東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第13回(1/23)

今年度最後の講義録です。来年からは自分もまとも社会人になるので、講義録をうpし続ける環境とモチヴェーションはないかもしれません。従って、はてなアンテナRSSリーダの登録は外され、多くの人がこのブログの読者ではなくなるでしょう。でも頑張って生きる。

12分遅れ
どうもこんにちは

レポート提出の概要、
シンポジウムのチラシ、
今日使うプリント、
授業調査のアンケート用紙
をここに置く
アンケート用紙は、あまりにも人数が少ないと僕は授業やってるのか?ということになるので、
授業取ってる人は書いてください
結構厳密
僕が回収してはいけないということになっている
藤田君に回収してもらう

今回の授業一体何をやってきたか
この世界において、
みんなが共通して分かり合う公共性みたいな概念が、
如何に成立が難しいかと言う話を延々とやってきた
それだけでは「ポストモダンと情報社会」というタイトルとしてはアレなので、
今回は「ポストモダンと情報社会」的な話をやる

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前回ノージックを紹介した ユートピアのためのフレームワークが重要 リバタリアニズム最小国家 みんながぎりぎり共有できる価値観、国家観はそれくらい小さいものでしかない ロールズと比べられて、 ロールズ福祉国家ノージックネオリベ的弱肉強食 そう言われている でもノージックはみんなが同意できる国家観に対して非常にシヴィア 最小国家の上に色んな人が価値観を載っけて社会を作る だからユートピアのためのフレームワーク 最小国家ユートピアではない 各自が価値観を足すことによってユートピアになる こういう考え方は僕たちにとって親しみやすい なんとなくインターネットに似ているから TCPとか色んなプロトコルがある その上にHTMLとかある その上にGoogleとかmixiが乗っかっている 何層にもなって作られている 結局みんなが使っているインターネットのぎりぎり技術はまさに最小サーヴィス その上にGUIを載っけて、会員制のサーヴィスのmixiが載っている mixi使いたくない人は外に出ていけば良い ブラウザさえ使いたくない人はそれでも良い HTMLを使わなくてもWebは使うことができる winnyとか 最小サーヴィスの上に自分の好きなWebの価値観を載っけていく それぞれの人が好きなWebを使える インターネットの理念 最小サーヴィスの部分がアーキテクチャ 1月28日に「アーキテクチャと思考の場所」というシンポジウムをやる 今の世の中はアーキテクチャノージックでいえばフレームワーク、 価値観自由的なぎりぎり最低限のインフラだけ 後は好きなようにモジュールを組合する あらゆる場面でこれが優勢 思想とかの場所があんまりなくなる 最小国家はある意味で無思想 どんな思想、価値観を持っていても最小国家には同意しなければいけない そのうえにリベラルな国家、コミュニタリアンな国家を作ればいい 最小国家自体は思想は要らない インターネットもそう 普通には非思想、思想性はないものだと思われている 価値中立的なサーヴィスがまずある そのうえにそれぞれの価値観に沿ったサーヴィス というのが一つの理念 社会を設計しよう 必要なのは脱思想的なアーキテクチャ 思想なんて要らないんじゃないか、という考え方になる ノージックの本『アナーキー・国家・ユートピア』 これは思想の本ではない ノージックだけではない 前回紹介した森村進さんの『自由はどこまで可能か』に、 リバタリアニズムの思想家の名前が何人も挙がっている 例えばマリー・ロスバード『自由の倫理学』 如何に自由と権利というものから思想性を排するか 人間にとって根底的に大事なもの、 身体を暴力にさらされない自由、 ミニマムな誰でも同意する条件 そこから演繹的に導き出されるものとしてこういう社会がある、みたいな発想 こういう価値観が大事だからこういう社会を作ろう、というわけではない まず第一に自己所有権 自分の体は自分のものである その権利から、数学的な公理系のように導き出せるものとして最小国家がくる ノージックの本はさくさくっとした本 