東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第10回(12/12)

さて
なぜこんなことになってしまったのか僕もさっぱりわからない
来週とかにひきずらなければいいけど

まあやりましょうか

結局この授業で何を言い続けているのか
公的なものと私的なものの境界
政治的なものと非政治的なものの境界
そういう境界がポストモダンにおいてはどういうふうになるのか

『リアルのゆくえ』が出発点
僕と大塚さんは話が合わない
公共性をどう捉えるかというところ

大塚さんはある信念を持って人々を啓蒙する
自分は正しいと思っていることを人に伝わると信じて言う
それが公共的

僕はそうではない
さまざまな意見がぶつかり合う
公共的というのは、ある特定の意見を言うことではない
ある特定の意見がヘゲモニーを握らない
絶対的な真実が無いまま議論が続く
それが公共性

大塚さんはそれはシニシズムだという
自分が正しいと信じることを人に言えないのであれば、
それは公共的でもないし、そんな奴は批評家でも知識人でもない

それが出発点
ぐるぐる回っている

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前回はこんな話をした 今回のトラブルの出発点になったのは、南京虐殺をめぐる何者かの発言 しかし僕は南京虐殺についてはほとんど何も言っていない 南京虐殺はなかったとは言っていない 南京虐殺はあった どうせ文句が出るだろうと思って書いたブログのエントリ 1990年代、中国への旅行で南京虐殺資料館に行ったときに そこにあったのは全て本多勝一の本からのコピーだった これはどういうことだ という経験は真実 単なる旅行体験 遠まわしに虐殺がなかったと言いたい訳ではない そういう現象はある あったと考えている人と、なかったと考えている人がいる いる以上、自分がどう思っていようと発言の場を与えるしかない それがポストモダンリベラルの帰結 あったかなかったかを本当に中立的公共的に言えば、 どちらも居るとしかいいようがない 僕が相対主義というわけではない 公共的な立場を担うためには、すべてを超えた相対的な立場をとるしかない 「思想地図」で一緒にやっている北田暁大さんの『責任と正義』 厚くて硬い本 まさにここでそういう話を延々としている 「リベラリズムの居場所」という副題 このタイトルが居場所を探すのがどれだけ難しいか意味している 特に第3部「リベラリズムとその外部」 延々とリベラリズムを認めない他者をどう遇するか リベラルでない人間をリベラリズムは受け入れなければいけない、というのが北田さんの結論 すごく長い時間をかけて論証しようとしている P283  自由主義者は相手が国家という論理を承認しないテロリスト、アナーキストであるからといって  そのことを理由に差別的な取り扱いをしては絶対にならない  例えば適正な裁判を受ける権利や、適応的な操作によって逮捕される権利といってものを、  彼らから剥奪してはならない  そうした差別的処遇を国益の名の下に正当化する時、  その国家というものはもはや唯一の公的機関であるという自負を捨てて、  私的な保護機関へと座してしまっているのである # 手許に本がないので引用は不正確 ここでも公と私が使われている 僕の授業の使い方と同じ リベラルな国家が、テロリストは我々を脅かすから自分たちと同じ権利を与えないと言ったら、 リベラリストは公ではなく私的な国家を作っているだけ 公であるなら自分を脅かすテロリストにもある種の生存権を与えなければいけない カールシュミットの考えでは、政治というのは友と敵の分割 単に相手のことが憎いとか嫌いではない まさに公と私の区別 どういうことか 友敵は公的な概念 公敵と私仇は違う 公の敵をを設定することが政治 敵を作ることによって公を設定する 政治、友敵というのは比喩ではない 存在論的殲滅 いなくさせる ちゃらい話ではない 相手を殲滅するときがリアルな政治 シュミットはナチス政権と深い関係がある まさにユダヤ人を存在論的に殲滅 非常に問題がある概念だがクリア 一方に自由主義リベラリズム 他方になんというか、まあ国家主義 対立している どう対立しているか 自由主義は敵を認めない 友敵の分割を認めない 国家主義は友敵の分割から始まる 大きな違い 自由主義は根本的にそういうもの 自由主義個人主義 