東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第6回(11/16)

# 6分遅れて登場

どうもこんにちは
先週の予告どおり10分くらい遅れてみた
家でMacのコンセントを探すのに20分くらいかかって遅れた
うちの妻のを持ってきた

僕は時間を守るのが好きじゃない
世の中には守れない奴がいる
世の中病気が増えている
時間が守れないのも病気になるのではないか
今まで責められていたけれど実は病気だったんだ!と
社会的なケアが必要になるのではないか
どうしても守れない
大学のときゼミとか30分くらい遅れて行ってたからな
なんとか卒業できたけど

ここで冗談を言うとネットに書かれるのであまり冗談を言えない

この間大阪行ったんだけど
日本は意外と地方感覚差が激しい
大阪は不況感が漂っている
「東京から考える」で
タワーマンションやショッピングモールなどが都市空間を変える
とか書いたけれど
あれは東京の話
地方は違うんだろうなと思っていた
やっぱり大阪は違う
国と国の格差よりと
国の中での都市と地方の格差が大きくなるのではないか

時間は守らない
すぐに面倒くさくなる
それで俺は大丈夫なのか
大丈夫じゃないのかもしれない

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ポストモダンの話はだいぶ煮詰まってきた 今週くらいから「情報環境論集」の中の「情報自由論」の話をする 講談社BOXで同時期にでたのがひぐらし奈須きのこ すごい戦いを強いられていた 「情報自由論」、「サイバースペースは何故そう呼ばれるか」は ネット社会の思想的意味について考えている論考 ポストモダンはある主の二層構造だという話を延々としていた 共通インフラの上にコミュニティがいっぱい乗っかっている 共通インフラをアーキテクチャと呼ぶ コミュニティの層とアーキテクチャの層がぜんぜんばらばらに分かれている コミュニティの層では勝手に自由に考える 特定の価値観によっているというよりも 工学的な安全性によって管理されている 大きな物語が一人一人の価値観を規定するのではなくて インフラには物語りはない イデオロギーからセキュリティへ 21世紀には物語同士が対立しているというよりも、 なるべく多くの価値観がぶつからないように安全に共存される テロリストはそれを脅かすから危険 思想信条が問題なのではない イスラム教を信じていることを禁じたいわけではない テロを起こすのが良くない アメリカではアカ狩りがあった当時はイデオロギーがだめだった 今はイデオロギーを拒否しようとしていない 実行に移すような人間はテロリストとして徹底的に弾圧する こういうのをメタユートピアと呼んだ 国は暴力の管理だけをやればいい 理念的にはそれ以上あるだろうけど リバタリアンの哲学はネオリベとか呼ばれているものと非常に近い ネオリベ、格差拡大といったものはは日本では悪だと思われている これらに反論するとインテリっぽい ネオリベの結果おきている悲惨な現実は潰していく必要がある しかしリバタリアニズムを否定するのは難しい 日の丸君が代を押し付けるのはよくない 同性愛者もありうる さまざまな性、家族のかたちがありうる 仕事のあり方、自己表現の仕方、障害者、いろんな人種、文化が共存しないといけない 一つの価値観を共有するのはできなくなっている だから二層構造の社会になって行かざるを得ない ネオリベはその経済的、政治的な帰結 インフラと個人にインターフェースがある mixiのようなつながりの社会性はコミュニティを強化していくことにある コミュニティの層に現れている現象 「ウェブ進化論」などによって一時期Google型権力が云々というのが論壇で盛り上がった 僕の趣味にそった、僕の考え方に合った情報を 巨大なWebから取ってくるインターフェースがGoogle すごい情報が蓄積されていくと人間が見渡せなくなる 昔はネットは小さかった 友達の友達の友達の友達…とリンクしていくと なんとなく日本人のページが全部見れちゃうくらい でも大きくなると見えなくなる Googleはそれに対する見える化の力が大きい GoogleがなかったらWebを使えない Googleがあるおかげで使える GoogleによってWebのイメージを持つことが出来る しかしGoogleは全体を見せてくれる装置ではない でっかいWebからコミュニティの要望にあった情報を返すだけ カスタマイズ化して何かを与える これからはWebを全体的に捉えるサーヴィスを探しはじめるようになるのではないか kizasi.jpのような、今Webの中で何がダイナミックに動いて行くのかを提示するもの 夢だったのかもしれないけど、友達から 炎上サーチだったか炎上アラートのようなサーヴィスを教えてもらった 今どこどこのブログが炎上しているか教えてくれる 動的に炎上がわかる 炎上の瞬間を見ることができる 全体を見渡す一つの手段 全体が見えなくなると全体を見たくなる これは余談