思想性がないのであんまり評価されてこなかった そこが大事だとおもう アーキテクチャ 非思想 まさに思想が入り込まない 価値中立的な技術屋だけが入り込めるもの そういうものとしてイメージ いやいやアーキテクチャこそが政治の場、思想なんだと言ったのは ローレンス・レッシグの『CODE』1999=2001(原著=翻訳)レッシグが本を書いたころ マイクロソフト独占禁止法裁判 MP3のNapstarとかが出てきてデータの共有 そういうことが話題になっていた アメリカの著作権協会は最初は強行な態度をとっていた ちょっとしたデータのダウンロードでも莫大な額を請求してハッカーを潰していた それはまずいだろうということで、 ハッカーたちが自助団体を作ったり、色々な力学があった 『CODE』の内容を紹介していくときりがないので、有名なところだけ         市場         ↓ アーキテクチャ→○←法         ↑         規範 ある物事がある その物事を規制するには4つの力学が働く 市場、法、社会の規範、アーキテクチャ 喫煙の問題 タバコを吸いたい時どういう制約に直面するだろうか 吸うか吸わないか意志決定を規制する要因にはどのようなものがあるか 法的なもの  何歳以下は煙草吸うな 一番強い規制は現実には規範  ここの場所で吸うとみんなから白い目で見られるから吸えない 市場も大きい  ヨーロッパだとタバコの値段がすごく高いから吸いたくても吸えない アーキテクチャ  例えばフィルター付きのタバコが一般的だから、  フィルターがない状態で吸おうと思っても吸えない  商品の形そのものを変える 何かを規制しようとする時、4つの方向がある インターネットを考える レッシグが『CODE』を書く背景 インターネットは自由な空間だと思われていた そこらへんの経緯に興味のある人は スティーヴン・レヴィ『ハッカーズ』 ブルース・スターリングハッカーを追え』http://hw001.gate01.com/katokt/HackerCrackdown.htm この2つの本をお勧めする 『ハッカーズ』の出た1984年 『ウォー・ゲーム』という映画が1983年 若い子供たちが国防総省に入り込んで世界戦争をゲームとしてやってしまう コンピュータに耽溺していて裏側の事を良く知ってて電話線とかいろいろやる連中がいるぞ ハッカーが世界的に認知されてきた 初めてアップルのCMが流れた時代でもあった 早くもレヴィは非常にいいドキュメンタリーを書いた 本当に良い 1984年の段階でハッカーには3世代あると言った ・MITとかのメインフレームの第1世代のハッカーカリフォルニアでガレージでコンピュータを組み上げていた第2世代のハッカービデオゲームから入ってきた第3世代のゲームハッカー それぞれ考え方も違う コンピュータに密かに興味があるなら必読書 『ハッカーを追え』はもうちょっと新しくて1992年 スターリングはジャーナリストというか作家 1980年代にサイバーパンクという言葉があった 攻殻機動隊みたいな世界 電脳、ネットの海、自我が溶け合う、変なやくざ、生きてるのか死んでるのか 押井守攻殻機動隊のアイディアはほとんど全部ギブスンにある 1984年に『ニューロマンサー』という小説を書いた 早川で読める 新しい電脳的、ハッカー的価値観を世の中に知らしめた大きな文学運動のはしり ギブスンとちょうどペアみたいな感じで、 サイバーパンク宣言とかやって、 場を盛り上げていたのがスターリング 作家兼批評家 現実の社会のハッカーを描いたのが『ハッカーを追え』 80年代の後半になると、AT&Tの長距離電話をただで繋ぐとか、 AT&Tのサーバに入って社外秘のマニュアルをダウンロードするなどの事例が現実に出てくる それに対して容赦ない裁判を起こす 書類一枚を盗まれたことによる損失が何百万ドル 中学生の家の家庭を崩壊しかねない裁判 おいおいそれはおかしいとスターリング そういうドキュメント 非常に面白い 最後の方で立ち上がるのがEFF電子フロンティア財団)が立ち上がる だからこそこの本が書かれた インターネットの自由を守るということではアメリカで一番重要な非政府系の民間組織 80年代後半から90年代にかけて ハッカー対旧体制という構図がこのときに出来る