個人の自由は最大に尊重する 国家は必要悪 マーケットでうまい具合にやる それに対して、 人間は集まって暮らさないとやばい、 殺しあうから国家をつくらなければならない ホッブズアダム・スミスみたいなもの 最初から対立している シュミットはすごく明確なわずか百何十ページの論文で書いている 政治が政治であるためには友と敵が無ければならない 自由主義は本質的に非政治 するどい指摘 公と私の区別を作るのも政治 私的な敵がいくら集まっても公的な敵にならない あれこそが我々の敵だと設定する権利は主権国家しか持っていない 日本が中国と韓国と戦争したとする 私的には仲の良い中国人が公的には敵になる そういう力を持っているのが主権国家 それこそが公的であることををつくりだすプロセス それがなければ政治も公共性もない これがなくなったら私の感情でしかない この手の対立は 最近の政治思想ではメジャーな話 シャンタル・ムフ『政治的なるものの再興』 再興はReturn タイトルは再来の方が良かった 原著が93年 翻訳が98年 これも結構良い本なので目に付いたら見てください 序章を読めばムフが何を考えているか全部わかる むしろこれが授業の元ネタか 読み直してあまりの元ネタにびっくりした ムフはまさにカール・シュミットを引きながら、 冷戦構造が崩壊し、共産主義自由主義という対立軸がなくなった 冷戦構造は友敵そのものだった それが崩壊し、世界はアメリカを中心としたグローバリズムで自由で民主的になる いやいやそれはないだろう 政治的なものは必ずReturnしてくる それは必ず友と敵の分割として現れる 冷戦構造が崩壊した後、友とか敵とか面倒くさいこと言わないで、 ちっちゃく慎ましやかにそれぞれネットワークを作って楽しく生きていく そんなことはない 人間は必ず公的な敵を作るんだ とムフは言う 議論としては大きい 僕の本では、大きな物語が無い状態でまったり生きていくのを動物化といっている 自由主義で非政治的な空間 そっちにいくのかどうか 何回も反復されている議論 だいたい人文系の思想家はみんなReturnとか言い出している 政治的なものがReturnしているとムフが言っていた頃は、 柄谷行人も60周年周期説を唱えてアツく今こそ物語が再来するとか言っていた だからこそ動ポモを書いた 再来しないと僕は思っていた 冷戦崩壊以後のある現代思想の対立軸の雛形 国家主義自由主義 右翼左翼と思いきや、 左翼的な主張をするためにむしろ友敵理論の再来を導入したりする 僕が政治の話をしないのはあまりにも奴らが馬鹿だから 麻生に期待していた奴はまじ馬鹿 すごい勢いで支持率が下がって良かった もはやどうでもいい 中曽根とか出てきたら良い レヴィ=ストロースが新刊出すのと同じくらいインパクトがある ムフはこういう 政治がなくなるといってもなくならない 集合的に人がアイデンティティを作る場合、theyがないとweを認識できない 絶対に公的な敵theyを必要とする 多様な宗教、経済的なアイデンティティ それぞれの領域において友敵が作られるだろう 政治的なるものは人間の中から取り去ることは出来ない この人の考え方では、 冷戦構造が崩壊し政治的対立が機能不全に陥っている今の状態はむしろ危険 政治が無いように見える今こそ、 ファシズム、巨大なポピュリズムみたいなものがばーっとくる可能性がある コピーしてこようと思ったけど、できる雰囲気じゃなかったのでしてない  敵対関係を全て除去できると考えるのは幻想に過ぎない  今のような状況下ではむしろ、それぞれの敵対関係に対して、  多元主義的民主主義のシステムの内部で、  政治的な捌け口を提供するのが好ましい # 手許に本がないので引用は不正確 政治的捌け口ってすごい表現 敵対関係が起こりそうになったときに、 それが不安定なマグマとしてあるよりは、捌け口が導入された方が世の中安定する 敵対関係があったほうが良い だからこそ政治は大事 田村哲樹『熟議の理由』 ・闘技的民主主義  ハーバーマスの「討議」とはちがうところがポイント  同音異義語過ぎるから何とかしてほしい ・熟議的民主主義 『責任と正義』に対するレスポンスであると同時に、 ムフに対しても批判的 闘技が闘技であるからこそ熟議が大事 北田さん的なロジックの作り方 自由主義国家主義の対立の調停が変形されて出てきている 友と敵が無くてもいいのかどうか 生きられるのか 僕が公共的、政治的であることに疑いを持っているのは、 