東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第7回(11/21)

どうも
遅れてすいません

この前の授業でも言ったけど、今度「思想地図」でシンポジウムをやる
「アーキテクチャと思考の場所」1月28日 17:30〜20:30
タイトルが変わった

シンポジウムの広告を出さなさなければいけないので、
浅田彰の肩書きをどうするか相談していた
浅田さんにメールを送ったら、「なし、敢えて言うなら批評家」という返事が来た
そんな話し合いをしていた

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フーコーの話をしていた 田村哲樹『熟議の理由』 僕と似たような年の政治学者 公共性の問題について話をしている 別の角度から議論 補助線を引いてみたい ゼロアカ現代思想 今度思想地図にも書いてもらう どんなことを言っているか 政治学の世界では ・熟議民主主義   一生懸命話し合おう ・闘技民主主義   民主主義は戦いだ という考え方がある 熟議民主主義の擁護 それが成立する条件について書かれている 北田暁大『責任と正義』への応答みたいなところもある 斎藤的公共性のイメージに近い 斎藤さんも田村さんも法学者の井上達夫さんの影響を受けている 宮台さんがよく挙げているから名前くらいは知っているかもしれない この人も良い仕事をしている 選好 preferance 熟議民主主義で重要なのは、選好が熟議を通して変容していく過程 反対派の人たちが話し合うことによって、ダム推進派に変わっていく それに対して闘技民主主義 民主主義は闘いのアリーナ シャンタル・ムフ『政治的なるものの再興』 民主主義は不可能 でもやらなきゃいけない 意見が異なった連中がばりばり闘う 民主主義の不可能性そのものが民主主義の可能性 ラカンジジェク系 最終的には闘い カール・シュミット 1930年代のドイツの法学者 ナチなんかにも協力したので有名 20世紀を通じて深い影響を与えた 友敵理論 『政治的なものの概念』にある 非常にいい本でしかも薄いので現代思想に興味があったら読むと良い 政治とは何か 友と敵を分けること 美意識においては、美と醜 倫理においては、正しいか悪いか 各領域において固有の価値観 政治においては友と敵 政治が政治であるのは友と敵を分けること これをやめたら政治ではない 経済的な取引や美意識による判断に化けてしまう 政治という論理が動き始めたら、 友と敵を分け、敵を殲滅、ということをナチのときに言っている ユダヤ人を存在論的に殲滅 これは問題になった ムフの考えでは 友と敵が無数にいて、さまざまな立場の人ががんがんぶつかりあう空間 田村さんはいろいろなことを言って、 結局熟議がなければならないということを言う 普通だと熟議民主主義万歳で終わるところだが、 維持不可能であろうことをいろいろ考えて本を書いている 現代における公共性はどうやって成立するか考える上で勉強になる プリントの図 今僕達が考えられる民主主義のイメージを簡単に表している             「信頼」と「判断と限定的停止」  「異なる理由に基づく同意」    →        意思決定  または「強制」による意思決定             ↑         ↑                 民主主義的権威    焦点を定めた対抗的熟議                   ←     <政治的争点>  「不信」と争点の政治化  <固定的争点>  「紛争の次元についてのコンセンサス」としての民主主義的シティズンシップ                <民主主義的空間> 世の中には争点、いろいろな考え方の違いがある 政治的争点と固定的争点がある 場合場合によって動く たとえばダムを作るどうか 政治的争点のときも固定的争点のときもある 固定的争点 結論が決まっている場合 国とか自治体に決定を預ける 権威に決定を委ねる ダムを作るかどうかは国とか自治体が考える 時々政治的争点に移る その中ではまさに熟議が働く 熟議が働いて、いろいろ議論が沸騰し、さまざまなかたちで対抗的な意見がでて、 意見が変わったり変わらなかったりする 斎藤さんの用語で言えば、政治的争点が公共圏 議論が固まると、人は権威に決定をゆだねるようになる 