東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第11回(12/19)

…いないですね
良かった
とても良かった

今日はちょっと大変風邪気味なので、マイクを付けさせてもらいます
では授業を始めましょう

今日はプリントなどない

最近、大澤真幸さんと北田暁大さんの対談本『歴史の〈はじまり〉』を読んだ
非常に奇遇、面白い
歴史認識問題が第3章で問題になっている
今まで授業で喋っていた事とすごく似ている話をしている

歴史というのは相対的
歴史構築主義という立場
もともと左派
ナショナリズムは幻想なんだ
そういう立場を利用して、良いヒストリーを作ろう、というのが90年代の日本
ストーリーなんだったら右翼の輝かしい物語で良いじゃないか
それに対して更に左翼が批判しなければならない状態
昔みたいな歴史構築主義ではダメだ

全ては物語だ、という立場
いやいやいや、という立場
この対立
2000年代の頭くらいにあった

『靖国問題』で有名な高橋哲哉さん
『歴史/修正主義』という本の中で野家さんや上野さんを批判

まさにそれを受けた話がある
結構面白い
僕と北田さんが似たようなことを言っているなあと思った
2005年に行われた
僕の喋ったことと完全に連続している
気が向いたら読んでみてください

『歴史/修正主義』の中で、野家氏を批判、
同時に新しい歴史教科書をつくる会を批判
新しい歴史教科書は野家さんの論理だと同じだ、と高橋哲哉氏が言ったので、
開かれたシンポジウムというのに大澤真幸が出席したら本当に似ていたとか

何を紹介しようと思ったか
僕は「全ては物語だ」の立場を取る
北田さんは「いやいやいや」の方をとる
ある実在性、具体性があるんだと加工して議論を立てなければならない
大澤さんはどちらかと言うと「全ては物語だ」の立場

北田さんは高橋哲哉氏と一緒かというとそうでもない
そこは面白いところ
僕と北田さんが似ているところ

この対談の中では、高橋哲哉氏はやっぱり素朴すぎるという話になる
無限の責任の可能性、到達不可能な真理ということをいう
どこにあるのか
大澤さんは、高橋さんのいうことを実現しようと思ったら、
歴史の最終審判のようなものがあって、
絶対的な真実がそこで明らかになるということを想定している
そうでないとそういうことを言えない

北田さんは基本的には「いやいやいや」の側に立つ
現実はあるでしょ
では現実は何か

北田さんは僕と喋ると、彼は結構反米
そこには原爆の問題がある
大江健三郎ヒロシマ・ノート』をいつかちゃんと読み直してみたいとよく言う
どうしてか
彼の中でどうつながっているのか

日本は原爆を落とされた
とてつもない暴力
ちゃんとアメリカに怒らなければいけない
怒っていないからこそ、中国や韓国から責められたときに、
俺らも我慢してるんだからと逆切れみたいなことをやる
もっと素朴にアメリカに対して怒りを抱いているべき
それがない

彼はこういうエピソードを言う

P212
 私的な話をするとします。
 母方の実家が佐賀のほうにあって、親族が何人か長崎の方に住んでいるんですが、
 そのうちの一人がバリバリ日教組の小学校教師で、
 小さい頃からずっと原爆の話を聞かされてきました。
 被害者の方とも交流する機会もありました。
 高校生のときはバカみたいに親米保守を掲げていたんですが、
 それでもやはり長崎へ行くとアメリカへの憎悪が沸き起こってくるんです。
 今でも同じで、長崎の街に行くとどうしても愚直なまでに怒りを覚えてしまいます。
 そんな程度で原爆を語るなと言われそうですが、この素朴な怒りを、
 自分にナガサキを教えてくれた人達があまり受け取ってくれなかった、
 というのが私にとって長い間疑問だったんですが、
 なんでアメリカは謝罪せんのだ、などと言っても、
 日本も悪いことをしたとか、何より平和が大切とか先生達は言う。
 幼い僕にとっては、日中戦争での日本の侵略行為を反省することと、
 原爆投下の責任をアメリカに問わないということとが、
 どういう論理関係を持つのかがわからなかった。
 法外な主体への共感を求める人が、
 なぜか法外な犯罪行為への怒りを抑制しているように見える。
 実に素朴ではありますが、日本人はかくもアメリカに対して怒れないのか、
 というのが疑問でならないのです。
# 手許に本が無いので不正確な引用

