東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第8回(11/28)

どうも遅れてすみません
例によって後でプリントが来るのでそれを待つ

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プリントが来ないので授業をする 今回はテキストを読むぞ系でやっていた オタクにとって公共性とは何か 動物化とは何か ハンナ・アーレント、斎藤純一氏の一部の本を読んでいた 斎藤純一氏が読むアーレントの公共性の定義 ・現われの空間  表象の空間、固有名として尊重される空間 ・世界への関心  共通世界 この2つが公共性を定義付ける 「現われの空間」は匿名性の空間に近い だったら2chの名無しの空間がもっとも公共的になるのでは 絶対的な真実は無い いつまでも議論が続く だったら南京大虐殺はなかったという話も認めることになる もし斎藤氏の定義に基づくならそうなる 認めないなら別の要素が必要 南京大虐殺については あったという奴、なかったという奴、 それを併せ持つ形で設計されなければならない 僕はあったと思う、と何回も言ってるけどみんな聞いてくれない なかったという人の意見も尊重しなければならない という帰結が生じるという話をしている 南京大虐殺の発言でねちねちと批判されている ぜんぜんわかっていない 説得する気すらなくなる 名無しの空間に公共性があるとは僕は思わない プロフィールが明らかにされないで対等に尊重される →固有名がない名無しだけのコミュニケーションに巻き込まれる 日本のポストモダン系左翼系リベラリストを突き詰めるとこれでもいいということになる ということを指摘している 斎藤さんのアーレントに対する批判もある アーレントギリシャ的な公共性、 polisとoikos 公的、私的の完全なる峻別を念頭においている だから「現われの空間」のような発想になる どんなふうにお金を稼いでいるか関係ない 抽象的な共通の問題について語りましょう しかし、我々の世界における政治はむしろoikosを対象としている フーコーの言葉でいえば「生権力」 これが政治の大きな契機としてある だとすると、いわゆる公的な話をするのが本当に政治なのか 公私の区別があいまいになっている 今の日本の論壇を見ても明らか ロスジェネ 流行語新語対象にノミネートされている 浅田彰のスキゾの後はロスジェネか 嫉妬心交じりの暗い気持ちを抱いたりする この際だから流行語対象取ってしまえば良い 雨宮さんにはパシャパシャ取られて不当逮捕反対とか言ってもらいたい 雨宮さんよりも赤木智弘さんが典型 俺の生活何とかしろ、という話 俺はこんなにきつい、つらい それをほとんどそのままストレートに書いたものが、 若者から来た新しい言説だと思われている 日本社会をこうする、お互いこう話し合おう、という提案もなくはないが、 まず俺を救え かつてならお前のプライヴァシーを垂れ流しているだけじゃんと思われていたものが、 今はあれこそが政治だと思われている まさにoikosについて語っていること # プリント配る # ドゥルーズ「管理社会について」日本語訳+英語訳 「私」が政治の問題になっていることの典型 ハラスメントの問題 卒論を指導した お前このままだと卒業できない、といったら自殺した これはハラスメントの問題になる じゃあ指導しないのがいいのか 指導されなかったことによって勉強の機会が奪われた、 というロジックも立てられる 本当に微妙な問題 吉本用語で「対幻想」 二人だけの幻想の空間 今までだったら、どっちに傾いたとしてもありかな、 というところで処理されていた問題が、 公的な問題として処理される 性的な関係になると、片方が片方を支配している、と思ったら支配されている 権力で解決できない 今は私の領域もできるだけオープンに語るという潮流 対幻想な空間もサンクションの対象になっている時代 境界が溶解している
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動物化の話 前はコジェーヴの『ヘーゲル読解入門』 今回はジル・ドゥルーズ 動物化の問題は二つある 『動物化するポストモダン』はオタクから見る日本社会 オタク評論家というイメージを払拭するべくこの授業でがんばっている ・消費社会 消費形態の変化 ・権力の変容 権力というと、 大文字の国家だけではない 人間を人間としてみるのではなくて、人間を動物のように見る社会 動物のように文化を消費する 動ポモ 動物のように管理される社会 情報自由論 大きな二つの柱 権力の変容とは何か 人を動物のように管理する