当たり前のことなんだけど、 結局民主主義みたいなものの議論するとき、人が考えてしまうのは、 民主主義はいいもので、人は参加してくるという暗黙の前提 それは斎藤さんの本の中にも入っている 現われの場でみんな入ってくる 意見を戦わせる みんな入ってくるだろう しかし実際にはたるいめんどくさいから入ってこない ここは大事 現代風に言えばコスト計算 コストパフォーマンスの問題を、政治哲学、民主主義理論はあんまり考えていない しかし田村さんはここでそれをいっている すべての問題を熟議するのはたるい 大抵の問題は権威に委ねる 時々熟議に持ってくる 差し替えるダイナミズムがある 田村さんはベーシックインカムについてもいろいろ書いている 今度の「思想地図」に「熟議民主主義とベーシックインカム」というタイトルで 論文を書いてもらっている Basic Income 基礎所得 12000円国民にばらまくというのは、ベーシックインカムに近いといえば近い 日本国民であれば生活ぎりぎりの金をばらまく その代わりにさまざまな社会保障をなくす 年金とか生活保護とかそういうのが消える 会社の福利厚生もなくす その代わり法人税を取る お金の配分を変えればできるという考え方 起源としてはフランスのアンドレ・ゴルツ 日本では以文社の『VOL』で紹介されている それなりにちょっと面白い 新書とかは出てないかも 金がなければ議論が開かれていても来ない 熟議なんかしない これは大事 田村さんは、人々に熟議をさせるために、公共的にさせるために、 ベーシックインカムが必要だという 今後発展させても良い理論 深い意味を持っている 近代の公共性論の起源は、polisとoikos、政治と社会 基本的には、公共的な議論・政治的な議論は、 oikosの問題を抜きにして、私的なものを排除しないと公共的な議論はできない ギリシャ的な考え方であり、近代の公共性論の中心 しかし私生活の領域こそが近代においては権力の対象になっている 生権力 私生活こそが政治 ・polisだけが政治派 ・全部政治だぜ派  すべての私生活に政治が絡んでいる  子供をどこの学校に通わせるのか、どういう人間になるのか、そういうことに絡んでいる  全部政治  理念、共通の世界について話し合うというのはどうなってしまうのか  公共に議論できるのは生命の問題だけになった 田村さんの議論 polis・oikosを再構築するために金をばらまこう 生きるのに困っていない状況を作る 興味深い 果たして人は公共性に目覚めるのか目覚めないのか 生きるのには困らないから、相対的には公共的にはなるだろう 政治的争点、固定的争点の循環は社会単位 ある一時期は固定的、別の一時期は政治的 僕の考えでは俗人的に細かく考えられる ある人にとっては固定的争点、別の人にとっては政治的 たいていの人にとっては役所に任せておけば良い ある特定の人にとってはそれこそが熟議 しかしそれは世界に広まらなくてたいていの人にとっては固定的 どうやって推移して どうやって移行するか それも政治によって決まっているので図は厄介になる
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雑談 社会保険庁連続テロはどうなんでしょう 皆さんはどういう考え 共感とかしてる? 秋葉原事件の共感とは質的な差異がある 今回のがテロだとすれば、 ちょっとだけ言論的に面白い 秋葉原事件のときは無差別自爆テロで、 経団連とか政治的なところにぶつけるべきだという人が結構いた 僕は言っていないがそう言ったことになっている でも今回のはテロじゃないかもしれない テロだとすれば戦後の日本の歴史としては珍しい ちょっと真剣に考えなければいけない この間の秋葉原の事件との関係で考えなければいけない そうすると厄介 僕としてはテロでないことを願っている でも声明とかない そういうタイプのテロなのかもしれない 不気味な存在 テロはどうして起きるか 熟議が信じられなくなるから 闘技民主主義が熟議民主主義の一部にならざるを得ない と田村さんは考える 何故か 友敵理論は相手を殲滅する 政治の敵体制の極限 テロ、相手を殺す 殺すということがないところで闘うのであれば、 何かのルールを理解している というとそれは熟議民主主義の一部なのではないか 北田さんの『責任と正義』にロジックが似ている 闘技民主主義にすら入れない敵対性がテロとして現れる あれがテロだったとしたら年配の方々は 官僚を狙うのは間違っている、というだろう しかしもともと間違っているからテロ
