広告技術に見る「ストック」と「フロー」

昨年のJAAAの論文に出して余裕で落ちたもの。

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 科学技術の進展は、人類の直面する物理的障壁を次々と縮減していった。特にコミュニケーションの領域では、21世紀に入ってからのインターネットの普及によって、それが顕著になった。誰でも、多くの、遠くにいる人に情報を発信できる。あるいはそれを受け取れる。膨大な情報を自動的に保存できる。そこから欲しい情報を見つけることができる。
 こうした科学技術の勝利は、コミュニケーションのひとつである広告にも大きな影響を与えている。人々を十把一絡げに扱うしかなかった時代は終わった。個々人それぞれに対して、最適な広告を与えられるようになりつつある。ただし、最適な広告を与えると一言で表しても、「ストック」と「フロー」というふたつの潮流に整理して考えることができるのではないだろうか。

 ひとつ目の「ストック」は、「行動ターゲティング広告」に代表される。人間の行動情報を保存し、そこからその人間の特性を見出し、特性にふさわしい広告を見せるというタイプのものだ。一般的な「行動ターゲティング広告」は、ブラウザのクッキーという機能を用いて、閲覧情報を記録する。これはブラウザが代われば消えてしまう儚いものである。
 しかし同様に、行動情報を用いて適した広告を見せることを、更に長期的なスパンで行っているものもある。通販サイトのAmazonは、ユーザーのこれまで購入したものの情報から、そのユーザーが興味を持っているであろう商品を推薦する。このような、行動情報などからコンピューターが自動的に商材を抽出し、ユーザーに推薦する取り組みを、一般に「レコメンデーション」という。この技術が求人サイトから銀行まで幅広く用いられていることからもわかるように、もはや事態はブラウザだけで完結していない。人生レベルの行動情報が蓄積されているのだ。「行動ターゲティング広告」に対しては、プライバシーの侵害に当たるのではないかという懸念の声もあるが、人間の行動情報がますます捕捉され蓄積される傾向であることは間違いないだろう。

 ところで、こうした人間の過去から未来の人間を推測する取り組みは、人格の一貫性を前提としている。しかし現代は、人間の一貫性への疑問が前景化している時代でもある。これは、人間の行動は昔よりも予測しにくくなっているということではないだろうか。そのような中、「行動ターゲティング広告」のような取り組みが脚光を浴びていることは、どこか釈然としない。何かを見落としているのではないだろうか。

 「精神医療は時代を映す鏡である」(*1)と言われているように、人格とその捉え方は時代によって変化している。20世紀は、自己の行動を統合的にコントロールできる、という命題が疑われ始めた時代だった。これを、精神医療の側面からは、70年代以降のアメリカ、90年代以降の日本における多重人格の流行に観ることができる。多重人格とまでは至らなくても、コミュニティによってキャラクターを使い分けるというメンタリティは、日本において一般的になっている。こうした人格の乖離的な状況は、フランス現代思想を出自とした哲学者や評論家が頻繁に述べている。批判はあるが、現代社会の捉え方として一定の支持を得ている。
 そのような論者の一人である浅田彰は、1984年に出版した『逃走論』(*2)において、「パラノ」と「スキゾ」という人間の二種類の生き方を提示した。「パラノ」(語源はparanoia、偏執病の意味)は過去からの資産を積み上げ増殖させる生き方。端的には、家を建て安住する生き方だ。一方で、「スキゾ」(語源はschizophrenia、統合失調症、かつての精神分裂病の意味)は常にゼロからのスタートを繰り返し、従来の価値観から逃げ続ける生き方だ。文章中では、「つねに《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭けるギャンブラーなんかが、その典型だ」「いまはたまたまこんなことをやってるけど、あしたは別なことをやってるかもしれないってのが、スキゾ人間なんだよね」と説明されている。
 浅田は「パラノ」から「スキゾ」への転換を唱えた。現在では忘れ去られている概念ではあるものの、1984年の流行語に選ばれるなど人々の心を捕えたことは確かだし、事実、社会の流動性は上がり続け、人々の一生は予測できなくなった。もはや農民が一生農民でいるとは限らない。大企業も簡単に倒産してしまう。
 実は、浅田彰の言う「パラノ」と「スキゾ」は、前述した「ストック」と「フロー」にそれぞれ対応している。過去を参照しつつ生きる「パラノ」は、過去を参照し広告を見せる「ストック」広告の様式と同型の構造を持っている。「パラノ人間」には、「ストック」広告が効果的であることが自然に推察されるだろう。
 それでは、過去を参照せず、常にゼロからのスタートである「スキゾ」な生き方に対応している「フロー」広告とは、一体どのようなものだろうか。

 乖離的な人間の気分は移ろいやすい。そもそも人間にはさまざまな局面がある。管理社会の中で動物的に振舞っている瞬間もあれば、人間らしく弁証法を駆使している瞬間もある。普段インターネットで買い物をしている人間も、たまには対面でものを売りつけられたい時があるだろう。人間は常に同じだと思ってはいけない。「ストック」広告から零れ落ちてしまうこうした状況に立ち向かっていく広告技術が、「フロー」広告なのだ。
 「フロー」広告は、人間の興味が変化しないうちに、商品の購入へと導くなどの行動を喚起する。あるいは、人間側が、広告を見たり聞いたり商品を購入するなどの準備ができている瞬間に、広告を配信する。何も特殊なものではなくて、既に無数に存在する。例えば、インターネットのバナー広告をクリックしたら直ちに商品の購入フォームが出現するものだ。または、テレビドラマに出現した服を、その瞬間に購入できるようにする取り組み。その商品を気になった瞬間であるので、購入する可能性は高い。更なる情報収集や検討の余地を与えず、その場でアクションを起こさせるのだ。
 別の例として、「検索連動型広告」が挙げられる。これは、人間が何かを調べたいと思って検索エンジンを使用したその時に、調べたいものに関係する広告を出すものだ。こうした人間の欲求を、もっと広く遍く知り得るようになった未来を夢想してみる。高感度のセンサーが人間の欲しているものを読み取り、それに相応しい広告が配信される。過去のデータは必要ない。その時の人間の全てを認識できれば良いのだ。前述した浅田の文章にあるように、人間が「《今》の状況を鋭敏に探りながら一瞬一瞬にすべてを賭ける」のであれば、広告側も同じことをやらなければならない。

 「行動ターゲティング広告」や「レコメンデーション」は人間の嗜好を細分化して配信する。しかしそれだけでは乖離的な人間に対応できない。嗜好だけではなく、人間のそれぞれの局面に最適な情報を与える。またそのための仕組みを構築する。これからの人類が「スキゾ人間」になるのか「パラノ人間」になるのか、あるいは中庸な道を歩むのかわからないが、少なくとも今の人類に対しては、「ストック」広告と「フロー」広告のどちらの視点も欠かすことはできない。そして更にそれらを組み合わせていくことも必要だろう。「フロー」は「ストック」の変化量である。決算書に貸借対照表と損益計算書があり、それらが連動しているように、「ストック」広告と「フロー」広告を連動させていくこともまた必要ではないだろうか。

*1 芹沢一也 編著(2007)『時代がつくる「狂気」 精神医療と社会』朝日選書 の帯による。
*2 浅田彰(1984)『逃走論―スギゾ・キッズの冒険』筑摩書房