重要なことが言われている
長崎は悲惨だと直に感じた
ところが言説化されたとき、カタカナのナガサキになったとき、
いろんな言説の配置の中で、
でも日本も悪いことをしたんだから、何よりも平和が大切、
とかたちことで解消されている

長崎の意味付け
原爆が落ちたことに対していろんな意味付けが可能
だからアメリカ許せん、
だから日本人は怒る資格が無い
色んな意味付けが可能

それとは別に、言説として与えられるナガサキとは別に、
すごく素朴な怒りがある
それは現実に解消されない
ここがずっと引っかかっている

北田さんとしては珍しい
彼のある種の政治的な本質を示しているところ
僕はこの北田さんは正しいと思う

歴史構築主義はもうここらへんでやめるけど、
ブログにアウシュヴィッツに行ったことと南京に行ったことを書いた
あれは真実
僕は記憶がごっちゃになる男なので全てが妄想かもしれないけど
そうでなければ誠実に記憶に基づいて喋っている
そういう経験というのは、何かがある
だからどうだ、というわけではない
実際に足を運んでみたら意外とすごかった、
意外とすごくなかった、がっかり感
5年後に行った人はぜんぜん違うかもしれない
そういう経験が足場として無いと全てが言語ゲームになってしまう

高橋さんが言うようなほど、絶対的な、大きな決定的なトラウマでなくてもいい
北田さんが言っていることも、
家族がみんな死んでてみたいな、決定的な長崎の傷があるわけではない
ある意味ではそんな大した話ではない
彼自身が、そこですごく素朴なことを感じているのに、
それが今の世界の言説の政治的な配置に組み入れられようとすると変な感じ

何でこんな変な感じになっているんだろう、というのが、
自分の政治的な立場、彼のリベラリズムの元になる
そういうことを告白している

高橋さんは従軍慰安婦問題にも南京大虐殺にも直接的な関わりは持っていない
生まれてないから
その彼が、真理はどこかにある、それに基づいて歴史が図れるべき、
だから物語だと言ってはいけない、という時と、
北田さんが、僕にはこういう感覚がある、というときの歴史の外側とは違う
ローティで言うと、共感
こういう具体的な事実性にもとづく、小さくひろがっている共感が大事だという

前者
僕の言葉でいうと否定神学的
絶対に到達できないんだけど真実があるというかたちで外部を想定する

後者
ちょっと話は変わるんだけどそういう経験がある
それまでの話とどうつながるか分からないという時の歴史の外部

その差に、完全に相対主義に陥らない何かのヒントがある

ローティの話をすると、
この授業の本来の「ポストモダンと情報社会」というタイトルに近くなる

ローティはアメリカの哲学者
面白い人
色々なことを言っている
日本で有名な主張はリベラルアイロニスト
公的と私的を区別する

例えば、哲学というのはもう私的なもの
ハイデガーの存在論
存在とは何か、実存とは何かという問題
私的なこと
それはそれでいい
別に公的なものがある
それは切り離す
この態度をアイロニーと言った
皮肉

ある種、自分の信念と、社会がどうあるべきか切り離す
それこそがリベラリズム自由主義
自由主義の本質はアイロニー
自分が信じること、社会が信じるべきことを、切り離しながら同時に信じている
だからアイロニー
マルクスは絶対に正しい、だけどマルクスをみんなが信じるべきだとは信じない
すごく難しい
自由主義はそういうことを要求する

ネットはまさにこういう状態
お前が何を考えるのは勝手だけど俺に押し付けるなという倫理
``Republic.com''
『インターネットは民主主義の敵か』
キャス・サンスティーンという人の本
Googleみたいな検索エンジンは民主主義を根本から切り崩す
人は見たいものしか見ないから
本質的
インターネットの問題と言うよりも、リベラリズムの問題
インターネットはすごいリベラルな世界

