存在 世界の中に存在し、世界から出ようとして、世界について考えている 「世界」というのは人間の人間性を規定する重要な言葉 ・現存在(人間) - weltbildend (world building、世界を作るもの) ・動物 - weltarm (poor 世界が貧しい) ・存在者(石) - weltlos(lost 世界がない存在) 僕が今僕を囲む世界の中にいる 僕が死んでしまえば僕にとっての世界がなくなる 僕が世界を産出しながらこの中にいる 頭が生み出している世界にも関わらずその中にいる どっちがメタレヴェルなのかわからない関係 唯我論と唯物論を合体 アーレントの「世界」というのもハイデガーから受け継がれている みんなが共通して作っている世界 20世紀になってくると、世界についての関心が急速に生命についての関心へ移行していく 20世紀は公共性が崩壊していく時代 何故か 共通の世界を人びとが作れない その代わり生命について考える セキュリティの話 日本社会をこれから作っていくか、と考えても、勝手にやればよくね、と思われる 世の中全体がどうなろうと知ったこっちゃない 東浩紀という書き手はそういうことを隠そうとしないために叩かれている しかし自分とか家族をどう守るかということには非常に強い関心を持つ どこで同意をして社会設計をするか セキュリティしかない かつては世界に対する認識で議論を交わして社会を設計していくことが可能だった 共産主義国家はそうやって誕生した こういう社会が良いから革命やって作る ネオリベ化した世界の社会は自然環境 テロリストを排除していくべき、だから考えよう、というのがぎりぎりの公共性 そこで連帯ができる 世界から生命へ関心が移っているというのはそういうこと 生命というのはアーレントのいうzoe ・bios action、政治的活動に関わる生 ・zoe なまの生 単に生きている ヨリ良き生をどう構築していくか、という議論が通用しなくなっていって、 ぎりぎり生きていれば良いんじゃないか そこだけ担保 そこでは議論を一応みんなでする どういう生き方をするかは各自勝手にやればいい ・action ・work ものづくり ・labor 労働 バイトみたいなもの という3つのレイヤーに分けている 『人間の条件』の中で、余暇社会の話をしているところが一瞬ある これは1950年代、戦後のアメリカで出ている本 戦後のアメリカは大衆消費社会の幕開け、どんどん拡大していった時代 コジェーヴが、 アメリカ型ポスト人間、日本型ポスト人間に動物性とシニシズムを見たのも、 1950年代のアメリカ アメリカの戦後の大衆消費社会の問題はここで大きく出ている みんなが豊かになってお金が使えるようになり、ハッピーになっていった時代 みんなが余暇を持つようになった それまで労働者はあらゆる楽しみが剥奪されていたが、 労働者だからといってそこまで悲惨なことにはなっていない コーラを飲むし、週末には釣り、ばんざい しかしアメリカ的な動物的な、そういう大衆消費社会が人間の人間性を失わせている 鳥が巣をつくり、蜘蛛が巣を張り、蝉がコンサートを開く云々 そういう動物化した社会 アーレントも似たようなことを言っている 余暇社会というのはlabor的生みたいなものと支えあっている action的な活動を行うわけではない 余暇というのは日々laborをするための充電装置 ぐるぐるぐるぐる回っているだけ 釣りをしていようが、映画を観ていようが、そんなところに人間性はない 全て動物化していっている 真の人間性の失墜、公共性の失墜 世界→生命 こういう余暇社会のようなもので、平均的な給与を貰っている大衆が、 彼らは彼なりに新しい生を発見しているから良いのではないか アーレントはそう考えない サラリーマンがいくら週末に映画を観ようが、労働のためのカンフル財でしかない 労働=消費 のサイクルに閉じ込められている そういう生は所詮動物的でしかない 奴隷的でしかない アーレントコジェーヴはそう考えた ヨーロッパ的 ヨーロッパの知識人がいろんなかたちで言っている、一つのヴァージョン アメリカ型消費社会はヨーロッパの知識人たちにとって大変な問題だった 未だに処理できていない デザイナーとして活躍している人が、 アイマスMADで有名になった クリエイティヴが発揮されている 本当にそうか? 回転しているだけじゃないか ネットを舞台にクリエイティヴィティが爆発しているといわれるが、 労働消費の回転を早くしているだけ workはあるがactionはないとアーレントは言うだろう 『公共性』P47  公共的空間が、共通世界に対する多元的なパースペクティヴが存在するときにのみ、  それらが互いに交わされる空間としての意味をもつ。  したがって、パースぺクティヴの複数性が失われるとき、公共的空間はその終焉を迎える。  世界をただ一つの観点から説明し尽くす全体主義イデオロギーが  そうした複数性を破壊することはいうまでもないが、  『人間の条件』のアーレントの念頭にあるのは、  全体主義というよりも大衆社会・消費社会のコンフォーミズムである。 