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フーコーの話に戻る 生権力の話をしていた 年金なんてまさに生権力そのもの 近代以前の権力というのは 生きるままにしておくか、死なせるか、 という二項対立 現代は、 生きさせるか、死の中に放棄するか、 という権力として現れる レトリックの違いに見えるけどそんなことはない 実質的に違う 近代以前は人は勝手に生きていくもんだ だから放置 野良猫 ちょっかい出すなら殺す シンプルな権力 近代の権力は、 あるシステム、インフラの上で、 水道・電気・インターネットの上で生きる その生きるシステムを使わせるか、使わせないか 死の中に放棄する 日本ではホームレス 日本人としての最低限の生活インフラは使えないので放棄されている かつての権力システムであれば生きるままにさせられている自由人 近代の権力においては自由であることが刑罰、死の中に放棄されている振る舞い 「生きさせろ!」 生活インフラ使わせろということ わかりやすい 生きさせる権力が生権力 社会保険や福利厚生とかと関係している そもそも『性の歴史』1巻というタイトル セクシュアリティの歴史だった セックスともジェンダーとも違う セックスは生物学的性 ジェンダーは社会的役割としての性 セクシュアリティはあいまい、謎な言葉 性的欲望とか訳されている 文字通りに言えばセクシュアルであること、性的であること 自分の身体を性的な身体として捉えている主体のあり方 そういうセクシュアリティの歴史 セックスの歴史でもジェンダーの歴史でもない なんでフーコーセクシュアリティの歴史を考えたのか 生権力はセクシュアリティと密接に関連している、 というのがフーコーの問題提起 生きさせる権力だ、福祉国家論、社会政策論、公共哲学論として フーコーの理論は使えるけどそっちばっかりだと無味乾燥 あくまでセクシュアリティの問題として考えている フーコーはゲイ 死んだのはエイズ 日本に来たときも新宿2丁目に出没していたらしい 彼の実存の問題としても関係していた 1巻は近代におけるセクシュアリティの歴史 2巻はギリシャ、3巻は中世と、近代以前の性的な多様性を、 いささか肯定的な筆致で書いている 近代において性は抑圧されていた それは本当か? ここからしてすごくフーコーっぽい 1960年代から70年代は性が解放していった時代 ヒッピーがヌーディストビーチで解放、乱交 そういう時代は一瞬にして終わった あのころのSFは結構面白い 人類社会はこれから性が解放するに違いない そういうSFの未来描写はすごい ハインラインとか 本当に抑圧していたのか? フーコーの考えでは違う 近代は性に饒舌になった時代 精神分析 フロイト すべてを性に結びつける男 性について考えすぎ 子供のころのトラウマは、母親の性器をみたから、両親のセックスを見たから ヒステリーは父親と近親相姦したいからだ 人間はなんで足とか毛皮とかにフェティシズムを抱くのか 毛皮は陰毛のメタファーだから アツい論文がある 人間はなぜ神は上にいると思うのか 神を空間的に定位する場合、必ず人間は上だと思う 上だということ自体、自分よりに優位 方向的な意味ではなく価値観 なぜ上は良いのか? 人間は二足歩行する 四足歩行では頭と性器はフラット 立ったら頭が性器より上になる これが神の概念の核心になる という論文がある フロイトは結構きている男だから読むといい 性に関する言説をいっぱい作った 近代社会は性に関する言説を莫大に生み出した にも拘らず抑圧されている 抑圧されているとやたらと言っている 単純に抑圧されて言るのではない 抑圧されているという言説が組織されたのが近代 人はなぜセクシュアリティについて語ったのか 言説と言説作用、それによる快楽のシステム 隠された性について分析すること自体の快楽 全体が性という現象を作っている その分析 フーコーが注目するのは告白というテーマ 昔からキリスト教にあるが、告白文学が組織されたのは近代 ルソー『告白』 読んだ方が良い ルソーも始まった男 