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最近はWinny使ってる人いるのかな 東工大Winnyとか使うとやばいことになりそう 大学のネットワークを使うとやばい P2Pは何がすばらしいか 個人的な欲望が共有財産にいつのまにか寄与してしまっている Winnyの前にWinMXがあった 単なるフリーライダーのクレクレ厨は排除される 厳しい世界 人間と人間のコミュニケーションが必要だった しかしWinnyはただ共有フォルダを設定しておけば いつの間にか誰かと共有されてアップロードされている 何もやらなくていい HDDを拡大すれば拡大するほどDLできるファイルも増える 自分が探すものに出会う確率も高くなる 単にクレクレ厨であるだけで Winnyネットワークが拡大する クレクレ厨でも全体に貢献できるモデル フリーライダーが増えると全体が豊かになる もちろん誰かがリッピングしてアップロードする必要はあるけれど Winny的な、全体に貢献できる発想は 今後の社会を考えるうえで参考になるのかなと思っていた 一人一人は社会全体を考えていない 誰か社会全体を考えるエリートが必要なのではないか、という発想になって行く しかしそうではないだろう 一人一人が個人的な欲望を求め続ければ崩壊する しかしWinnyのような、 個人的な欲望を求めていけば社会に貢献できる社会はありえないだろうかと考えていた AVマニア、アニメファン、洋画ファン、音楽ファンがいて、 Winnyでそういうものが流通していた # Googleのサーヴァの何割かはポルノらしい # 世の中恐ろしい # 何かクリエイティヴィティだ AVとPhotoshopは基本的には関係ない しかしPhotoshopをほしいために増設したHDDにAVが入っていたとする AVを落とそうと思っていないのにいつの間にか誰かのAVファンに貢献している
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浅田彰の『構造と力』ではポストモダンを説明するためにクラインの壺を使った 前近代は三角形 近代はクラインの壺 ポストモダンはなぞの図 フーコーは前近代においては死刑は見せるもの 王が居て、処刑者がばっさり切られる 権力は見えるもの 権力は物理的な力として存在していた 近代では、監視者、王はいなくてもいい 王が常に見ているかもしれないという視線を内面化する 主権者は人々の観念によって作られる 王を支えているのもわれわれの民意だ 主権者と人民がぐるぐる入れかわるダイナミックな構造 ポストモダンではリゾームで色々なものがどんどん繋がっていくとか 謎なことしか言っていない 『動物化するポストモダン』では如何にリゾームを乗り越えるかが課題だった 僕はポストモダンリゾームではなく、データベースだと言った リゾームは二層構造の上の層に過ぎない インターネットは表面だけ見るとリゾーム ハイパーリンクリゾームに似ている しかし無秩序になっているわけではない 一見無秩序のようなインターネットの中で あるラインを辿れば知りたい情報を知ることが出来る Googleがそのラインを浮かび上がらせる ポストモダンというのは 大きな物語の崩壊 現実の複数化、虚構化、記号化 環境管理の台頭 という3つの特徴を持っている これを二層構造に当てはめると、 ○○○○○○○←虚構化はこっちのレベル
←環境管理
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| ←大きな物語の崩壊
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大きな物語の崩壊を一番実感するのは暴力の定義の問題 何が暴力かというコンセンサスがなくなった どこまでがセクハラなのかとか 精神的な暴力は非常に難しい 今授業をしているから君たちに単位をあげないといけない ひどいレポートがきたので、「大学一年からやりなおせ」と言って 単位をあげないで自殺をされたとすると どうしたらいいのか 何が来ても単位を出す しかしそうはいかない 「大学一年からやりなおせ」というのは暴力なのか 大きな物語がなくなると現実がぼんやりして 社会的通念がなくなっている 僕がこんな話をしているうちに 事態は着々と進行している Googleは環境管理そのもの 今はこれからはGoogleだ、ときわめてポジティヴに捉えられている ここ5年くらいでも論調の変化がある
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そういえばそろそろ来年授業するのかとかそういう話をしている 前期にするか後期にするか 毎年同じ授業をやることになっているが ネットに議事録もあるし、全く同じ授業をやるわけにはいかない 来年前期にすると、 この授業が終わってすぐに始まってしまうので新しいネタがない 後期になるように祈っている モグりを大切にすると終わってしまう道かなー