民主主義という言葉、デモクラシー
人民が決める政治
自由主義と民主主義は普通くっ付いているような気がするけど、
自由主義は本質的に非政治
民主主義は政治体のひとつの形
みんなで何かを決める
ネットはみんなで何かを決めるところではない
みんなが勝手にやる
相互に不干渉
反民主主義的
インターネットはそう言われていた

お前が何か信じるのは勝手だけど俺の言うことに口だすな
ホッブズの「万人の万人に対する闘争」
自然状態
どういうことか
お互いがお互いの暴力を監視し合っている状態
今の発達したリベラリズムは、
お互いの思想に対して自分の中に押し留めておけ、越境してくるな
カルトを信じるのはいいけど俺に越境してくるな
お互いに相互監視しているのが今の我々の世界

テロリスト、カルトは良くないという
でも信じることが良くないとは思っていない
イスラム教が良くないと思っていない
彼らは暴力で人に押し付けるから良くない

オウム真理教
大物の幹部
早川紀代秀
ルソー論を書いた
麻原とルソーの『社会契約論』がいかに同じか
表があって、似ているところが書いてある
あれはすごかった
その表だけいつか配る
ルソーを読んでいるところは良いことも言っている
麻原の部分と何の接合性も無い
ところでオウムでは、という話が突然始まる

如何に電波な事を信じていても、
電波が悪いのではなく、暴力によって押し付けるから悪い

さっきここで写真を撮られた
あれは何か
永山薫さんと昼間たかしさんの2人
児童ポルノ法
ブラジルで国際会議があった
漫画とかアニメとかもざくざく含めよう
やばいんじゃね
どうすればいいか、ということでインタヴューを受けていた

ブログにも書いたけど
児童ポルノを禁じる場合、どう禁じるか議論があるが、
原理として、欲望を禁じてはいけないというのは貫くべき
いかに忌まわしいものであろうが、欲望を抱くことを禁止することはできない
子供に被害が及んだら禁止
僕の娘をいかにやらしい目で見ていても、私的に排除することはできる
しかし法に訴えて排除することはできない
その原理に従えば
漫画とかアニメの児童ポルノは絶対に禁止できない
被害者が居ないから

見た消費者がむらむらときてやっちゃうかも
でもそんなこといったら全てのフィクションがやばいことになる
制作過程において、現実の児童が被害にあっていないのであれば、
欲望がいかに忌まわしくても禁止することはできない
そういう話をさっきしていた
僕に政治心情があるとすればそういうこと

私的なことと公的なことを如何に切り離すか
それが自由主義の倫理

ローティの面白いところ
リベラリズムの理念は何かというと本質的に非政治的
非政治的を別の言葉でいうと、
ヨーロッパのキリスト教のような原理原則が無い
みんな勝手にやれば
シンプルなロジック

共和主義とか民主主義は背景にいろいろな伝統、知の蓄積がある
良き政治とは何か
良き国家とは何か
プラトン以来延々とやっている
リベラリズムはそうではない
=ジョン ミルの研究者が怒るかもしれないけど
基本的なアイディアは単純
単純なものがなんで世界を席巻するのか
ローティはたまたまうまくいったという
自由主義的伝統を持って、たまたまうまくいった世界、アメリカ
アメリカこそが自由主義を体現している
アメリカこそが何の根拠も無くうまくいった
自由主義は何の根拠も無くうまくいくことだ
したがって自由主義はアメリカ
面白いロジック

ローティはアメリカニズム、エスノセントリック?、アメリカ中心主義者
なぜか
アメリカはローティにとってゼロだから
根拠がない
こんな国うまくいくわけが無い、はずが、たまたまうまくいった
これが自由主義の根拠
意外と侮れない思想
普通は評判悪い
何も考えていないように見える
何も考えていないのかもしれない
僕もローティに似ているから批判されているのかも
でも何かの本質を突いている

たまたまオープンでうまくいっている、だから俺らは良い
このロジックはガチのテロリストがきたときに結構へなへなになる
それが9.11

9.11のローティの反応は普通のことしか言っていない
なぜか
たまたまうまくいっているアメリカ型自由主義
外側とどう交渉するかは考えないロジック
それを考えると言うことは自由主義の根拠を考える
どうして自由主義が何で良いのかと彼らを説得する
たまたまうまくいくとは違う