人はこうした理論を知らなくても、 公共的であること政治的であることは、 イコール友と敵を明確にして喋ることだと思っているから 論壇プロレス 本質は突いている 公共的なアリーナは構造的に闘技の空間として考えられている 友と敵が戦う場として公共性を考える そういう知的伝統 ポストモダンリベラリズムはそんなことは考えない それにおける公共性とは何か 斉藤純一さんの本を借りて議論していた、現われの空間と共通世界への関心 これが公共性の定義だと斉藤氏は言う この定義は闘技としての公共空間とは少し違う 一言で言うと僕は「批評空間」オタク 熱心に読んで自分もデビューした 漁るようにあそこらへんを読んでいた アニメオタクよりもよっぽど現代思想オタク そこではまさにこういう問題が議論されていた 友敵なるもの 主体はどう作るのか ポストモダニズムは崩壊するといっても主体の核は残るだろう 政治は非政治に吸収される でもやっぱり残るだろう こういうタイプの議論が延々と繰り返されていた 『存在論的、郵便的』 1998年に書いた 僕のマスターピース この本で何をやっているか 否定神学を批判している 何を言っているのか すごく簡単 Aがどんどんなくなる でもなくなっているプロセスの中で必ずAは戻ってくる Aは主体、国家でもいい そういう議論が90年代日本で多かった その手のタイプの議論を根本的に批判するために、 デリダという思想家はそういうタイプの議論こそ批判していたんだ という本を書いた だからこの問題は僕にとって親しい これが東工大の2、3年生向けの一般教養の授業だという驚くべき現実 愕然とする シャンタル・ムフの『政治的なるものの再興』は98年に翻訳が出たので、 『存在論的、郵便的』を書いているときは読んでない ムフはエルネスト・ラクラウという人と結構一緒に仕事をしている ラクラウはジャック・ラカン派 『存在論的、郵便的』はデリダによるラカン批判でもある ラカン、ラクラウ、ムフというラインでムフの話が一回くらい出てくるかも 当時からこの問題は関心がある つまり友と敵はあるのか、ないのか、なくなっていくのか 『動物化するポストモダン』はなくなっていく世界の話 『政治的なものの概念』 P30、P68でシュミットがもし政治がなくなったらという話をしている 1930年代の本 いいねー30年代 まさに全ては30年代 未来予測をしながらペスミシティックに書く コジェーヴに似ている 例えばGoogleが僕たちの世界をある程度統一している シュミットに言わせればどうでもいい Googleは僕たちに死ねと言わない 僕たちが使いたいときだけ使う サーヴィスを提供する側とユーザ側という関係 いかに社会を深く規定していても政治性を持たない 『リアルのゆくえ』で活字になっていないけど、 僕はGoogleの話をしている時に、 ネットみたいな小さい話は横にして、と確か大塚さんは言っている Googleが小さい じゃあどうすれば? 火星の話か? 規模として超えるものはそういうものしかない でも、ある発想をしていればわかる シュミットにとってはGoogleがいかに大きく生活を支えていても、政治じゃない 死ねと言わないからどうでもいい 「思想地図」で「再帰的公共性と動物的公共性」というタイトルの座談会 大屋雄裕さん、笠井潔さん、北田暁大さんと対談 例によってGoogle的公共性 大屋さんは法学者 裁判員制度が如何に間違っているか聴いた Google的公共性とか、ルソーを読み直したいとかいう話をしたら、 大屋さんは、 一人一票を支えているのは、最終的に人間の命はひとつしかないから 自分の命と引き換えにもらっている 歴史的に見ても徴兵制とかから始まっている 人間の命がひとつであるかぎり一人一票というのは崩せないのではないか と言う なるほど一貫している 命のやり取りが政治性を根拠付けている 友と敵が殺しあう場所で初めて政治が発生する シュミット的、国家主義的 それに対して自由主義は違う どっちが正しいかよくわからない 人類社会がどっちを作っていくかという話 リベラリズムとかポストモダニズム リベラリズムはみんななんとなく好き この思想は原理的に非政治 公共的であるものをなくしてしまう それは深く知っておいた方が良い それを知らないと色々なことを間違ってしまう ある意味でデリダというのは、 友と敵を決して分けない男として居た 『法の力』 何故プリントを配ったか