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「情報自由論」は論壇誌に発表したもの 意欲的な編集者がいて、連載が実現した 14回やって、結構な枚数だった 普通だったら単行本になるはずで、単行本にするという話もあったが 書き換えたいと思っているうちに月日が経った 2003年とか2004年は微妙な時期で、2004年くらいからBlogが普及してきた 議論のシーンが変わってきた 誰に向けて書くのかを変えないといけなかった 当時はまだ監視社会論というのが強かった Suicaとか使うことによって人は位置情報を国家機関に渡して巨大な監視社会が云々 という話が強かった 「情報自由論」も初めはそんなトーンだった 終わりのころは管理されているのもいいのかもしれないという及び腰 どっちがいいかは決めないといけなかったが決められなかった この本が単行本にならなかったのは情報社会論壇の変動を表している 荻上チキの「ウェブ炎上」 それなり良い本だと思う いろいろまとまっていて Blogにおける炎上のさまざまな事例の研究、なんで炎上が起きるのか 80年代生まれで若い こういう人が出てくるくらいには人文社会系の情報社会論、ネット論は多くなってきた こういう議論がでてきたのは2003年くらい 2003年くらいで批評のシーンが変わってきた 「情報自由論」にはハッカーの話も出てくる これはちょっと違った観点 これまではポストモダン論から情報社会論を見るという感じだけど これから個別テーマごとになっていく
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サイバーリバタリアニズム ハッカーの話 情報社会を考える上で大きい問題 ハッカーはコンピュータに詳しい人を意味する 犯罪者の意味はない 技術は価値中立的 しかしネットに関してはそうではなかった コンピュータは最初の頃から社会的なヴィジョンと関わってきた それを代表するのがハッカー文化 これは色々な独特な側面を持っている とりあえずスティーブン・レヴィの「ハッカーズ」を読むといい 1980年代前半 既にハッカーの歴史は2、30年あった ハッカーはどういう出自で出てきたのかわかる 80年代の頃に勃興してきたハッカー文化サブカルチャーや左翼思想に近い Do it yourself コンピュータが好きっていうのは何を意味しているのか コンピュータ部って今は何やっているのかな ゲームかな 昔だとビデオ出力のインターフェースを自作したり マシン語書いたり回路を作ったり 1970年代の西海岸のハッカーたちがそうだった ジョブズゲイツ その後ろにあるのはガレージで自作でコンピュータを作るハッカーたち MITの人たちとは全く違う SFとかTRPG文化に密接に結びついている ハッカーたちの基本的なメンタリティに反権威主義 ジョブズはでっかいカンファレンスでもTシャツ、ジーンズ ラフな格好がかっこいい ある種の政治的な意味 ここら辺のことは色々な文献を見ればよくわかる なるべく個人で自分の手を動かして 反権威主義的に自分の自由を守ってやる 参考文献的にブルース・スターリングハッカーを追え」 英語だとHacker Crackdown PDFか何かでダウンロードできるはず # 僕はメモを全く取らない # 取っても読まない # 昔は人々の宣伝にだまされてPDAを買ったりノートを買ったり # ある時見返さない事に気づいてやめた 電話機のここをがちゃがちゃっとはずしてピピーと通信する それで高校生が企業の業務用マニュアルを盗んだという事件 それがばれて何千万円という請求をされた ハッカーが集まってこの問題を議論した こうして法律的側面をサポートする、 EFF 電子フロンティア財団というハッカー組織ができた 「ハッカーを追え」はこれを追った話 70年代はハッカー文化はマイナーだった 80年代前半はMacが急激に業績を伸ばして ばーっとハッカー文化が世の中に出てきた ぶつかった 事件がおきた それに対応する社会的組織ができた スターリングはギブスンと盟友 サイバーパンク運動を先導した 僕はスターリングみたいになりたかったのにどうしてこんなことに 工学部に行ってSFでも書いていれば良かったのかな 90年代 クリントン政権 この政権は結構インターネットの自由に対して弾圧を行った 当時インターネットは急速に勃興してきて、 子供に悪い、犯罪が起こる、テロリストが跋扈するといった不安があった 政府対ハッカーという対立がいろいろなところで起こっていた たぶん1995年か96年 通信品位法 通信の品位を守るための法律が可決されそうになった ハッカーの団体が反対運動を行った その中で出てきた文書J.P.