というとネガティヴなイメージがあるがそんな単純じゃない 近代社会はすべての人間を人間と見做す社会 言うまでも無く、近代がくるまでこんな社会は無かった 奴隷、農奴 人口も数えられていないし、彼らの歴史なんて残っていない 王寺賢太という友達がいる ディドロ研究者 人間と動物の境界は生物学的にも曖昧 大航海時代に、黒人を発見する、同時にオランウータンも発見する 霊長類を発見する中で、タスマニア人も発見する 黒人も子供が作れる、オランウータンはどうか あの頃はかなりわからなかった 近代が始まる前は、単に身分制度の問題ではなく、 生物学的知識としてもわかっていなかった 大事なポイント 今はホモ・サピエンスの種の限界は確定している ペットを殺すのは大したことは無い 人間は殺人 科学的知識と社会制度でそうなっている 大航海時代の頃は確定していなかった ピーター・シンガーというオーストラリアの倫理学者を紹介した 『実践の倫理』 感銘というか衝撃を受ける本 人権などという曖昧な概念ではなくて、 ある種の人格性を中心に据えて命の重さを考えるべき 大人の霊長類は赤ん坊よりも人格性をもっている 動物実験にラディカルに反対している 堕胎は問題ない 嬰児殺しもおk エコロジストでもある、ああいうのはなんというのか とにかく活動家 人間性という曖昧な概念ではなく、人格性 痛みを感じる能力 悲しみを感じる能力 種を超えて人格性を図るべきだという発想 今のパラダイムではすごく奇抜なものにみえる 近代の前に戻れば、この発想が当たり前だったかもしれない 人間といっても、すべての人間が痛みを持ち悲しみを感じ、とみんなが思っていたわけではない 心が育っている人間は一部の教育を受けた人間 他の人間は心も育っていない 近代がやってきて、突然のようにすべての人間を人間と見做すようになった 大発明 近代、特に20世紀において、現代思想が問題にしてきたのは、 人間のあるべき姿がはっきりしていて、すべての人間を人間を見做すのだけど、 男性中心主義、ヨーロッパ中心主義 そういったイデオロギーが入っている アイヌアイヌ語を忘れさせ、アイヌ人的風習を忘れさせる 日本人化する すべての人間を人間として見做す すべての人間を人間にするということ 強いイデオロギーがある だから近代社会は問題なんだ、と20世紀言われてきた 無条件に全部OKというわけではない すべての人間を人間と見做さない社会というのは逆に、 すべての人間を動物と見做す社会がやってきたのではないか 人間と見做す その人間というのは、 一昔前の日本であれば、 一人前の大人だったら会社に勤めて奥さんとちゃんと生きる 鬱だから休みたいといっても働かされて過労死 そういうところまで含めて人間 健康管理をきちっとして会社、公のために働く 最近は世の中が優しくなった 働かなくて良いよ、無理だし 優しくなったとはいうけど、動物のように見做す 電池切れたかな、回路が壊れてきたかな、修理に出そう 人間として見做すのは、そいつがちゃんとやれると思うこと 今は専門家に回す 専門家がなんとかしてくれる カウンセリングとか受けさせ免責はされている 壊れた機械を産業医のもとに送る 自己管理能力を信用していない 信用をやめてしまった 人間を動物として扱うというと見下したみたいに見ているかもしれないけど、 結局僕たちは動物 強く生きられない そういう連中 それでうまくやっていけるシステムを作っていこう という風に変わってきている かつてのように強い人間を作る社会ではなく、 弱い人間=動物を管理する社会 フーコーの言葉で言うと、 規律社会から管理社会へ 規律社会は規律で頑張る 規律で社会秩序を保たせている 今は規律が壊れている 直感的にわかる というとエビデンスが無いといわれる しかしエビデンスは無視する ドゥルーズには何もエビデンスはないがとても良い 規律社会という言葉それ自体は、 70年代に書かれたミシェル・フーコーの『監獄の誕生』という本 この本でフーコーは近代社会の権力は、 discipline(規律訓練)の権力として定義付けられるという 規律訓練一本で生きていけると思っていなかった 1970年代のフーコーの仕事は規律訓練批判というより、 セキュリティの話、テロのときの主権者の問題など、現代的なテーマを扱った論考がある 『性の歴史』では生権力というものをいう 規律訓練と生権力という権力 ・人間を人間としてきちんと育てる規律正しいやつに鍛え上げる権力 ・種として、動物として管理する権力 管理社会は生権力に近い この二つは手と手を携えてきたとフーコーは言う セットになっていた フーコーは1984年に死んでしまう ドゥルーズフーコーについて書いたりする