ぱっとデリダの解説というわけではないけど、 どういうことを言っているのかなんとなく文章で見てもらいたい 200ページくらいの本 第二部はベンヤミンの読解 有名なのは第一部70ページくらい 気合入れれば読める デリダの中では読みやすい 英語とフランス語の対訳も持ってきた 1990年 冷戦が終わった後、アメリカの法学校でやったシンポジウムの基調講演が『法の力』の第一部 シンポジウムというのは公式言語は英語だけど、デリダはフランス語で喋った その対訳が法学誌に載った 正しさ、ジャスティスとは何か 「ポストモダンと情報社会」という学部生向けの教養授業で、 何故ジャスティスについて話さないといけないのか どうしちゃったのか 大塚さんは僕に深い傷と何かを与えた 真面目に答えてしまっている 秋葉原事件とかあって、正義について考えた年でもあった 高橋さんは、歴史修正主義問題で野家さんと上野さんを批判 政治的には同じ態度だけど、野家や上野では弱い 相対的であることを認めることが正義だったら、 南京虐殺はなかったという奴にも場を与えていることになる それでいいのか はてなサヨクと言われている人たちが僕に噛み付いているのと同じ構図 そこで正しさを高橋さんは持ち出す デリダの正しさは本当にそうだったのか デリダと正義というものに関して有名なのは、 脱構築は正義という文章 これはどこに出てくるか P34からP35 「法/権利」というのはフランス語のdroit 法と権利の意味をもっている 法と読み替えても良い 法の脱構築可能性、不可能性ということを言っている P34  正義それ自体はというと、もしそのようなものが現実に存在するならば、  法/権利の外または法/権利のかなたにあり、  そのために脱構築しえない。 デリダは正義が存在するとも言っていない あるとしたら法の遥かかなたにある ここでは使ってないけど「計算可能性」もキーワード 法は基本的に計算可能という どういうことか 法のシステム論的解釈を念頭に置いている 法というのはある種の公理系 基礎的な原理があってそこから計算されると法律が整備される そういう理想を持って法を整備するべきだという思想がある 現実の方はかなりてきとう しかし理念としては計算可能 白田秀彰さんという法政大学の法学部の准教授 「ネットスター」で一緒 能力の無駄遣いの番組 今度デリダの話でもしてやろうかな 白田さんは、今の日本の法律というのはすごくてきとうだから、 もっとコンピュータのプログラムみたいに書けば良いと言う 工学部の人は結構共感するのではないか 法をプログラムのように書き、社会制度に実装していく 今の法システムは運用が滅茶苦茶 きっちりして全てが計算可能にした方が良いのではないか 法は理念としては計算可能 しかしもし正義があるとしたら、定義上、法の外側になければならない もし法の中に正義があるなら、正義はいらない 計算可能だから、次から次へ事態が展開して終わり 正義はある意味で、まさに「責任」と密接な関係を持っている 計算可能な法というのは、判決を下そうとしても、僕が居る必要が無い マニュアルを見て、認定された事実を見て、足し算引き算して、 はい懲役何年と言えば良い 単なる計算 もし正義があるなら法で支えられない体系 法で処理できない例外事例 法の外側で、あるものに働く だから正義は計算不可能 正義を計算可能にするのは定義上無理 法は計算可能、正義は計算不可能 と、まずデリダは言う P34  法/権利が脱構築可能であるということは、不幸なことではない。  そもそも政治が歴史的進歩をもたらすことのできるチャンスは  そこにあるとみることさえできる 脱構築とは、あるシステムの中で、 こっちではこういっている、あっちではこういっている、矛盾するではないか 問題点を発見する ヘーゲルだったら弁証法 人間はそうやって思考を展開する 法は常に不完全 だから脱構築できる これは決して不幸ではない 政治の進歩するのはそういうこと  しかし、議論していただきたいと私の思うパラドクスは次のとおりである。  すなわち、法/権利の、または――こう言ってよければ――法/権利としての正義の、  この脱構築可能な構造こそが、脱構築の可能性の保証者にもなっている。 