何でたまたまうまくいくのか
ばらばらなのにうまくいくのか
ローティは「共感」という
人間は具体的な目の前の苦しんでいる人間がいると意外とほっとけない
深くは無いけどバカにできない効果
そういうが積み重なるとうまくいく
目の前に、なんというか…

ゴホゴホ
咳とかしながら授業するとぐっと哲学者っぽくなる

共感から社会を考える
ルソーもそう

小さい共感のネットワークの広がりでしか社会は構築できない
社会の背後に善き政治、善き国家像みたいな原理を求めてもしょうがない
それがローティの思想にある
その背後にはアイロニー
公的私的をわける
深い哲学は私的信念の話

公的世界は共感のネットワークで支えられる
アメリカはたまたまうまくいった
だからアメリカニズムが一番強い

9.11は色々な問題を引き起こしていて、
思想とかいわれてもなんじゃらほいと思うかもしれない
微妙なところだけど、ローティのいっていることは本質的には正しい

9.11が出てきたことによって、
ローティはすごい凡庸な反応しかしていないけど、
それが真実なんじゃないか
社会と言うのは

「共感」という言葉はここにある
素朴で幼稚で簡単な言葉
しかし
イデオロギーイデオロギーの対立
言葉で応酬しても突き抜けられない
どう突破するか
私的な共感だったりする
プライヴェートな共感

北田さんのエピソード
だから親米なんだ、反米なんだ、というカテゴリーにはうまく収まらない
理解のフレームが2つ対立しているときに、ひゅっと横にショートカットを果たすことがある
そういうものへの信頼なくしては、政治の話はできない