全体主義というより消費社会の問題  そこでは、単一の絶対的なイデオロギーによる  均斉化のために複数性が廃棄されるわけではない。 強いイデオロギーによって複数性がなくなるわけではない  共通世界そのものへの関心が失われ、それをめぐる判断が回避されるという  シニシズムがパースペクティヴの縮減をもたらしているのである。 関心領域が島宇宙化している みんなが関心を持つにはお祭りしかない アーレントが批判しようとしたのはこういう社会 まさに世界がない 内容のあることを言っても、 アニメオタクがアニメ批評がいかにあるべきか熱いトークをしても、世界性がない お祭り空間にもない 認識そのものがない ネタで楽しいカーニヴァル 世界喪失の時代を生きている というと哲学っぽい そういう本を書いてみんなびっくりさせようかな 良いかもしれない 第三期俺みたいな感じで 賞とか取るかもしれない サントリー学芸賞を昔取った 今は賞金200万になっている 僕の時は100万だった 2回取れるのかな 次のページに、世界喪失とは生命の配慮であるとかそういうことが書いてある P48  つまり近代の人間が「世界への配慮」の喪失と引き換えに手に入れたのは、  厳密にいえば「自己への配慮」ではなく、万人にとって同一である「生命の配慮」なのである。 P49  共通世界をめぐる言説の空間としての公共性からは、絶対的な真理は排されている 共通の世界について考えるのは、無限に続く議論空間 常に何かの異議申し立てが可能 別の見方を全部許容できる空間 僕はブログでよく叩かれている 雑誌をあまり読まないのでブログで批判されないと気付かない 『リアルのゆくえ』 南京大虐殺について僕はあると思っている しかしあるという奴とないという奴がいてこれを調整するのは不可能 いくらでも理論武装することは可能 この世界で公共性を考えるなら、まずあるいう奴とないという奴がいるんだ、 ということからはじめないといけない と書いたところ、案の定批判が来た 批判が来るに決まっている発言 まさにそのまんまの反応が来る 何故分かっているということを信頼できないのか 左翼系の公共性の議論は突飛に見える しかし公共性の定義の通りやったらそうなる 絶対的な真理なんかない 討議は無限に開かれていないといけない 僕はそういうところが出自なのでよく知っている そのまんま実現するなら、南京大虐殺はあるという奴とないという奴がいる、という包摂 しかし歴史的真実は一個である云々 僕の発言がどこから出てきているのか デリダ 指導教官は高橋哲哉靖国問題』で有名 デリダを通ってしまうと、歴史的真実とか言えなくなる 言うということはデリダを裏切る 左翼とかポストモダニストが言っていたことはそういうこと という文脈で話をしていたのだが、本では南京の部分だけが残された それがネットにコピペ ばーっと批判 様々な見方、無限の寛容を認める テロリストを認めるということに近い そういうことを言っている人間が、 右翼とか保守主義に対しては、ほとんど愚直に対して真理だと言う これは非常に難しい問題 従軍慰安婦は、軍の命令なんかはなかったんじゃないか 南京大虐殺は、あっただろうけど規模は小さかったんじゃないか 全ては解釈ゲーム # 去年もあったアウシュヴィッツの話世界はこう見える、というのは複数存在する 許容するのが公共性なんだ
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公共性 ・現われ→2chの名無しの話ではないか ・世界・複数意見→これもまた2chなのではないか 2chネット右翼も許容しろという話 本質的な逆説がある アーレント、斎藤純一の定義する公共性を定義を定義として真に受けると、 彼らの想定しているのとは全く違うコミュニケーション空間が出てくる もしかしたら公共性は定義できないのかもしれない 彼らが最も嫌いな空間こそがその特徴を備えているのかもしれない P53くらいから、政治と社会の関係 これもまた重要な話 政治的なもの、社会的なもの どういう関係で捉えるか 斎藤さんは、これまではアーレントの解説者だったが、ここではアーレントを批判している アーレントは政治と社会をくっきり分けている polisとoikosを分けることから始まっているから 『社会』市野川容孝 社会という言葉がいつくらいから使われるようになった、 社会という言葉にはこういうニュアンスがある 社会という言葉には社会的な福祉的なニュアンスが入っている ネオリベ社会なんて言葉は語義矛盾 ということが書いてある アーレントはactionとlaborを分けるように、 消費社会と世界観・固有名・公共的空間を分ける それはなかなか同意できないということを斎藤さんは書いている 生命の領域、oikos これは公共空間に入ってきてはいけない 公共空間は、現われの空間であり世界認識、政治的空間 非常に簡単な認識 しかし生命の領域こそが政治的権力の空間 社会と政治を分けるのはおかしいのではないか 政治、権力というのは、世界観の争い、世界の見え方の複数性の調整をする しかし近代社会では政治とは生命を扱うものになっている 政治にやって欲しいことは、良い国にするというより、とりあえず税金下げろ 12000円の給付金は衝撃 これは結構きている ちょっと貰いすぎな人とか居るので自粛しろ、とか この国は終わっている 愚民国家みたいになっている こんなバカだらけの国はどうでもいいのではないか ありえない びっくり 生命のための政治 bio-politics 生政治 フーコーの考え 近代社会は生命を権力が扱うようになった フーコー『性の歴史I 知への意思』P175  死なせるか生きるままにしておくという古い権利に代わって、  生きさせるか死の中へ廃棄するかという権力が現われた、と言ってもよい。 