# 6分遅れて登場
どうもこんにちは
先週の予告どおり10分くらい遅れてみた
家でMacのコンセントを探すのに20分くらいかかって遅れた
うちの妻のを持ってきた
僕は時間を守るのが好きじゃない
世の中には守れない奴がいる
世の中病気が増えている
時間が守れないのも病気になるのではないか
今まで責められていたけれど実は病気だったんだ!と
社会的なケアが必要になるのではないか
どうしても守れない
大学のときゼミとか30分くらい遅れて行ってたからな
なんとか卒業できたけど
ここで冗談を言うとネットに書かれるのであまり冗談を言えない
この間大阪行ったんだけど
日本は意外と地方感覚差が激しい
大阪は不況感が漂っている
「東京から考える」で
タワーマンションやショッピングモールなどが都市空間を変える
とか書いたけれど
あれは東京の話
地方は違うんだろうなと思っていた
やっぱり大阪は違う
国と国の格差よりと
国の中での都市と地方の格差が大きくなるのではないか
時間は守らない
すぐに面倒くさくなる
それで俺は大丈夫なのか
大丈夫じゃないのかもしれない
ポストモダンの話はだいぶ煮詰まってきた
今週くらいから「情報環境論集」の中の「情報自由論」の話をする
講談社BOXで同時期にでたのが
ひぐらしと
奈須きのこ
すごい戦いを強いられていた
「情報自由論」、「
サイバースペースは何故そう呼ばれるか」は
ネット社会の思想的意味について考えている論考
ポストモダンはある主の二層構造だという話を延々としていた
共通インフラの上にコミュニティがいっぱい乗っかっている
共通インフラを
アーキテクチャと呼ぶ
コミュニティの層と
アーキテクチャの層がぜんぜんばらばらに分かれている
コミュニティの層では勝手に自由に考える
特定の価値観によっているというよりも
工学的な安全性によって管理されている
大きな物語が一人一人の価値観を規定するのではなくて
インフラには物語りはない
イデオロギーからセキュリティへ
21世紀には物語同士が対立しているというよりも、
なるべく多くの価値観がぶつからないように安全に
共存される
テロリストはそれを脅かすから危険
思想信条が問題なのではない
イスラム教を信じていることを禁じたいわけではない
テロを起こすのが良くない
アメリカではアカ狩りがあった当時は
イデオロギーがだめだった
今は
イデオロギーを拒否しようとしていない
実行に移すような人間はテロリストとして徹底的に弾圧する
こういうのをメタ
ユートピアと呼んだ
国は暴力の管理だけをやればいい
理念的にはそれ以上あるだろうけど
リバタリアンの哲学は
ネオリベとか呼ばれているものと非常に近い
ネオリベ、格差拡大といったものはは日本では悪だと思われている
これらに反論するとインテリっぽい
ネオリベの結果おきている悲惨な現実は潰していく必要がある
しかし
リバタリアニズムを否定するのは難しい
日の丸
君が代を押し付けるのはよくない
同性愛者もありうる
さまざまな性、家族のかたちがありうる
仕事のあり方、自己表現の仕方、障害者、いろんな人種、文化が
共存しないといけない
一つの価値観を共有するのはできなくなっている
だから二層構造の社会になって行かざるを得ない
ネオリベはその経済的、政治的な帰結
インフラと個人にインターフェースがある
mixiのようなつながりの社会性はコミュニティを強化していくことにある
コミュニティの層に現れている現象
「
ウェブ進化論」などによって一時期
Google型権力が云々というのが論壇で盛り上がった
僕の趣味にそった、僕の考え方に合った情報を
巨大なWebから取ってくるインターフェースが
Google
すごい情報が蓄積されていくと人間が見渡せなくなる
昔はネットは小さかった
友達の友達の友達の友達…とリンクしていくと
なんとなく日本人のページが全部見れちゃうくらい
でも大きくなると見えなくなる
Googleはそれに対する
見える化の力が大きい
GoogleがなかったらWebを使えない
Googleがあるおかげで使える
GoogleによってWebのイメージを持つことが出来る
しかし
Googleは全体を見せてくれる装置ではない
でっかいWebからコミュニティの要望にあった情報を返すだけ
カスタマイズ化して何かを与える
これからはWebを全体的に捉えるサーヴィスを探しはじめるようになるのではないか
kizasi.jpのような、今Webの中で何がダイナミックに動いて行くのかを提示するもの
夢だったのかもしれないけど、友達から
炎上サーチだったか炎上アラートのようなサーヴィスを教えてもらった
今どこどこのブログが炎上しているか教えてくれる
動的に炎上がわかる
炎上の瞬間を見ることができる
全体を見渡す一つの手段