ビル・クリントン政権はインターネットを政府の管理下に置こうと考えた 情報ハイウェイ構想 政府主導でインターネットを整備しよう クリッパーチップ構想 全てのコンピュータにあるチップを入れて、 政府だけが全てのコンピュータの暗号を解けるようにする とかいろいろあった 90年代は政府がインターネットに対する規制を強めていった 逆に96年ぐらいになると、 John P. Barlow『サイバースペース独立宣言』 http://clinamen.ff.tku.ac.jp/CENSORSHIP/MISC/Decl_Independence.html アメリカ独立宣言のパロディ タイトルで全てがわかる サイバースペースは新世界 政府は口を出すな 重要な文章 ハッカーは自由 政府は規制 みたいな対立がだんだん固まってくる ハッカーは技術であり、政府は法、規範 ハッカーは工学と数学でやるよ そういう思想 この時期はクリプトアナーキスト、暗号無政府主義みたいな人が出てきて 暗号破られるのはそいつが悪いんだ的な考え方 弱肉強食 ホッブズ的な世界 ハッキングされたくなければ防衛しておくべき ハッキングされるやつが悪い 今でも古くからハッカーやってるやつには残っている サイトに脆弱性を発見をしたときにちょっとしたクラックを仕掛けて脆弱性教える id:Hamachiya2とかがはてなでやっている 昔からのハッカー気質 クラックはクラックされる方が悪い むしろクラックして教えるのが義務 インターネットの世界も弱肉強食でいいじゃん そういう極端な発想も出てきた といったところに『CODE』 そういう状況を背景にしてみると、そういう状況への批判 旧来のハッカー的発想だと、法とか規範は古い連中がやってます 俺たち新しい連中は市場と技術でいきますよ 市場と技術だけでインターネットは制御できるのではないか 法や規範なんて入ってくることはないだろう それに対してレッシグが『CODE』で言ったのは、それは違う、 アーキテクチャも誰かが設計しているんだ 最近の論壇でいうと宮台真司大塚英志っぽい アーキテクチャはエリートが設計している アーキテクチャは理念は憲法とかで保たれる アーキテクチャは自然にできるものではない どういうシステムを実装するかということは法律によって決めることは、 当たり前だけど可能 日本だとコピーワンスとか、ダビング10とか 法律というか、人間の間の申し渡しによって決まっていて、 それが技術的に実装されている デジタルミレニアム著作権法ができた DVDがある ある程度暗号化されている DVDを普通にリッピングしてMPEGにするというのは本当は違法 なぜか DVDの暗号化を解読するソフトを作ってはいけないという法律がある もっと抽象的に書いてあるけど そういう法律を作ることによってハッカーたちの自由はなくなる もし暗号を破られたくなければ強いソフトを作ればいい 破られたら仕方ないという考え方 しかし現実にはそういうようなソフトウェアを作ることを禁止する、 暗号を解読することを禁止するという事態 1999年から未来を見たときに、どんな世界もインターネットで設計できる すべてのMP3ファイルがダウンロードされたら著作者に情報が行く世界を実装することも可能 いままでのようにどんどんMP3がコピーできる世界も可能 どちらにいくかは技術で解決するのではない 法によって決められる ハッカー達もアーキテクチャで何とかなると思わないで、ちゃんと法律家に働きかけろ 法律の側もアーキテクチャも知らなければいけない CODEには2つの意味 ・プログラムのコード ・憲法 ダブルミーニング いずれにしてもコード 古いコードと新しいコード 法律的なコード、工学的なコード この2つによって規制されている 工学的なコードばかり考えていてもしょうがない 法律的なコードも考えなければいけない レッシグの主要なメッセージ 面白い、事例とかも示唆に富む、影響力も大きかった コンピュータと倫理に関心があれば是非読んで欲しい ここでレッシグの本が出てきたのはどういうことか かくも世の中というはアーキテクチャ支配型の世の中になっている アーキテクチャでなんでも解決できるという思想 コンピュータの誕生から世の中はそうなってきた そういうものに危険を覚えレッシグはこういう本を書いた コンピュータの歴史、思想と倫理はすごく面白い話 