その中で最後の方に書かれたもの 1990年「管理社会について」という短い論文 他にいろいろ仕事があるが、うまい具合にこれがまとまっている フーコーと自分との差異化とか わずか数ページの論文だが有名 『記号と事件』という本に収録 基本的にインタヴュー集 その付録みたいなもの 外見的には大したものではないけどこの文章は重要 含蓄に富む、いろいろな意味を持っている論文 フーコーが分析した規律訓練は過去のもの 今は管理社会 control 管理社会は、日本語だと監視社会と語感も似ているし、意味も似ているから混同されそうだけど、 監視社会は規律社会に近い 監獄の監視システム 管理社会はもっと違う 規律社会と管理社会の違いはどう現れるか 規律社会は人を囲い込む権力 ある会社、学校に所属している 終身雇用制社会 ある人間を組織が囲い込む 組織が集まって社会 管理社会は違う 人間はどんどん組織を移っていく 規律社会における権力は組織があって組織が人間を管理するシステム 管理社会は人間自体が管理されている 規律社会において Aという社会に入った 不愉快なことがあったから、Bに転職 ゼロからはじめることができる 管理社会はそうなっていない 管理の対象は人間個人に照準化されている 前の会社でのトラブルは消えない 基本的には会社に就職してもだめ 資格を取ろう 個人単位に蓄積していく業績 ある会社でどれだけがんばっても、 部長職には何の資格も無いからリストラされて首吊る 資格は組織を超えた個人単位のもの mixiをやっている 会社に入った だからといってmixiはキャンセルはされない ネット社会は個人が何を言ったか時系列的に付きまとってくる 学校行こうが会社へ行こうがかわらない そういうところまで射程に入れてドゥルーズは話している 英語だとペラ1枚の裏表に収まる文章 P292   フーコーは規律社会を十八世紀と十九世紀に位置づけた。  規律社会は二十世紀初頭にその頂点に達する。  規律社会は大規模な監禁の環境を組織する。  個人は閉じられた環境から別の閉じられた環境へと移行をくりかえすわけだが、  そうした環境にはそれぞれ独自の法則がある。  まず家族があって、つぎに学校がある(「おまえはもう自分の家にいるのではないぞ」)。  そのつぎが兵舎(「おまえはもう学校にいるのではないぞ」)、  それから工場。ときどき病院に入ることもあるし、場合によっては監獄に入る。  監獄は監禁環境そのものだ。  類似的なモデルとなるのは、この監獄だ。 シンプルで良い文章 哲学は良いですね 後藤和智に読んでもらいたい ドゥルーズにエビデンスはない 監禁の環境というのは囲い込みの事 刑務所だけではなくて学校とかもそう 今から20、30年前は男性は街とかぶらぶらしていない 男はどこかに監禁されていたから 近代社会の構造をうまく捉えている ある監禁された環境から別の監禁された環境への移行 これが近代社会、規律社会 大学を出たら就職しなければいけない 僕は何で就職しなければいけないのかわからなかったのでせずに今に至っている 大学生は暇 就職したら突然のように月から金まで朝9時から夜まで監禁 有給なんて消化できない 何でやりたいのか 金が入るから 金本当に入るの? バイトした方がいいんじゃないか 監禁されないと生きていけないと思い込んでいる そう思わせる社会は規律社会 入院すると会社へ行かなくても良くなる 自宅療養を繰り返すのはアウト 監禁されていない、フリーすぎる  フーコーは監禁環境の理想的計画をみごとに分析してみせた。  その計画は工場の場合にははっきり見てとれる。 全部読んでも面白いけどここはまあいいか  つまり規律社会とは、すでに私たちとは別の、  もはや私たちとは無縁になりつつあった社会のなのである。   私たちは、監獄、病院、工場、学校、家族など、  あらゆる監禁の環境に危機が蔓延した時代を生きている。 すばらしい要約 まさにそう 監獄は人を閉じ込めて更生させる装置 そういう装置への信頼が衰えている 性犯罪者 更生していない 代わりにGPSと住所の公開 放し飼いにして近寄らないようにするシステム 監禁の制度が信じられていない いろいろなシステムが変わってきている  家族とはひとつの「内部」であり、これが学校や職業など、  他のあらゆる内部と同様、ひとつの危機に瀕しているのだ。  こうして規律社会にとってかわろうとしているのが管理社会にほかならないのである。  「管理」とは、新たな怪物を名ざすためにバロウズが提案した名称であり、  フーコーが私たちの近い将来として認めているのが、この「管理」なのだ。 