全体が見えなくなると全体を見たくなる
これは余談
最近は
Winny使ってる人いるのかな
東工大で
Winnyとか使うとやばいことになりそう
大学のネットワークを使うとやばい
P2Pは何がすばらしいか
個人的な欲望が共有財産にいつのまにか寄与してしまっている
Winnyの前に
WinMXがあった
単なる
フリーライダーのクレクレ厨は排除される
厳しい世界
人間と人間のコミュニケーションが必要だった
しかし
Winnyはただ共有フォルダを設定しておけば
いつの間にか誰かと共有されてアップロードされている
何もやらなくていい
HDDを拡大すれば拡大するほどDLできるファイルも増える
自分が探すものに出会う確率も高くなる
単にクレクレ厨であるだけで
Winnyネットワークが拡大する
クレクレ厨でも全体に貢献できるモデル
フリーライダーが増えると全体が豊かになる
もちろん誰かが
リッピングしてアップロードする必要はあるけれど
Winny的な、全体に貢献できる発想は
今後の社会を考えるうえで参考になるのかなと思っていた
一人一人は社会全体を考えていない
誰か社会全体を考えるエリートが必要なのではないか、という発想になって行く
しかしそうではないだろう
一人一人が個人的な欲望を求め続ければ崩壊する
しかし
Winnyのような、
個人的な欲望を求めていけば社会に貢献できる社会はありえないだろうかと考えていた
AVマニア、アニメファン、洋画ファン、音楽ファンがいて、
Winnyでそういうものが流通していた
#
Googleのサーヴァの何割かはポルノらしい
# 世の中恐ろしい
# 何かクリエイティヴィティだ
AVと
Photoshopは基本的には関係ない
しかし
Photoshopをほしいために増設したHDDにAVが入っていたとする
AVを落とそうと思っていないのにいつの間にか誰かのAVファンに貢献している
浅田彰の『構造と力』では
ポストモダンを説明するために
クラインの壺を使った
前近代は三角形
近代は
クラインの壺
ポストモダンはなぞの図
フーコーは前近代においては死刑は見せるもの
王が居て、処刑者がばっさり切られる
権力は見えるもの
権力は物理的な力として存在していた
近代では、監視者、王はいなくてもいい
王が常に見ているかもしれないという視線を内面化する
主権者は人々の観念によって作られる
王を支えているのもわれわれの民意だ
主権者と人民がぐるぐる入れかわるダイナミックな構造
ポストモダンでは
リゾームで色々なものがどんどん繋がっていくとか
謎なことしか言っていない
『
動物化するポストモダン』では如何に
リゾームを乗り越えるかが課題だった
僕は
ポストモダンは
リゾームではなく、データベースだと言った
リゾームは二層構造の上の層に過ぎない
インターネットは表面だけ見ると
リゾーム
ハイパーリンクは
リゾームに似ている
しかし無秩序になっているわけではない
一見無秩序のようなインターネットの中で
あるラインを辿れば知りたい情報を知ることが出来る
Googleがそのラインを浮かび上がらせる
ポストモダンというのは
大きな物語の崩壊
現実の
複数化、虚構化、記号化
環境管理の台頭
という3つの特徴を持っている
これを二層構造に当てはめると、
○○○○○○○←虚構化はこっちのレベル
| ←大きな物語の崩壊
大きな物語の崩壊を一番実感するのは暴力の定義の問題
何が暴力かというコンセンサスがなくなった
どこまでがセクハラなのかとか
精神的な暴力は非常に難しい
今授業をしているから君たちに単位をあげないといけない
ひどいレポートがきたので、「大学一年からやりなおせ」と言って
単位をあげないで自殺をされたとすると
どうしたらいいのか
何が来ても単位を出す
しかしそうはいかない
「大学一年からやりなおせ」というのは暴力なのか
大きな物語がなくなると現実がぼんやりして
社会的通念がなくなっている
僕がこんな話をしているうちに
事態は着々と進行している
Googleは環境管理そのもの
今はこれからは
Googleだ、ときわめてポジティヴに捉えられている
ここ5年くらいでも論調の変化がある
そういえばそろそろ来年授業するのかとかそういう話をしている
前期にするか後期にするか
毎年同じ授業をやることになっているが
ネットに議事録もあるし、全く同じ授業をやるわけにはいかない
来年前期にすると、
この授業が終わってすぐに始まってしまうので新しいネタがない
後期になるように祈っている
モグりを大切にすると終わってしまう道かなー
「情報自由論」は論壇誌に発表したもの
意欲的な編集者がいて、連載が実現した
14回やって、結構な枚数だった
普通だったら単行本になるはずで、単行本にするという話もあったが