それが今日の雑談というか補足
これでだいたい歴史認識問題は終わり
終わって良いよね

これは聞きたい、って人いる?
ずっと歴史認識問題でいきたくない
次の「思想地図」は特集ヒストリーかw

そういえば「思想地図」出ました
見かけたら買ってみてください
宣伝を強化するために帯もでっかくなった

20歳現役東大生のデビュー論文も入っている
20歳超えた方にはぜひ読んでもらいたい

  • -
ドゥルーズ「管理社会について」に戻る ずいぶんプリントが回ってないような気もするけど、 あると仮定していきます 1990年にドゥルーズが書いた小さいエッセイ ``Post-scriptum sur les societes de controle'' 複数の管理社会についての追伸みたいな フーコーが生前にコンセプトとして出した、discipline 規律訓練 もはや我々の社会は規律訓練の社会ではなく管理社会 管理社会はどういう社会か 簡単に言うと、規律社会というのは、ドゥルーズの考えでは監禁がテーマ 監禁の社会 なぜか 現代はまだ半分くらい規律社会 学校に入る、卒業したら会社に入る、 会社とかに行ってうつ病になったら入院して監禁 犯罪を犯したら刑務所に監禁 常に人間はどこかの環境に囲い込まれている これが規律社会のひとつの特徴 フーコーはこれが中心的な特徴と言っているわけではないが、 ドゥルーズが理解した規律訓練の社会はまず監禁の社会 これはそんな思想的な話を考えなくても良く分かる 卒業した、大学どうしたの? いやちょっと今ひきこもってて… 何故つらいのか 監禁されていないから 何かの組織に所属している それがアイデンティティの中核な構造 僕は基本的にフリーなので、よくお前は何者だと言われる 最近は東工大特認教授とかで乗り切っている 家の更新とか乗り切っている 何故ひきこもりとかフリーターとかネットカフェ難民とかがダメだと思われるか まさに監禁されていないから 監禁されていることを正常だと思う状態が規律社会 どうして規律が人々の体にインストールされるのか 病院や軍隊や学校で 定時に起きて定時に出社 工場でみんながいっせいに同じ行動をする そんな規律を人々に埋め込む それが近代社会の市民形成にとって重要 集団で何かをやる組織に属している それが規律社会における標準的な人間 管理社会は違う 簡単に言うと、個人の社会 管理社会は個人の社会 これだけいわれるとそりゃそうだろって感じ どういうことか P294から5くらいのところでドゥルーズが言おうとしていることは、 規律社会においては会社を移ったら毎回ゼロからスタート 環境がその人の位置を決めている 管理社会はそうではない 個人が移っても、個人が単位 個人の上に情報が蓄積していく 資格型社会 みんな司法書士取ろうぜとかそういう話 規律社会はドゥルーズの考えでは、個人の極と群れがある どういうことか 規律社会においては人間といううものはまず群れ 東工大という群れ そこに一人のの個人が属していると捉えられる 当たり前のこと これはフーコーの2つの権力の違いに結びついている フーコーの考えだと、規律社会の中に規律訓練と生権力がある 規律訓練だけではなくて、生権力も動いている ・規律訓練 個人への権力  近代人として朝は9時に来い、会社ではメールとかするな、そういう権力 ・生権力  群れへの権力 生権力とは何か 19世紀における保健衛生 国民国家ができた、人口増やさないといけない、人口調べる、病院作る ほっといたら人はどんどん死ぬ ばんばん繁殖させて死なないようにする そうしないと国家は滅びる 国力増強 それが生権力 生権力  人間を動物のように管理する権力 規律訓練 人間を人間にする権力 対になって近代社会が成立している ドゥルーズがP296で言っているのは、 規律訓練は署名 signature 生権力は数 nombre 近代社会で人間は、 一方では固有名 一方では数のひとつ 管理社会ではどうなるか 個人と群れの対立が消える 格好良いことにそう言っている これは素晴らしいこと では個人はどうやって特定されるのか この日本語訳では「数ではなく数字」 これではわからない 「数字」ではなく「暗号」と翻訳するべき chiffre 英訳だとcode レッシグとかを思わせる単語 近代社会は人間を特定するために2つのテクノロジーを持っていた ・signature 署名、サイン ・number 国民番号 来るべき管理社会は単にcodeで特定する インターネット、クレジットカードを知っている僕たちからするとすごくリアルな話 人間は名前で特定されると普通思う 日本人はすごく名前で特定されがち アメリカのSNSに入っていると分かるけれど、 色んなSNSには僕は入ってはいて、一応名前を登録はしている 気が向いて、友達探しましょう的にジョナサン・エイベルとか調べてみると、 ジョナサンなんとかエイベルとか、全世界のジョナサン・エイベルが死ぬほどいる ヨーロッパ系の名前はいっぱい同姓同名がいて特定できない