このcontrolはどこから持ってきているのか フランス現代思想はアメリカのSFが好き 有名なところではボードリヤールシミュラークルはディックから来ている P294  II.論理   個人が体験するさまざまな内部滞在の機構、すなわち監禁の環境は独立変数である。 さっぱりわからない文章だけど、 すごい簡単に言うと、 個人が体験するさまざまな監禁の環境=組織の事 会社A、会社B 僕が移動する事によって変わる事は無い だから独立変数 A、B、Cの環境は変容しない  そこでは環境が変わるごとにゼロからやりなおすのが当然のこととされ、  すべての環境に共通する言語が存在したとしても、それは類比にもとづく言語なのである。 類比 anagogie 会社Aの経験を生かせて会社Bにいる、 というのは所詮アナロジーでしかない  これにたいして、さまざまな管理機構のほうは分離不可能な変移であり、  そこで使われる言語は、  計数型で(「計数型」とはかならずしも「二項的」を意味するのではない)  可変的な幾何学をそなえたシステムを形成する。 「分離不可能な変移」は考えなくて良い independent variables と inseparable variations 数学用語を使っているというよりも、こういう対比になっている 組織を移動する事は、規律社会だとindependent variables 組織は独立して存在している一つの変数 移動する個人そのものはどんどん変わっていく inseparable variations 会社Aにいた状態で、何か経験値を積んだらBにも持ち越される 個人は分離不可能 そういう存在としている independent variablesはどういう意味なんだ…まあいいや 各組織に入ることはゼロからやり直す 会社Aの東浩紀と会社Bの東浩紀は別人 管理社会は東浩紀という個人がたまたま会社Aにいる、Bにいる 同じ人間でも ・別の組織に行ったら全部変わる ・人間関係も引き継ぎながらキャリアアップ 計数型 英語だとnumerical 数字で記述される まさにキャリアアップサイトに書いてある「あなたの年収いくら」みたいなもの 今は400万だから次は500万だ ポイントとして人生が蓄積されていく 昔はポイントは蓄積していなかった そういう違いがある  監禁は鋳型であり、個別的な鋳造作業であるわけだが、  管理の方は転調であり、刻一刻と変貌をくりかえす自己=変形型の鋳造作業に、  あるいはその表面上のどの点をとるかによって網の目が変わる篩に似ている。 監禁は鋳型 この会社に来た以上、この会社の君になる 会社に染まってもらう 組織に合った人間として鋳造される 管理社会は転調 組織の中で鋳造されるのではなく、人間自身がどんどん変わっていく 1990年に書かれている 今から見るとそれはそうだろうという感じだけど、 当時はそうではない 非常に予見的なテキスト 企業と工場の対比 能力給 そういう単語も出てくる  規律社会では(学校から兵舎へ、兵舎から工場へと移るごとに)  いつもゼロからやりなおさなければならなかったのにたいし、  管理社会では何ひとつ終えることができない。  企業も教育も奉仕活動も、すべて同じひとつの変動が示す準安定の共存状態であり、  変動そのものは普遍的な歪曲装置としてはたらくからである。 mixiとかブログがイメージしやすい 学校から会社、ほかの会社へ 人生はキャンセルできない 紐付けされた情報がずっと付いてくる それは誰でもアクセスできるものになっている HN使ったからといって解決しない HNの周りにそういう情報が蓄積されている HN変えたらその人格は死んだという事 ある名前にどんどん情報が蓄積していって、それをキャンセルできない そういう環境にいる ドゥルーズがネットの検索を見たらまさに実現したと思うだろう 検索エンジンは名詞を検索したらその情報がバーっと出て来るシステム 僕をバッと検索してしまうシステムがGoogle P296  規律社会にはふたつの極がある。  ひとつは個人を表示する署名であり、  もうひとつは群れにおける個人の位置を表示する数や登録番号である。 これはどういうことか 規律社会 名前→個人: 分子的  東浩紀という人間をどういうふうにちゃんとした人間に育てるか 生権力  数字→群れ: モル的  37歳の男性、という統計的なデータ  メタボが進んでいるとか  でも僕は軽肥満  岡田斗司夫とはわけが違う ドゥルーズガタリの思想においては個人と群れの対立がよく出てくる まさにソーカルに取り上げられる、科学的な隠喩を科学とは関係なく使う 分子的とモル的 一つ一つの要素に着目する 違う水準が重なり合う ドゥルーズの一つの仕事は精神分析批判 人間の無意識をあくまでもモル的に捉えている フロイトでは人間の無意識がどかんとある しかし無意識は群れである ばらばらな生を描いて有象無象のネットワーク 規律社会においては、 個人というのは、名前、一方においては数字 で管理されていた 二つの極があった  つまり規律にとっては、個人と群れのあいだに両立不可能性などありはしなかったし、  権力は、群れの形成と個人の形成を同時におこなっていたのだった。 