書き換えたいと思っているうちに月日が経った
2003年とか2004年は微妙な時期で、2004年くらいからBlogが普及してきた
議論のシーンが変わってきた
誰に向けて書くのかを変えないといけなかった
当時はまだ監視社会論というのが強かった
Suicaとか使うことによって人は位置情報を国家機関に渡して巨大な監視社会が云々
という話が強かった
「情報自由論」も初めはそんなトーンだった
終わりのころは管理されているのもいいのかもしれないという及び腰
どっちがいいかは決めないといけなかったが決められなかった
この本が単行本にならなかったのは情報社会論壇の変動を表している
荻上チキの「ウェブ炎上」
それなり良い本だと思う
いろいろまとまっていて
Blogにおける炎上のさまざまな事例の研究、なんで炎上が起きるのか
80年代生まれで若い
こういう人が出てくるくらいには人文社会系の情報社会論、ネット論は多くなってきた
こういう議論がでてきたのは2003年くらい
2003年くらいで批評のシーンが変わってきた
「情報自由論」には
ハッカーの話も出てくる
これはちょっと違った観点
これまでは
ポストモダン論から情報社会論を見るという感じだけど
これから個別テーマごとになっていく
サイバー
リバタリアニズム
ハッカーの話
情報社会を考える上で大きい問題
ハッカーはコンピュータに詳しい人を意味する
犯罪者の意味はない
技術は価値中立的
しかしネットに関してはそうではなかった
コンピュータは最初の頃から社会的なヴィジョンと関わってきた
それを代表するのが
ハッカー文化
これは色々な独特な側面を持っている
とりあえずスティーブン・レヴィの「
ハッカーズ」を読むといい
1980年代前半
既に
ハッカーの歴史は2、30年あった
ハッカーはどういう出自で出てきたのかわかる
80年代の頃に勃興してきた
ハッカー文化は
サブカルチャーや左翼思想に近い
Do it yourself
コンピュータが好きっていうのは何を意味しているのか
コンピュータ部って今は何やっているのかな
ゲームかな
昔だとビデオ出力のインターフェースを自作したり
マシン語書いたり回路を作ったり
1970年代の西海岸の
ハッカーたちがそうだった
ジョブズ、
ゲイツ
その後ろにあるのはガレージで自作でコンピュータを作る
ハッカーたち
MITの人たちとは全く違う
SFとか
TRPG文化に密接に結びついている
ハッカーたちの基本的なメンタリティに反
権威主義
ジョブズはでっかいカンファレンスでもTシャツ、ジーンズ
ラフな格好がかっこいい
ある種の政治的な意味
ここら辺のことは色々な文献を見ればよくわかる
なるべく個人で自分の手を動かして
反
権威主義的に自分の自由を守ってやる
参考文献的に
ブルース・スターリング「
ハッカーを追え」
英語だとHacker Crackdown
PDFか何かでダウンロードできるはず
# 僕はメモを全く取らない
# 取っても読まない
# 昔は人々の宣伝にだまされて
PDAを買ったりノートを買ったり
# ある時見返さない事に気づいてやめた
電話機のここをがちゃがちゃっとはずしてピピーと通信する
それで高校生が企業の業務用マニュアルを盗んだという事件
それがばれて何千万円という請求をされた
ハッカーが集まってこの問題を議論した
こうして法律的側面をサポートする、
EFF 電子フロンティア財団という
ハッカー組織ができた
「
ハッカーを追え」はこれを追った話
70年代は
ハッカー文化はマイナーだった
80年代前半は
Macが急激に業績を伸ばして
ばーっと
ハッカー文化が世の中に出てきた
ぶつかった
事件がおきた
それに対応する社会的組織ができた
スターリングはギブスンと盟友
サイバーパンク運動を先導した
僕は
スターリングみたいになりたかったのにどうしてこんなことに
工学部に行ってSFでも書いていれば良かったのかな
90年代
クリントン政権
この政権は結構インターネットの自由に対して弾圧を行った
当時インターネットは急速に勃興してきて、
子供に悪い、犯罪が起こる、テロリストが跋扈するといった不安があった
政府対
ハッカーという対立がいろいろなところで起こっていた
たぶん1995年か96年 通信品位法
通信の品位を守るための法律が可決されそうになった
ハッカーの団体が反対運動を行った
その中で出てきた文書J.P.バーロウ「
サイバースペース独立宣言」
ネットに翻訳が落ちているんじゃないかな
サイバースペースはリアルワールドから独立しているから
政府は口を出すなという文書
アメリカ独立宣言のぱくりになっている
ジェファーソンからの引用がちりばめられている
サイバースペース=アメリカ
日本だと、反権威=反
ナショナリストが常識
アメリカだと決してそうではない