何を言っているのか 脱構築が可能なのは、法が脱構築可能だから そういっているだけ 正義はそんなものの外側にある 法は計算可能だから脱構築可能 計算可能であることは完全であることを意味しない 法は現実には不完全だから脱構築可能 ある種の論理的な言語による社会秩序の基本的な条件 我々は正義を知っている 法の外側にある 計算不可能 じゃあそれは脱構築不可能ではないか 正義というものがどかんと与えられている それが絶対的に正しい、というわけではない 法に則って、何か判断をした さっき彼らを追い出したのは法ではなく正義だった気もするけど、 それは冗談として、マニュアルに則ってもぐりを排除 しかし法は必ず脱構築可能 そういうマニュアルこそが問題だ、それには欠点があってどうのこうの マニュアルが不当なら、帰ってくださいも不当 だから謝って今度はもてなしましょう これがつまり法による判断は脱構築可能だということ そもそも法は必ず不完全 何回でもリテイクが可能 死刑やったらやりなおすことはできないんだけど、 法に遡ってその決定の正当性を問いただすことができる 正義は違う その時やっちゃったってこと 今の話で言えば、何で他の奴らは入れるのに俺らは入れないのか 「いや俺が嫌だから」 何の根拠もない 「えっ…そんなバカな」 「嫌だから、じゃっ」 そういうもの 普段はもぐりを認めても問題はおきない ところが例外状況が来た ルールを作るより例外として処理した方がコストが小さいかも でも何回も彼らが来るのだったらルールを作らないといけない ルールになったら脱構築可能 例外は脱構築不可能 遡行できない 一回限りの判断を支えるものは何も無い だから脱構築不可能 正しいということではない ジャスティスは無根拠にやられる 正しいとか間違っているとか問えない やっちゃった、ってことでしかない デリダが言っているのは倫理からは程遠い 正義は何者によっても支えられていない ベンヤミンに『暴力批判論』という有名なテキストがある ・法措定的暴力 ・法維持的暴力 を分ける 作るのと維持は別 法が作られる暴力は維持とは全く関係ない 法維持的暴力は脱構築可能 そもそも法を作る暴力は単に暴力としてそこにある それについては脱構築できない 脱構築不可能性の概念は、歴史の一回性とかに近い あってしまった あってしまったことを引き受けなければいけない あってしまったことを責任に振れば高橋さんの言っていることに近くなる ここから先は哲学とは何かという話にも関係してくる 例外、計算不可能、法措定的暴力 こういうものを学問は扱わない 学問が扱うのは反復して結果が出るもの 公式を作ってそれが展開するもの 公理があって検証可能 反証可能性を科学の基本に据えたのはカール・ポパー 科学は反証可能だし脱構築可能 こういうことを言ってるからソーカル事件が起きたのですがそれは横に置いとく いずれにしても、脱構築はそう P35  (1) 法/権利(例えば)の脱構築可能性は脱構築を可能にする。  (2) 正義の脱構築不可能性もまた脱構築を可能にし、さらには脱構築と混じり合う。 初出の論文と比べるとすこし誤訳  1. The deconstructibility of law (droit), of legality,   legitimacy or legitimation (for example) makes deconstruction possible. law、legalityは法律、legitimacyは正当性、legitimationは正当化 この全てのdeconstructibilityがdeconstructionを可能にしている  2. The undeconstructibility of justice also makes deconstruction possible,   indeed is inseparable from it. これもまたdeconstructionを可能にしている 実際のところそれから切り離されていながらも どういうことか ・計算可能な法 ・計算不可能な正義 がある 計算可能な法は、計算可能だから脱構築可能 なぜか 外側から介入する奴がいるから 計算可能な法が脱構築可能なのは、 ひとつには、これが脱構築可能だから もうひとつは、法に外側があるから 法の脱構築可能性が脱構築を可能にする それとは切り離されているのだけれども、 脱構築不可能な正義、正義の絶対的外部性がまた脱構築を可能にする そういう二重の構造 ある意味では言葉遊びに近い もし我々が正義という言葉を使えるとしたらこう考えるしかない、という言い方 これは法学者を前にして行われた読み上げ原稿 フランス語で行われた講演 かなり混乱させたはず 法学者を前に延々と、法の脱構築可能性が云々とかいう講演 僕はそういうデリダが大好き 空気読めない男 ぶっちぎりで読んでない デリダはああいう人だ、こういう人だ、と要約で読む 実際にデリダの文章を読むと、 その中に回収されない迂遠な表現、長い文章がたくさんあって、 こいつはそんなんじゃない、ということが直感的にわかる そのことに触れるために一冊付き合っても良い なんだこいつ、どうしてこんな長い時間喋るんだという謎  (3) 結論。