ヨーロッパの小説読んでいるだけでも、映画観ているだけでも分かる 名前と数と言ったのはリアルな話 名前が通用するのはコミュニティの中だけ もっとダイレクトに、何百万人に一人とかで処理しようとすると数になってくる その2つで近代は人間を管理できていた 学校ではみんなJohnとか読んでいても、Johnは死ぬほど居る それを特定するにはNumberしかなかった そういう2段構え 今はすべてcodeで一元管理されるようになっている 囲い込みの環境では会社が変わるごとにやり直し ダイレクトに特定されていなかった 何々会社の何々部署の何々さん 移ってしまえばこの山田さんと次の会社の山田さんを特定するものはなにもない 年金も国民番号が違っていて統一されていない しかし統一しようということになっている 組織を貫いて、任意に生物学的特性を特定する それが重要な変化 そうすることによって社会の秩序のありかたが変わる 管理社会においては個人が大切になる chiffre 「数字」とも「暗号」とも訳せる 「数字」で訳すとわからなくなる 英語だとcode こっちの方が痺れる言葉 こういうことをやっているからドゥルーズは人気がある P296はそのレヴェルでいうとすごく明確なことを言っている  規律社会が指令の言葉によって調整されていたのにたいし、  管理社会の数字は合言葉として機能する  (これは同化の見地からみても、抵抗の見地からみても成り立つことだ)。  管理の計数型言語は数字でできており、その数字があらわしているのは  情報へのアクセスか、アクセスへの拒絶である。  いま目の前にあるのは、もはや群れと個人の対ではない。  本来なら分割不可能だったはずの個人(individus)は「分割可能」(dividuels)となり、  群れのほうもサンプルかデータ、あるいはマーケットか「データバンク」に化けてしまう。 規律社会は命令によって動いていた 管理社会はパスワードによって動く 管理社会の基本的なロジックは情報にアクセスするかアクセスへの拒絶で動く その結果新しい秩序を作られる 近代社会において群れと呼ばれていたものは、 サンプルかデータ、マーケット、データバンクに化けてしまう 近代社会では個人を囲い込む組織があったが、 管理社会では個人を集めたものでしかなくなる 近代社会では、皆さんが東工大の学生だったとして、 学生である皆さんと、それを集めた東工大の組織は2つの水準の現実としてある 個人としてのアイデンティティ 群れとしてのアイデンティティ この二重性 近代社会では重要だった ここを如何に結びつけるか 東工大生として如何にふさわしく振舞うか 近代社会では常に重要な問題だった 例えばこれから大々的な教育改革が起きて、 大学は単なるホールのようなものに過ぎなくなった カルチャーセンターになった 文学部はそうなるかも そうなると、共通のアイデンティティはなにもなくなる ばらばらな生徒がたまたま集まっているだけ ばらばらな人間を集めている組織はない 個人の集まりではあるが、サンプルかデータ、マーケットかデータバンクでしかない ある傾向を示しているだけ 東工大というアイデンティティはない その方がうまく機能する社会 そうなるだろうとドゥルーズは言っている これが一番面白いところ このエッセイは非常に短く結構面白いぜひ読んでほしい 規律社会から管理社会への大きな大きな社会のチェンジ それに対応したテクノロジーのチェンジ P299 僕がよく引用するところ  III. プログラム   SFの助けを借りなくても、各保護区内の動物や  (エレクトロニクスの首輪をつけられた)企業内の人間など、  開かれた環境における成員の位置を各瞬間ごとに知らせる管理機構を思い描くことができる。  フェリックス・ガタリが空想していたのは、  決められた障壁を解除する(分割可能な)エレクトロニクスのカードによって、  各人が自分のマンションを離れ、  自分の住んでいる街区を離れることができるような町である。  しかし決まった日や決まった時間帯には、同じカードが拒絶されることもあるというのだ。  ここで重要なのは障壁ではなく、適法の者だろうと不法の者だろうと、  とくかく各個人の位置を割りだし、普遍的な転調を行うコンピュータなのである。 