バーロウ「サイバースペース独立宣言」 ネットに翻訳が落ちているんじゃないかな サイバースペースはリアルワールドから独立しているから 政府は口を出すなという文書 アメリカ独立宣言のぱくりになっている ジェファーソンからの引用がちりばめられている サイバースペース=アメリカ 日本だと、反権威=反ナショナリストが常識 アメリカだと決してそうではない 反権威主義的な個人が本当のアメリカ人だという意識がある アメリカは個人が開発して作った国 サイバースペースを開拓しているハッカーたちは アメリカ建国のフロンティア精神を体現している アメリカという国の精神を考えればサイバースペースは独立するべきだ ここにはいろいろなものが結びついている ハッカー文化は単に反権威主義、反政府主義ではない 同時に個人の自由の最大限の尊重という発想もある これはリバタリアニズムに近い # ノージックはもちろんアメリカの人間 # 東欧系からの移民だけど # リバタリアニズムの思想がアメリカっぽい # 広大なアメリカでしか通用しない思想だと結構言われている クリプトアナーキスト 個人のプライヴァシーは暗号で守るしかない 守れない奴は政府に干渉されても仕方ない 昔は銃で武装していた 同様にこれからは暗号で自分たちを武装するという主張があった これもネットを漁れば出てくる 工学的リバタリアニズム みんなは自由を尊重 自由を守るために暗号とかソフトウェアで武装する それが当たり前なんだという発想 それを象徴するのは どこかのサーヴァがクラックされたとする そうするとネットの世論的にはクラッカー、ハッカーが悪いと言うよりも 管理責任者が悪いという風潮になる 無防備にファイル置いていた、パッチを当てていなかった奴が悪い ハックするのも自由、暗号かかってなかったらハックしちゃっていいんでしょという リバタリアニズム的な発想 フロンティア精神 アメリカニズム アメリカ万歳 そういったものもハッカー文化に入り込んでいる コンピュータの技術自体、教育機関 そういったものにこのようなレトリックが刻み込まれている コンピュータ文化は独特のイデオロギーを持っている ヒッピー的というのはエコロジーと結びついている はてな梅田望夫が取締役に居ることからハッカー文化が強い エコロジーとか好き アメリカに近藤さんは行ってしまうし 日本的なニコニコとか2chのつながりのサーヴィスに比べると はてなスターのような、個人が個人のブログを評価するみたいな アメリカ的なブロガーのイメージを持っている はてなハッカー文化を正当に受け継いでいる
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レッシグという法学者がいる 今ではずいぶん有名になってしまったが 「CODE」という本がある アーキテクチャの権力というものをレッシグは言っている ここで大事なのは、レッシグアーキテクチャの権力という時、 彼はサイバーリバタリアニズムへの批判として書いている ネットは広大なフロンティアで個人は何をしてもいいし自分の身は自分で守る そういう思想を批判するためにアーキテクチャの権力と言った どういうことかというと アーキテクチャがある、その上に自由な個人が居る ハッカーたちは上の話しかしていないのではないか DRMのようなものを考えてみればいい あるファイルは再生できる、あるファイルは再生できないようになっている そういうものはまさにコード、コンピュータのアーキテクチャに管理されている ハッカーが自由でも、コンピュータの仕様が変わってしまえば出来ることが出来なくなる コードは英語では法律という意味がある プログラムのコードという意味もある この2つの意味を考えないといけない ハッカーはコンピュータのアーキテクチャの上では自由だが コンピュータの仕様は現実の人間がつくる そして現実の法によってプログラムコードの方向性も変わってしまう この2つの関係によって決まるアーキテクチャを考えないといけない 2001年くらいに熱かったのがDRM 著作権の管理は今まで極めて曖昧だった 一昔前はレンタルレコード屋は単にレコード買ってきて貸していた 著作権者の許諾を取っていたわけではない 昔は末端まで目が届かなかった コンピュータ化で末端まで目が届くようになり、複製も容易になった 企業は末端からも金を集めようとする DVDは暗号で守られていてリッピングできなくなっている しかしフリーでそれを解くものが広まっている ハッカー的にはDVDを買ったら内部をいじれるのは当然の権利 暗号を解除するソフトをハッカーは作った DCSS これをばら撒くこと自体が著作権違反だということになった ハッカー的な、コンピュータがある以上色んなことができる色々試してみたい そういう自由を求める精神と末端まで管理するぶつかり始めた 音楽は絶対複製できないようなコンピュータを作ることも出来る 著作権者に通信がいくようなシステムを作ることもできる ハッカーのように、どんな技術がやってきても大丈夫、 なんて言ってもしょうがないんじゃないか とレッシグは主張した
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次回は金曜日 金曜日は休みだから木曜日のこの時間にやるので木曜日にお会いしましょう