東工大みたいなところではちゃんと誰か専門家呼んでやればいい みっちりと アーキテクチャの設計によって人がどういうふうに動いていくかみたいな話 2000年代くらいから主流になってくる アーキテクチャ論みたいなもの 人文系の世界では監視社会論、管理社会論として言われていた 思想とかとは関係なく人がいつの間にか機械とかにコントロールされている そういうことは良くない 人間はもっと自覚的に生きなければならないのでまずい 人文系の議論ではよくある そういう監視社会論みたいなことに興味がある人に紹介するのは ライアン『監視社会』 これを見るとポストモダン系の社会学者が監視社会やインターネットをどう捉えているかわかる アーキテクチャは人を管理する、抑圧するという発想が、 2000年代くらいから思想の傾きが変わってくる むしろアーキテクチャが人を生かす、という形に変わってくる アーキテクチャが人間をempowerするという議論 そこから色々な議論が出てくる レッシグの『CODE』 1999年の段階ではインターネットは今よりも単純な形をしていた まだインターネットの中に、様々なサービス、アーキテクチャがあって、 それが人間を変えていくと言う段階には比較的なかった 2000年代にはインターネットを使ったサービスがいっぱいでてきて どう人間に影響してどういう社会を作っていくか そういう議論が活発にされるようになる Web2.0という流行語 この流行語自体には何の意味もない そこで人々が予感したのはインターネットは道具ではなくてインフラそのものになっている どういうふうにインターネットを設計するかで我々の社会は変わっていくという感覚 梅田望夫さんの『ウェブ進化論』2006年 ネットという便利な道具ではない それ自体は社会のインフラ 90年代のネット論から2000年代のネット論 どういうふうに雰囲気が変わってきたか 90年代はハッカー対政府みたいな対立 少数の優れた個人と頭の堅い政府 2000年代にはみんながネットを使うようになる ハッカー対政府、自由な世界対古いリアルワールドという対立はなくなる ネットを使ってどう社会は変わるのかというふうにパラダイムが変わっていく 監視社会論も2000年代になってあんまり話題にならなくなった 政府がネットを使ってみんなを監視している世界 2000年代になるとみんなもネットを使っているので、 政府が一方的に情報技術を使ってみんなを監視という図式が成立しなくなってくる 『ウェブ進化論』は総表現社会ということを言っている みんなが表現者、クリエイティヴになる ニッチな才能しかなかったのにロングテール効果によって暮らしていけるとか明るい未来 ベストセラーになった なるわけがない みんなが表現することは不可能 みんなが表現したいわけではない 自分の趣味を世界中に発信したいなんて思ってない 大抵の人はまったりとネットに吐き出したいというのが関の山 2ちゃんねる 梅田さんが注目したサービスは総表現社会に向かっているかもしれないけど 2ちゃんねるは向かっていない Winny 皆さん使ってないですよね ITmediaかなんかでWinnyで家族が崩壊したとかニュースを読んだ あれはリアル 50代くらいの銀行員 コツコツとまじめに働いていた 週末仕事が残ってしまったので、データを持って帰って家で作業した そしたらデータが流出 どこのバカが流出? 全く身に覚えがない 自宅の家の大学生がお父さんのPCでWinnyでやっていた 普段は自分のPCがあるんだけど、 壊れて修理に出てたので親父のところで早速Winnyインストール 一瞬にしてキンタマウイルスにかかって終わり 会社辞めさせられて年収三分の一 離婚されて息子は大学中退行方知れず 家族離散 怖い 家族でPC共有はやめたほうがいい 最近知り合いでキンタマウイルスかかってたんだけど Winny二つインストールしてたから大丈夫だったという奴に会った やめとけよ 危ないので有料ワクチンソフトは入れた方がいい Winnyはすごい深刻な社会問題 イージス艦の設計図が漏れたりしていろいろやってた 驚くべきことに慣れてしまった 時々交通事故が起こるもの 大変なことになるけどしょうがない でも実際にはとんでもない話 総表現社会とは対極にある ただまったりとアニメでも共有 