まさにそのとおり  ようするに権力は、権力行使の対象となる人びとを組織体にまとめあげ、  組織体に所属する各成員の個別性を型にはめるのである。 翻訳が難しいだけで英語で読んだら簡単かも 人々を組織に纏め上げ組織の型に入れる  逆に管理社会で重要になるのは、もはや署名でも数でもなく、数字である やっぱりフランス語持ってくるべきだったかな ここで数字と翻訳されているのは、 数字=暗号chiffreという単語 英語だとcode どちらかというと暗号 翻訳した人が暗号という含意が重要になると思っていなかった 数字じゃなくて暗号だと言っている 管理社会では暗号(code)が大事になる  規律社会が指令の言葉によって調整されていたのにたいし、  管理社会の数字は合い言葉として機能する。 個人を特定する権力、個人がどう特定されているか その中核は何か まず名前があって、集団の中で位置を表示する数字 住所、電話番号 東浩紀は何者か まず東浩紀という名前をもっている 次にさまざまなデータ そういう組み合わせで一人の人間が描かれる 固有名と確定記述の話をしていたが、 固有名の水準と確定記述の水準があって、 そういうのの組み合わせで一人の人間が浮かび上がるそういう構造 管理社会はある意味でそれが単純化されている ある個人をある個人として見做す根拠はパスワードだけになる という事を行っている パスワードよりもIDに近いかもしれない あまりにも今の時代からは当たり前すぎること しかしインターネットも何も無い時代、そんな時代の老人が、 そらおそろしいまでに正確に捉えている 実際に今起きている  管理の計数型言語は数字でできており、その数字と個人の対ではない。 管理社会の言語、形作っている主要な言語は、 固有名とか身長体重ではなく、パスワード、暗号なんだ、 コードが表しているのは、アクセス可能か拒絶か 人間がいる その人間をいろいろな人間と共に監禁する その監禁の環境が集まって大きな社会になっている そういうことだった 一方においては、ここにいる個人を名指そうとすると固有名 社会から見ると、一つの数字、どこどこに住んでいるだれだれ何歳ということで指定される そういう二面性 群れの管理と個人の管理を両立させていたのは ピラミッド的なヒエラルキー構造 人間をある鋳型に閉じ込めている これが規律訓練 主体化された個人を群れとして管理する 管理社会、ポストモダン社会においてはこんなややこしい構造は無い 個人がどかんといて、データだけがある 社会というのは巨大なデータ ある部分にはアクセスできる、ある部分にははじかれる それを決定しているのはcode codeの部分こそが管理社会において権力を作っている レッシグ『CODE』という本がある まさにこういう事を言っている codeこそが権力になる Windowsメディアプレイヤーの著作権管理機能 期限が過ぎるといきなり再生できなくなる 買ってから1週間過ぎたら突然アクセスできなくなる codeに制御された活動が大きくなっている そういうことを念頭において読むと驚くべき符合がある 近代社会における二重構造がないところで、 個別の人間だけを焦点化してくる権力の新しい働き方 これはエッセイ 思いつきの文章 しかし正確に事態を捕まえている かつては組織を通して社会に接触 クッションを持っていた ここ20、30年で急速に壊れた 今人間と社会を媒介しているのはcode アクセスできるかできないか、わけのわからない力 それを背負っていかなければならない 鈴木謙介が言っている「宿命論」 アクセスするかしないかが大事だという世界観はセカイ系にいっぱい出てくる ここ20年くらい左翼系の人たちがよくいうのは、 中間団体、NPO、地域、小さいコミュニティをどう復活させていくか あらゆる左翼たちが言っている 社会で活動している人たちが口を揃えてコミュニティがなくなっていると言っている 監禁の環境とドゥルーズは言っているけど、社会学の用語でいうと中間団体の問題 世界の中にぽつんと個人だけがいる 媒介しているのはcode なかなか現代的 最近のブログで書かれていても通じる やっぱりドゥルーズはすごい

今日の授業にはゼロアカ参加者が3人も居たこともあって、授業の後、やぶ、養老乃瀧、庄屋で飲み。