脱構築が起きるのは、正義の脱構築不可能性と法/権利の脱構築可能性とを   分かつ両者の間隙においてである。 英語で読んだほうが早い  3. The result: deconstruction takes place in the interval that separates   the undeconstructibility of justice from deconstructibility of droit   (authority, legitimacy, and so on) ・法の脱構築可能性 ・正義の脱構築不可能性 を分けるこの隙間で脱構築が起こる これはすごく良いことを言っている どうして隙間が大事か 普通、人はこう思う 脱構築不可能=正義 法を外部から壊すのがそれが正義であり脱構築 しかし違う 法と正義の隙間が脱構築 僕の考えではこういうこと 脱構築をやってるときはそれが脱構築なのかわからない ある法があって、自分が正しいという立場から、 この法は間違っていると言うのは脱構築ではない 法の内部に居るのか外部に居るのか自分でもわからないような形で行われる実践 結果的に脱構築になるのかもしれない 単にたいしたことのない事件かもしれない どっちに落ちるのか分からない 計算可能か計算不可能なのか判定できないところで行われるのが脱構築だとデリダは言っている これは深読みなのか いや明らかにそういっている P58からP61「第二のアポリアアポリアは逆説 正義というの決断が無いと正義にならない それはそうだ 法措定的暴力と法維持的暴力と同じ話も書いてある P58  もし計算とは計算にほかならないとすると、  計算しようという決断は計算可能なものの次元にあるのではないし、  そのような次元にあるべきでもないからである。 計算したいという意思は計算不可能 どこかに決断は入っている 正義は決断 『ゼロ年代の想像力』でもわかりそうな話 あれはちょっと良い 彼はセカイ系決断主義の話をしている あれは自由主義国家主義 セカイ系ポストモダニズムの亡霊、僕 誰も物語を選べない世界 それに対して、ゼロ年代は決断が必要 何度も反復されてきた 相対主義が強くなると絶対に決断主義が出てくる 宇野君が自覚しているかはわからないけど、 あるフォーマットに則っている正しい批判 ありうるべき出てくる批判 正義は決断 仮面ライダーみたいな話になってきた P59  決断不可能性というテーマは、脱構築と結びつけて考えられることが多い。 脱構築っていうと普通決断不可能だって思われるが、云々 デリダが色々なものに反論していたりする そこは横に置いとく 大事なのは、P61  だとすると決断は、現在いま正義にかなっているわけではもはやないし、  完全に正義にかなっているわけでももはやない。 脱構築というのは今この瞬間正義だとわかるものではない 「今」がなぜ強調されているか デリダはもともと現前性、presence、現在であること、 今であることの哲学を批判することから始まった なぜそんなことをやるのか 人間の意識は何故あるのか 昔から考えられてきた 今喋っているのと同時に聞いている そういう回路に不断にぐるぐるまわるのが意識の核だという発想 それは実は違う というところから始まった そういう話はそういう授業をやって良い時代が来たらやる 「今」を批判する デリダにとっては大きい 今この瞬間ここでしか体験できないもの 文学でも何でもそう みんなそういう事をよく言う ネット良くない、やっぱ面と向かって話さないとダメ デリダはそういうのに対して批判的 いやそんなことないでしょ、人と会っても会ってない ちょっと時間はずれるし コミュニケーションはそもそも手紙で捉えられるべき 僕の本の郵便的の基本的な部分 まず対面コミュニケーション、手紙は下部組織、会えない時に手紙 しかしデリダの考えでは人のコミュニケーションはそもそも手紙 会ってるのは偶然会ってるに過ぎない コミュニケーションの考え方がぜんぜん違う 今を批判する人 ここで決断というのは、今正義にかなっているわけではない 今脱構築しているんだということが分かるものではない  あらゆる決断は、すなわちあらゆる決断という出来事は、  自らのうちに、決断不可能なものを少なくとも幽霊として、  しかしながら自らの本質をなす幽霊として受け入れ、住まわせつづける。 