時々情報流出するけどまあいいか、という世界 インターネット自体がすごい多様化 ノージック最小国家、色んなユートピアが描かれる インターネットのサービスの上に様々なサービスが載っかって全然別のユートピア インターネットをして何をしたいか それぞれの人の価値観がサービスとして表われている ここらへんが2000年代後半から面白くなってきた 思想地図のシンポジウムにも出るので、 濱野智史君『アーキテクチャの生態系』 最近の本ではこれが一番まとまっている アーキテクチャは一枚岩ではない 生態系というところが胆 火山がばーっとならしたとして、色々な植生が育つ 最初の頃には灌木、背の高い木、別の木が生える だんだん植生が変わっていく そういうことがアーキテクチャの世界で起きている 様々なサービスが育ち他のサービスを食いつぶす 他のサービスがそこから生まれる でっかいアーキテクチャの上に載った小さいアーキテクチャ インターネットというアーキテクチャの上に載った、 プチアーキテクチャ同士の攻防を思想的社会学的観点から読み解く 最近出た本でこういうことに関心があってお勧めなのは 佐々木俊尚さんの『インフォコモンズ』 Google系のジャーナリストで有名 池田信夫さんのブログで酷評されていたけど悪くないと思う 濱野君の本は2ちゃんねるとニコニコと何故か『恋空』だけど、 佐々木さんは英米系のサービス FacebookというSNS キーワードとして挙げているのが、暗黙(インプリシット)ウェブ Facebookではライフストリーム広告というのをやっていて(Facebook Social Ad) 一回やって中止した広告 Amazonとかで本を買うとマイミクに通知が行くという驚くべきサービス アメリカの色々なサービスが同時に考えていること 僕が生きていることそのものが広告になる 止めなければ知らない間に色々な人にばら撒かれていく どんどんアフィリエイトが入ってくる これからはこの方向が強くなるのではないか 暗黙ウェブ 自分が知らないでも自分の生活情報がウェブ上にどんどん流れる まずいと言えばまずい 何とかコントロールしていい世界を作れるのではないか 佐々木さんの本で紹介されている trust <-> friendshipの対立 アメリカのIT企業家の言葉 マイミクで友達がいる、友情関係がある だからといって、マイミクの友達の意見を常に信じるかというとそうでもない trustはない Amazonのブックレヴューを参考にする 信頼できるレヴュアーとは別にfriendshipはない でもtrustはある Web2.0においてはtrustおfriendshipは別々のものとして動く これは面白い発想 今までの社会は情報の伝達は人間対人間しかやっていない 友人として知り合っている人間を信頼して情報を得るしかなかった trust = friendship インターネットはそこを切り離せる 人間として親しいマイミクと、 好きな本や好きな音楽を買う時誰を信頼するかは全く別に処理できる これからの新しいネットの一つの軸になるかも あんまりまとまらない話をする 人間と言うのは人間と人間の相互の信頼関係に基づいてやると、 友と敵とか余計な事を考えて終わり うまい具合に共同作業をするには顔を合わさないほうがいいかもしれない Wikipediaとか 昔の百科事典は顔を突き合わせて編纂 元々の起源は百科全書派 パリのサロン文化みたいなものから生まれた wikipediaはサロンの対極 非対人コミュニケーション 今までは非対人コミュニケーションの処理に限界があった インターネットの本質的な意味は非対人コミュニケーションを爆発的に進化させたことにある インターネットのサービスがあれば、知り合いじゃない人からも、 どの本がいいのか、音楽がいいのか、いくらでも集められる 逆に自分がブログを書いているときも、 東浩紀のブログだと思って読んでる人も一定数いるけど、 単に検索して飛んできて一部分だけ取り出して情報を持っていく人もいる ホームページの頃の文化 一人の人間が運営しているまさにホーム けれどもブログになってしまうと、全てエントリ単位 誰のブログだから、と意識しなくなった ある話題について書いてある今ホットなエントリ どういう人間がどういう背景で書いているのか無関係にマッシュアップ 