生殺与奪 お前死ねと言えるかどうかが権力 これは古い権力 一般的に権力と言えるもの 生きさせるか、死の中へ廃棄するか 生きさせるというと、衛生問題 保険のシステム、病院のシステム、衛生管理のシステムがある ただ生きているわけではない 生きさせているインフラがなくなってしまったら大変 医療、学校の教育、色々なものが入っている 雨宮処凛さんの本『生きさせろ!』 生権力ばんざいの本に見える これは冗談 かつては農民とかは定期的に税金を納めればよかった ちゃんと税金を払わないと殺す 近代社会は、農村に生きている人、単に旅をしている人、 人口を把握し、軍隊で徴用するなら何人来るか把握 どうやって効率的に増やすか 人工的に管理 これは近代まではなかった 昔はどこかの村で殺人があってもとんずらすればよかった 昔に比べて圧倒的に管理されている 生きさせられているから フーコーは、近代の権力システムというのは規律訓練と生権力の2つだと言っている P176  具体的には、生に対するこの権力は、十七世紀以来二つの主要な形態において発展してきた。  その二つは相容れないものではなく、むしろ、  中間項をなす関係の束によって結ばれた発展の二つの極を構成している。  その極の一つは、最初に形成されたと思われるものだが、機械としての身体を中心に定めていた。  身体の調教、身体の適正の増大、身体の力の強奪、身体の有用性と従順さとの並行的増強、  効果的で経済的な経済システムへの身体の組み込み、  こういったすべてを保証したのは、規律を特徴づけている権力の手続き、  すなわち人間の身体の解剖-政治学(アナトモ・ポリチック)であった。 規律 discipline 個体の体に集中する権力 『監獄の誕生』で定義したもの 近代社会では農民を徴用して軍人とかにする 徴兵制はそう簡単にはできない 立てといったら立つ 起立、礼 細かく決める 標準的な身体のあり方を決め、それに決めて学校でまっすぐ座らせる、行進させる、訓練 これが規律訓練  第二の極は、やや遅れて、十八世紀中葉に形成されたが、種である身体、生物の力学に貫かれ、  生物学的プロセスの支えとなる身体というものに中心を据えている。  繁殖や誕生、死亡率、健康の水準、寿命、長寿、  そしてそれらを変化させるすべての条件がそれだ。  それらを引き受けたのは、一連の介入と、調整する管理であり、  すなわち人口の生-政治学(ビオ・ポリチック)である。 種、もしくは生命としての身体 人間としてどうあるべきか以前に、ちゃんと健康なのか、ということに関わっている権力 統計学とも関係している 人の身体を制御する場合2つの方向がある 個人に対して行進させる 集団としてみた場合、子供をどんどん産ます 乳児の死亡率を公衆衛生で 種としての人間をコントロール 近代になる前は人口も分からない、どれくらい病気か、平均寿命も何も分からない 税金を納めさせるしかない 近代国家は他国と争うため、 フランスという国を発展させるために、 健康なフランス人を増やさなければいけない そういうところで新しく出てきた視線 生権力の問題 20世紀になると福祉国家という言葉が出てくる 福祉国家はまさに生権力が肥大した国家 『知への意志』は1976年の本 1960年代、70年代は今よりも福祉国家の力が強く、福祉国家批判が始まってきた頃 今はコストがかかるので国ではもうやめようとなっている 様々な企業、エージェントに分解している 非常に現代的な問題 フーコーは歴史書を書いているが、当時の社会状況と密接に関係している 1月28日水曜日 「思想地図」のシンポジウムをやる 昨年もやったがメンツは全然違う 「アーキテクチャと批判的言語の可能性」 マニアック、変えるかもしれないけど仮タイトル このシンポジウムを授業の代わりとして、1月30日を休講にする ということでまた来週

授業の後、id:naoya_fujitaさんおよびいつもの授業のメンバーと飯。自分はふざけた人間であるので、藤田さんには説教されかけたけれど、しかしされず、自尊心はそのままです。自分が没落したら(多分3年後くらい)今度こそ説教されよう。

(追記)南京虐殺などの歴史認識に関して、東さん自身がブログで立ち位置を明確にしておられるので、そちらもあわせて読んでください。
http://www.hirokiazuma.com/archives/000465.html