僕はこういうのに痺れていた男 かっこいい 人は何か決断する 法を脱構築する、これが正義だという 法を変えるときはそう 今までの法であれば、DVは私秘的な現象だったからそれは政治ではなかった いやそれこそが政治、それこそ扱わなければいけない そういう決断をするときに、常に自分の中に決断不可能なもの、 決断はできないというものを幽霊のように自分の中に取り込んでいないといけない 決断の瞬間というのは、決してアウフヘーベンされない (aufgehoben、弁証法で正しいものと間違っているものがあったらそれを統合して上に行く) 何言ってんだって感じ つまりここでデリダが言っているのは、 決断がもしあるとしても、それが正しいかどうかその時にはわからないし、 後になってあれは正しかったんだ、と簡単に物語化もできないという話 歴史が弁証法的に進んでいったら、 後から考えたら、実はあれも後々のフランス革命の布石だったとか物語化されていく 物語化の中に組み入れられる、それがアウフヘーベン しかし決断は組み入れられない 正義の決断は、後から物語化することによって正当化できない 正当化、レジティメイション、法によって正当なものだと後から認めること そういうふうな形で回収することが出来ない それが決断 こういうことを考えると、 デリディアンは本当はこういうことはできない だから高橋さんが悪いというのではない だからこそやっている高橋さんは偉い でもやっぱりデリダは被害者の側に付くことが絶対的に正義だとは絶対に言わない デリダというのは本当に空気読めない ペレストロイカの直後にモスクワで面白くない講演 『ジャック・デリダのモスクワ』という本になっている 語源からみると「ペレストロイカ」は脱構築 どこかで聞いたような危ない話 だからどうした ソ連崩壊直後か直前だったかで、 すごく良い時期にモスクワに行っているのに、 ペレストロイカ脱構築だといって帰ってくる ネルソン・マンデラをたたえる講演も似たような講演 最初はネルソン・マンデラの話をしている 二段落目から空気がおかしい いつの間にか、正義の決定不可能性なるものの決定可能性が云々 ぐるぐる煙に巻かれる デリダという思想家の政治性は本当に重い話 なかなか言うのも難しい ドゥルーズフーコーみたいに、私の立場はこうだとデリダは言わなかった デリダの親友のポール・ド・マンがいた deconstructionの概念は1970年代にアメリカに輸入された 文芸理論の世界で影響があった その中心がイェールスクール その親玉 デリダと似たような年で一緒に仕事もしていた 死後、ナチの協力者であることがわかった 一流の評論家でデリダの同士 大した話ではない 最近でもミラン・クンデラ共産党に密告してたことが判明したとかしてないとか あの頃に何かやってたら出てくる ポール・ド・マンは確か自分が発行してた学生新聞か何かにナチ万歳とか書いていた そういうレヴェルのスキャンダル それを擁護するデリダ論文 記憶の不可能性、決断の不可能性とかそういう話 ドマンが正しかった、反省していたとかは絶対に書かない 記憶は不可能だ それが正しいか正しくないか、興味を持つかどうかはともかく、 デリダはそういう思想家 はてなサヨク的、ブログ論壇的粗雑さで言ったらデリダ歴史修正主義 記憶は不可能だから そこだけ取り出したらだけど 20世紀の思想家は厄介 特にデリダは厄介 むしろ一番良いところ 決定しないとか、開かれるみたいなものを徹底して突き詰める 自分がだめになっても開かれよう もしかしたら21世紀には通用しないのかもしれない じゃあ次回は最終回(今年の?)

授業の後、四川で飯。南2でだらだら。やずやさんと「体育会系は脱構築可能か」とか『聖おにいさん』のつまらなさについて話したり、仲山君と様相論理について話したりする。電車が止まっていたので去年もぐっていた慶應の人とマックで話したり。