対人コミュニケーションから非対人コミュニケーションへのシフト 人間間のコミュニケーションを介さないで情報を協調させていく インターネットというメディアの一番重要な特徴 政治的な決定、合意を考えるときに、 今まで人間的に顔をつき合わせて議論するということばかりいっていた ここまでのテクノロジーを手に入れてしまった今、 非対人コミュニケーションに譲り渡してもいいのではないか これが授業の裏テーマ だからtrustとfriendshipの対立は面白いなと思った 人間は2つのレイヤーで自我を考えなければいけなくなる 僕は僕として情報を発信している時と、 僕が僕じゃなく情報を発信している時がある 僕として情報を発信している時でも、 断片の一部だけがとられ僕という発信者の情報が全部剥奪されて、 単なる材料として受け取られて処理される そういう2つのレイヤーで社会生活をする 固有名の世界と匿名の世界 2つ重なった感じで社会生活が行われるだろう 色々なことでいえる 半分冗談みたいなものだけど、 コンビニエンスストアは何故いいか 本当はコンビニはそんなに匿名の空間ではないけど、なんとなく匿名 近所の八百屋でいつも人参を買ってると、 どんな人参が好きかという話になって、 そのうち東さんのために人参入れましたよと、うざいコミュニケーションが発生 コンビニは絶対そんなことはない 西荻窪に住んでいるときは歩いて15秒くらいのコンビニにすごく行っていた バイトのシフトもわかってくる 講談社とかに宅急便を出しているやつ そういう職業の奴だとわかる しかし常に同じルーチンで会話 前に100回あっていても全てキャンセル 毎回初対面のようなコミュニケーション それがコンビニのすごいところ 人類史的にも新しいインフラなのではないか ここ50年くらいで発達した都市空間で面白いもので、 昔は店でものを買うとかは全て固有名の人間対人間のコミュニケーションだった 東浩紀が近くの八百屋の何々さんから買う、ということが、どんどん匿名になっていった 通販、POSシステム、 データベース化が発達 一方では匿名性が進化、 他方では全てデータ、僕の行動がデータになっている 全然別のコミュニケーションの回路として進行している 濱野君は「思想地図」の中にいい論文を書いている 冒頭部分とはハイライトの部分を持ってきた ニコニコ動画について書いている 結構本質的なことを言っている 擬似同期性 すごくいい概念 実際の対面コミュニケーションは同期している メールは非同期 テレビやラジオは例え録画のTVドラマでも、発信者と受信者は一致 みんな同じものを見ている ネットは基本的には非同期の空間 ストリーミング再生は放送でもなんでもない データをDLしているだけ 放送の形をとったDLサービス 最近は生中継をやったりしているけど しかし擬似同期的なものが台頭してきている 本来は非同期的な空間の中で、時間が一致しているかのような幻想を惹起するようなサービス 2chの祭り、ブログの炎状 みんなが書き込んでいるだけだから、まさに非同期的な空間 ところが祭りの時だけはみんなが同じスレをみてどんどん書き込む スレを通してみんなの時間が一致する 本来欠けている同期的な熱狂を求める それが2chの祭りやコメント炎上に表れている ニコニコ動画はまさにそこで成功した これだけ言えばわかると思う コメントを映像の軸に対して何時何分でと差し込む 実際にはみんなが書き込んでいる時間はばらばら 見ている時間はばらばらなのに、みんなと一緒に見ているかのような幻想を作り出す ばらばらな時間を生きているはずなのに、一緒に生きているかのような幻想 みんなが同時に映像を見てコメントを入れるようなシステムを作っても、 おそらくあんなに面白いシステムにならない 面白いコメントを入れることはできない 一瞬で書けない 何回も見て練って入れてる 弾幕職人とか 5分の動画でも莫大な時間が畳み込まれている 実際の同期だとあんなことはできない 新しい時間性を獲得しているから非常に面白い 「思想地図」の論文だとそこから更に先に行っている 近代以前には物事の分類は非常に混乱していた 例えば動物の分類のときに、足が4本あるもの、4本じゃないもの、 10本、8本、とか考える 一応分類 近代以前では分け方はめちゃくちゃだった フーコー『言葉と物』のボルヘスからの引用  皇帝に属するもの、香の匂いを放つもの、飼いならされているもの、  乳呑み豚、人魚、お話に出てくるもの、放し飼いの犬、この分類自体に含まれているもの、  気違いのように騒ぐもの、算えきれぬもの、駱駝の毛のごく細の毛筆で描かれたもの、  その他、いましがた壺をこわしたもの、とおくから蠅のように見えるもの。 