反
権威主義的な個人が本当のアメリカ人だという意識がある
アメリカは個人が開発して作った国
サイバースペースを開拓している
ハッカーたちは
アメリカ建国のフロンティア精神を体現している
アメリカという国の精神を考えれば
サイバースペースは独立するべきだ
ここにはいろいろなものが結びついている
ハッカー文化は単に反
権威主義、反政府主義ではない
同時に個人の自由の最大限の尊重という発想もある
これは
リバタリアニズムに近い
#
ノージックはもちろんアメリカの人間
# 東欧系からの移民だけど
#
リバタリアニズムの思想がアメリカっぽい
# 広大なアメリカでしか通用しない思想だと結構言われている
クリプト
アナーキスト
個人のプライヴァシーは暗号で守るしかない
守れない奴は政府に干渉されても仕方ない
昔は銃で武装していた
同様にこれからは暗号で自分たちを武装するという主張があった
これもネットを漁れば出てくる
工学的
リバタリアニズム
みんなは自由を尊重
自由を守るために暗号とかソフトウェアで武装する
それが当たり前なんだという発想
それを象徴するのは
どこかのサーヴァがクラックされたとする
そうするとネットの世論的にはクラッカー、
ハッカーが悪いと言うよりも
管理責任者が悪いという風潮になる
無防備にファイル置いていた、パッチを当てていなかった奴が悪い
ハックするのも自由、暗号かかってなかったらハックしちゃっていいんでしょという
リバタリアニズム的な発想
フロンティア精神
アメリカニズム アメリカ万歳
そういったものも
ハッカー文化に入り込んでいる
コンピュータの技術自体、教育機関
そういったものにこのようなレトリックが刻み込まれている
コンピュータ文化は独特の
イデオロギーを持っている
ヒッピー的というのは
エコロジーと結びついている
はてなは
梅田望夫が取締役に居ることから
ハッカー文化が強い
エコロジーとか好き
アメリカに近藤さんは行ってしまうし
日本的なニコニコとか
2chのつながりのサーヴィスに比べると
はてなスターのような、個人が個人のブログを評価するみたいな
アメリカ的なブロガーのイメージを持っている
はてなは
ハッカー文化を正当に受け継いでいる
レッシグという法学者がいる
今ではずいぶん有名になってしまったが
「CODE」という本がある
アーキテクチャの権力というものを
レッシグは言っている
ここで大事なのは、
レッシグが
アーキテクチャの権力という時、
彼はサイバー
リバタリアニズムへの批判として書いている
ネットは広大なフロンティアで個人は何をしてもいいし自分の身は自分で守る
そういう思想を批判するために
アーキテクチャの権力と言った
どういうことかというと
アーキテクチャがある、その上に自由な個人が居る
ハッカーたちは上の話しかしていないのではないか
DRMのようなものを考えてみればいい
あるファイルは再生できる、あるファイルは再生できないようになっている
そういうものはまさにコード、コンピュータの
アーキテクチャに管理されている
ハッカーが自由でも、コンピュータの仕様が変わってしまえば出来ることが出来なくなる
コードは英語では法律という意味がある
プログラムのコードという意味もある
この2つの意味を考えないといけない
ハッカーはコンピュータの
アーキテクチャの上では自由だが
コンピュータの仕様は現実の人間がつくる
そして現実の法によってプログラムコードの方向性も変わってしまう
この2つの関係によって決まる
アーキテクチャを考えないといけない
2001年くらいに熱かったのが
DRM
著作権の管理は今まで極めて曖昧だった
一昔前はレンタルレコード屋は単にレコード買ってきて貸していた
著作権者の許諾を取っていたわけではない
昔は末端まで目が届かなかった
コンピュータ化で末端まで目が届くようになり、複製も容易になった
企業は末端からも金を集めようとする
DVDは暗号で守られていて
リッピングできなくなっている
しかしフリーでそれを解くものが広まっている
ハッカー的にはDVDを買ったら内部をいじれるのは当然の権利
暗号を解除するソフトを
ハッカーは作った
DCSS
これをばら撒くこと自体が
著作権違反だということになった
ハッカー的な、コンピュータがある以上色んなことができる色々試してみたい
そういう自由を求める精神と末端まで管理するぶつかり始めた
音楽は絶対複製できないようなコンピュータを作ることも出来る
著作権者に通信がいくようなシステムを作ることもできる
ハッカーのように、どんな技術がやってきても大丈夫、
なんて言ってもしょうがないんじゃないか
と
レッシグは主張した
次回は金曜日
金曜日は休みだから木曜日のこの時間にやるので木曜日にお会いしましょう