これは今の僕たちの社会を正確に予見している 予見と言うかそのまんま 監禁の環境はこれまではセキュリティのシステムでもあった 刑務所の中に監禁しておくと言うのが、罪を償うことだった そして市民に更生させることだった 今はそんなシステムを信じなくなった 特に性犯罪者 GPSチップを埋め込み、位置を割り出し、入れない場所を作る ドゥルーズが言っていることそのまんま このテクノロジーの変化の背景にあるのは何か 監禁を信じなくなった 抽象度の高い変化だからエヴィデンスはないのかもしれない このギャグもやめよう 監禁することの重要性、 人の能力を伸ばす、人をうまく使う、更生させる、反省させる 信じなくなった 全てをオープンにした環境のなかで、一人一人の場所を特定し、 ある局面においては排除、各局面において細かく調整 それが社会秩序の原理だと考え始めた それが管理社会 セキュリティの技術はその変化から必然的に要請されるものに過ぎない 社会の変化と技術の変化はお互い支えあって変化する 社会が創造できないものは技術も提供できない インターネットが出来たせいで僕たちの社会はこうなった? インターネットみたいな社会を僕たちの社会は望んでいた 近代の自由主義とか個人主義という理念がインターネットのようなものを求めていた みんながら勝手に好きなことを言って不干渉な世界 話が合う奴とだけ話して面倒な事は考えない世界 求められていたものが実現した 今のセキュリティの世界 規律社会から管理社会への大きな社会変動のうえで見ていくとまた違った視点で見える P299から300にかけて、色々なことが書いてある  監獄の体制においては、すくなくとも軽犯罪について、  「代用」による刑が模索され、決められた時間帯に自宅にこもるよう受刑者を強制する  エレクトロニクスの首輪の使用も考えられる。 監獄の体制という点から見ると時代変化はこう見えるということ まさにそうなる もっとオープンになろうとしている アメリカでは犯罪者の氏名を入れるとそいつがどんな犯罪をどこで犯したかネットで出る さまざまな抵抗感を持ちつつ日本にも入ってくるだろう 罪を償うことの考え方が変わっていく こういう個人の情報が蓄積されていく社会は、逆に言えば個人の情報が消えない社会 昔だったら、別の学校に行けばいじめられなくなる しかし今だと転校してもネットがついてくる 個人が特定され続ける 個人とネットの記憶が結び続ける 犯罪を償って刑務所から出てくるという発想がない 環境が変わってゼロからスタート まさに出所してくるときはそう だからこいつはもう普通に犯罪暦も無かったことして扱う 管理社会では通用しない 全ての情報が蓄積されオープン 犯罪暦はそんな感じになるのではないか そんな社会になっていいんですかという問いが起こる 良いか悪いか 答えるのは難しい 誰かが決めることではない 日本このままだと地震来る、良いんですか? 答えは備えるしかない これくらい大きい問題 規律社会から管理社会へ、というと語感の問題で、 規律社会は人間がしっかり生きていた社会 管理社会は人を動物のように管理して、人権が尊重されない社会 そう聞こえる でもそんなことはない おそらく規律社会は人類史上最悪の社会体制 人を殺すという意味では ナチスとか 規律訓練型の権力の体制はすごく巨大な問題を引き起こしている それは考えなければいけない 近代は人間が生き生きしていしっかりしていたから戻るべきだ、とは思わない 規律訓練社会が人々の人権を奪ってきたように、管理社会も奪う 新しい被害、害悪に敏感になっていくしかない 管理社会がくるんだ、という大雑把な括りで抵抗してもダメ 悪いことは今までもあった これからも起きる ただ権力の作動の仕方が変わっている ドゥルーズはP295の最後の方で面白いことを言っている カフカの解釈について 規律社会 見せかけの放免 管理社会 果てしない引き伸ばし ある意味で直感的に分かることなんじゃないかと思う 規律社会は卒業がある 就職、卒業、昇進 組織を移ることがある ゼロからスタート 何も終わらないのかもしれないけど、そういうものが積み上がって人生が進む それが規律社会の人生 見せ掛けの放免 ここで子育ては終わり、娘も結婚してよかった ところが管理社会は果てしない引き伸ばし 若年層のワーキングプアのうつ どこまでいったらこの仕事は終わるのか 次のステップがわからない ずっと同じことが蓄積されている まさに管理社会が引き起こしている ずっと個人情報が蓄積されている 小学校の頃からブログやってますという奴がいたとしよう 将来どうする気だだろう ふつうに心配 15年経っても余裕で検索可能 とんでもないこと 15年前の主張に責任を取らないといけない まだ25歳なのに お前15年くらい前にはバリバリの右翼じゃん 一貫性とかないよね 炎上 そういうことが起こりかねない 恥ずかしい過去ハケーン すごい勢いでやられて終わったみたいな まさに管理社会の生き方を象徴している カフカはこの2つを両方とも小説で表現している この2つが統合されている一番有名なのが『城』 見せ掛けの放免が続いて果てしなく続くとか、 刑の執行が果てしなく引き伸ばされるとか、 お前は何者だと言う答えがいつまでも与えられないのがカフカの小説の特徴 今の社会のあり方を予見していると思う  学校の体制では、さまざまな平常点の形態と、生涯教育の学校への影響が表面化し、  これと見合うかたちで大学では研究が放棄され、  あらゆる就学段階に「企業」が入り込んでくる。 