非常に異様に見える これに対して、ニコニコ動画のタグの例  アイドルマスター、歌ってみた、おっさんホイホイキラッ☆これはひどい、その他、  ニヤニヤ動画、ぬこぬこ動画、もっと評価されるべき、ゆっくりしていってね!!!、  ボカロオリジナルを歌ってみた、腹筋ブレイカー、作業妨害用B、作業用BGM、  作者は病気シリーズ、公式が病気シリーズ、吹いたら負け、愛すべき馬鹿、  才能の無駄遣い、混ぜるな危険、混ぜるな自然、演奏してみた 僕関係の動画でも、 「東浩紀」、一緒に参加している人の名前、くらいまではまだいい 僕についてのコメント、「通報しました」、もはや分類でもなんでもない 分類の役に立つもの、単なる感想、 感想についてのメタツッコミも同じタグとして処理されている タグというのは非常に変な世界になっている P328、329 ハイライトの部分 こういうタグのシステムは、 あるデータに勝手にみんなが好きなようにくっつけて、 勝手なやり方でソートできる 人類の歴史的にも新しいのではないか と濱野君は言っている 普通分類方法はヒエラルキーで分類する 図書館の整理方法 思想、哲学、日本の思想家、、、で僕に行く ディレクトリ構造、ツリー構造 ところがインターネットにおいて、今タグと言われている分類方法 一つのデータに対して勝手にみんながタグをつけて勝手に抜き出せる 単にデータをばらーんとDBに突っ込んでそれぞれのユーザが勝手にタグをつける 整理すらされない タグに基づいた整理は毎回可能 人類の知の整理として新しい段階にきているのではないか 授業の最後だし、またわけわかんないこという 『動物化するポストモダン』でデータベースということを言った 普通に技術用語なので、データベース論の教科書も読んだ 当たり前だけどデータベースは結構つまらないもの 名簿みたいなもの 東浩紀1971年5月9日生まれ男性何とかかんとか、年齢別にソートしてみました、そんなもの サブカルチャーのデータベースがあって、色々引き抜いて二次創作を無限に生成 何となく変だな 本当はこの用語はこんなことに使えないなと思いながら書いていた でも濱野君の論文を見て、やはりデータベースという言葉は正しかった なぜか データベースも進化している あるキャラクターに「ツンデレ」というタグをつける ツンデレタグで処理 タグ自体も進化 別のタグに変わるかもしれない 別の魅力とかデザインコンセプトが発見され 別の形で二次創作で活用されるダイナミズム データベースという言葉だとすごく静的に聞こえる しかし濱野君の論文を重ねてみると、 かつて『動物化するポストモダン』で言ったデータベースというメタファーが、 もう少し具体的に、まともなものとして捉え返すことができるかも だからこの論文は結構良い この後の部分も良い ニコニコ動画には作家性みたいなものが極端にない その代わり、タグの無限の生成力が作家性の代わりをしているのではないか とても要約出来ないので興味のある人は読んでください 授業をまとめなければいけない また来週と言いたいところ 来週のシンポジウムに濱野君も出るのでそっちに続いてほしいところ 全ての価値観が相対化され アーキテクチャくらいしか考えることがなくなった そういう世界で思想とか批評は何を考えていくのかという話 「ポストモダンと情報社会」という言葉で最初にイメージしているものとはちょっと違う 今回の授業はどこに行くのかなと思いながら楽しかった授業 皆さんに考えてほしいのは インターネットと言うメディアが出てきた 情報社会 こんなに大きな変化が起きるのは数世紀に一度 ビッグなビジネスチャンスと言えばそうだけど、 知的にも非常に面白い状態 人類史的には活字印刷が起きたくらいの変化 作家性とは何か、公共性とは何か そういう抽象的な概念の自体の意味が変わってしまうような時代 そういうことについて考えるきっかけになったらいい というところで今期の授業は終わり ありがとうございました