隠さず書く、すべての恥ずかしいことを書く、と宣言して、 好きになった女の子の話から書く 家庭教師みたいなのを好きになる 30超えてる人、ルソーは10か9くらい お母さんに近い お尻とかぶたれるのが好きだった 表現が遠まわしでいい  罰を与えることそのものが快楽をどうのこうの いじめられたり罰を与えられたりするのが好き マゾっ気がある その後も大体年上の女の人にいじめられるという展開 日本に輸入されて私小説になるけど、 私小説がセックスの話になる起源 ルソーは色々やっている 「むすんでひらいて」の作曲者はルソー 『人間不平等起源論』 『社会契約論』 近代における人間の自由、人権、原理中の原理 『エミール』教育論 エミールという架空の息子を育てた記録 2歳とか3歳にラテン語を教えてもダメ 当時の教育は、小さい大人にする傾向 それは意味がない 子供の可能性を伸ばす 教育しない教育 ルソーは若いころに下宿していたところの家政婦を奥さんにして 5人子供生ませて5人とも孤児院にやっている鬼畜系の男 どのツラでエミールを書いてるんだ 超非難とか食らっていた でも俺は負けないぞと書いている 負けとけって 『新エロイーズ』 恋愛小説の起源 書簡体小説 アベラールとエロイーズ アベラールは中世のキリスト教の聖者 物語だけど実話 中世キリスト教圏の変な世界 アベラールという偉いお坊さん 家庭教師が生徒のエロイーズに手を出した 責任とって消える 激怒した親父が手下とか派遣してアベラールのペニスを切る それでますます神に邁進 これで聖者になれる しかしエロイーズは愛が忘れられない エキセントリックな話 その近代版として『新エロイーズ』 ルソー自身がモデルと思しき青年 ルソーと思しき青年とエロイーズ、ジュリと往復書簡 ジュリの従姉妹とも往復書簡 という恋愛小説 面白い あまり指摘されていないことだけど、 ジュリといとこの女の子の百合的な関係が書簡で再現されていて結構良い 当時フランスではベストセラーになった オペラなんかも書いている それが「むすんでひらいて」 快調な男 『告白』はとにかく自然 すべてをあるがままに書くというコンセプト 最初に出てくるのがまさに性の話 ルソーは露出狂のけもあった 露出についても告白している 性器みせちゃったんだよね、しかし敢えて書く いずれにせよルソーの壮大的なテーマは自然 自然物、自然の人 『不平等起源論』は自然人 自然人をどう育てるか 人間の自然をどう表現するか 学問とか芸術がいかに自然な情熱をスポイルしていくか 当時の様式に凝り固まった硬直した貴族文化を批判 情念自然を生のまま描く、それが文学哲学なんだ それが核 それぞれに微妙に齟齬があったりする すごく面白い思想家 セクシュアリティを主体の核だと考えるのが近代の社会システム フーコーの問題設定はもう一つ文脈として、 ジャック・ラカン 斎藤環 すべての問題が性の問題として説明されるというロジック 1930年代にラカンがやっている しかしそういう構図そのものが近代によって作られているという 『性の歴史』は間接的なラカン批判 1巻がフーコーの本の中で一番好きなんだけど、 権力と快楽は常にセットであるということをいっている アンチ快楽が権力だと普通言われる だから快楽が噴出する場所としてアートetcがある しかしフーコーはそう考えない 快楽を生み出すのが権力なんだ 言論が辿り着かない場所に性があると言いがちだが、 その言説自体、近代の社会システムが作ったもの 精神分析に対する皮肉になっている 結局セクシュアリティは、 告白という制度を使って、性について語ることで主体を作るという話 自分はどんなセクシュアリティを持っているのか 自分はどういう人間なのか 近代においてはセクシュアリティが重要になった ストレートなのかゲイなのか どんな女性、どんなプレイがすきなのか そういうことを告白し、主体形成において重要になったのが近代 面白い視点 こんな例がある P41くらいにある 1967年に、知恵遅れ系の季節労働者の男が村の女の子にいらずらをした事件 そういう事件は頻出していた 村長→憲兵→etc→報告書を刊行 取るに足らぬほどの小ささ、村はずれの取るに足らぬ快楽が 法的行為、理学的介入 理論構築の対象なりえた そういう時代に生きている こういうものが時代的に構築されたもの