まあそのとおり 学校って言う監禁状態がなくなっていくってこと 今までは学校が終わったら学校のことは考えなくて良かった 学校が終わっても今までと同じように勉強して資格を取り続けないといけない 企業人として如何に使えるかのプログラムも先取りして入っている 時間的に区切られた監禁の境界が融解し、さまざまなものが入ってくる  病院の体制では、「医者も患者もいない」新手の医学が、  潜在的な患者や危険分子をあぶりだす。 フランス語だと薬も病気も無いみたいな言い方 予防医学の話 メタボ対策とかの話 メタボと僕が行っても何の説得力もないけど、 病気でもなんでもない きっとそう しかし言い難い 痩せてないと言えないこともあるんだな こういう状態だと、ウエスト85以上だと、病気になる可能性が高くなる そういうもの まさに患者は居ない医学 ああいうものはすごく大きくなっている 病気になる前に、病気になる可能性のあるライフスタイルを炙り出し打っていく 病院の境界の外側に医学が出て行っている どうしてこうなんというか、色々なことで時間をとられて落ち着かないか 管理社会のせい 昔は会社に居たら会社のことだけ考える 入院したら病気、刑務所では犯罪のことだけ考える 見せ掛けの放免だったかもしれないけどそれはあった 今の社会は常に全部考えなければいけない 仮に僕が会社で7年間くらい仕事 どんどん太る 同僚がうるさい 関係を良くするために痩せなきゃいけない 仕事しているんだからいいじゃないか キレがちになる よくわからない例になってしまった 会社の中にいても健康のこと、資格のことを考えなければいけない 見せ掛けの放免が無いまま 環境を移動することによって切り替えられていたチャンネルがなくなり常にオープン デスクトップの環境を考えるとよくわかる 目の前にOfficeのウィンドウ 一方にはチャットのウィンドウ 本当だったら仕事の最中に遊びの友達から常に電話かかり続けてくるなんてありえない そういう社会を実現してしまった キャンプに行っても仕事の電話 最近無線LANのあるキャンプ場がお父さんに人気らしい マジで勘弁してくれ ブログの更新もばっちり お前らキャンプすんのやめとけよとマジで思う これはきつい ノーパソ持ち込んで仕事をやりながら、 炭の火が起こるのを待つ間に仕事のメール 写真取ったら即座に更新 絶対やりたくない生活 そういうことを煽っている 監禁の環境がなくなった 環境によって切り替えることが無い もう一つ面白い話 ドゥルーズは最後に労働組合は管理社会において意味が無いと断言している 英語でシンジケート、労働組合 フランス語だとLe Syndicat サンディカリズムのSyndicat 組合運動というのがダメになる なぜか P300  労働組合は、その歴史全体をつうじて、規律にあらがう闘争に、  あるいは監禁環境内部での闘争に結びつくものだった。 ある企業、ある範囲、ひとつの産業団体、その中でしか機能しないものだった  そんな労働組合に、管理社会に抵抗する新たな抵抗の形態に順応したり、  あるいは新たな抵抗を成り立せたりする余力があるだろうか?  マーケティングの楽しみに立ち向かう能力をもった、来るべき抵抗体系の始まりを、  現時点でもすでにとらえることができるのだろうか? ここから面白い  不思議なことに大勢の若者が「動機づけてもらう」ことを強くもとめている。  もっと研修や生涯教育を受けたいという。  自分たちは何に奉仕させられているのか、  それを発見するつとめを負っているのは、若者たち自身だ。 労働組合というのは今は役に立っていない でもやらなくていいというわけではない 別の闘争が必要なんだけど、今までの労働組合はダメだ 監禁環境の内部で規律訓練に対抗するものだった 果てしない引き伸ばしをさせられる世界では、すごく動機付けられられる 研修したい、生涯学習をしたいと若者たち自身がいっている 今までだったら仕事してる奴は5時になったら帰りたい、休日は仕事の連絡来るな 新しい管理社会では、労働者自身が、休日でもがんがん連絡をしてくれという 喜んで残業、オンとオフの境界がなくなる 休み時間ぜんぶ突っ込んで能力を伸ばすために英語の研修 どうやって闘争できるのか わずか6ページの日本語の文章をゆっくり読んできた 味わいがあるので冬休みにでも読んでみるといい シュミットの『政治的なものの概念』と、 ドゥルーズの「管理社会について」はすぐに読める 年内の授業はこれで終わり 今日は恒例の忘年会

自分は忘年会のニセ幹事みたいな存在だったので、何人かの知らない学生に忘年会参加して良いかと聞かれたので、もちろんおk、ここら辺で待ってて、と言った筈なのですが、彼らの姿をその後見ることがありませんでした。つまり忘年会の参加者は、一人の知らない女性を除いてはみんな知っている方でした。ホント彼らはどこへ行ってしまったのでしょうか。自分の過失で彼らが忘年会に参加できなかったのであれば、本当に申し訳ないことです。

今回の忘年会では建築とかやっている方には全ての面においてホントお世話になりました。自分のやったことは暫定的に人数を確定させたことです。それしかやってない…。こんなことでは会社に入ってからが思いやられます。