フーコー以降あまり受け継がれていないのではないか 小さい女の子はトラウマを負ったのかもしれないけど、 たかだが射精してただけだ 突然大々的に言説空間が組織されて、みんなが深刻に語るようになった 何で文学はセックスのシーンは多いんだろう と子供のころに思う なんで人の性は重要なテーマになるのかよくわからなかった そういう違和感に通じる話 何でそんな事件が人間の真実を表すかのように考えてしまうのか 100年、200年前は誰もそんなことを考えていなかった 真実を知りたかったら聖書読んだり天体を考えたりしていた その変化が近代の謎 4巻くらいで死んでしまうので1巻の問題提起は受け継がれていない 権力、文学いろいろなものと関係している 主体を作るのに何をフックにしているか 一時期斎藤環さんと論争をしていた 斎藤さんはラカン派 萌えはセクシュアリティ 性的嗜好が核となっていなければオタク文化は存在し得ない 僕は他の見方もあると言う、論争 セクシュアリティに囚われている作品消費、作品制作というのは 近代のパラダイムで作られている 批評行為も最終的にはセクシュアリティに行く こういう作家はこういうセクシュアリティを持っているからこうなった エンジニアリング的な知はセクシュアリティとは何の関係もなく駆動する Google作った人がゲイであろうがストレートであろうが関係ない 近代的主体性とは関係ない オタク的な知はそっちに近いのではないかと僕は思う 近代的な作品読解の罠にハマり込んでいる というのが論争の核 近代的な主体=性的主体 文学、権力の問題としても現れている 文学は告白の問題 権力は生権力の問題 しかしポストモダン、近代的な社会システムから次の時代に移るのであれば、 脱近代的主体というのは性と違う関係を持つはず 自分のセクシュアリティを告白することが主体に戻っている、というのとは、 違うセクシュアリティの主体があるのではないか ドゥルーズガタリのn個の性や、 ラディカルな時期のゲイとかレズビアンの理論家が言っていたことは 性が主体の核になるのではない別のセクシュアリティ 僕は最近はオタクに失望しているのでどうでも良いが、 萌えとかはそういう方向に持っていきたかった 主体に回帰しない萌え、貧乳 どうでもいい性の空間 そういうことを考えていた 実際には夢想に終わらしとけみたいな感じ これは深い話 ここから先はよくわからない フーコーが何を考えているのかわからない 近代的主体は監獄の誕生においては、 見る=見られるの主体 パノプティコンの問題 18世紀の末くらいにフランスで提案された丸い監獄 真ん中に看守、周りに囚人 すべての囚人が自分はいつ監視されているのかわからないので自分が自分を監視するようになる 経済的に効率がいい新しい監獄 実際これは実現している 日本だと網走の刑務所はこれに近い これが近代的主体の一つの類型であるという 自分が自分を見ているのが近代的主体 経験論的超越論的二重性 近代的主体の二重性とセクシュアリティはどのように関係しているのか それは書いてない しかしそれが肝なのではないか 性は触るとかと関係している 自分が自分を観察する きっと触覚というか触るみたいなことが深い関係になるのではないか それはよくわからない そういう問題の中で生権力を考えている 健康衛生、福祉国家的に所得を保証 それだけではない セクシュアリティ、プライヴェートの核の権力 性による権力によって転覆するというのは発想としてありえなかった スクエアなネクタイ締めた権威的な官僚 他方に全裸でサウンドデモ 性vs権力 そんなことはフーコーは考えない 私的な性が権力によって生み出される 告白によって 告白といえばルソーといえば社会契約 ぐるぐる繋がっている 公共哲学系の議論に対して、僕のような出自の人が足りないなと思うのは、 セクシュアリティの問題 生権力、リソース配分、寛容、セキュリティそういう議論では、 セクシュアリティの部分はなくなる 世界、公共について喋ることは性とは関係ないと思われているけど フーコー的にはそうではない そのあたりが不満

今日は偉大なはてなブックマーカーであるb:id:tokadaさんもいらっしゃったので(なんと昔のバイト先が同じ会社であることがこの前発覚しました)、一緒にご飯でも食べたかったのだけれど、自由が丘で内定者飲みがあったので解散。