東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第3回(10/17)

どうもこんにちは

今日もプリントがある
今コピーしてもらっている

授業がネットにアップされるという状況から逃れられると思ったんですが、
ICレコーダで録音していたらしく、
本人がいなくてもアップされる
ひどいもんだ

毎年同じことをやれと言われているからやる気がなくなるのだということが分かった
この際あまり考えず毎年新しい講義をするのがいい

昨年まではポストモダンとは何かという話から、如何にも教科書的なことをやっていたが
今回は軽めでいく
『リアルのゆくえ』の話から入って、動物化と公共性の話
動物化 コジェーヴの仕事から引いている
コジェーヴも味わい深いから読んでみよう、というのが前回まで

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動物化するポストモダン』では大澤真幸さんの話と絡めて話をしているから 大澤さんの文章を読んでみたい プリントが来ないので、まず大雑把な話 ・日本的スノビズム ・アメリカ的動物 2つのポスト歴史の可能性 コジェーヴの話ではどっちが先でどっちが後とかじゃない しかし日本では、日本的スノビズムからアメリカ的動物に移行したと言えるのではないか と読み替えることができるのではないか、というのが 『動物化するポストモダン』の要となる主張 これからプリントで配る 大澤真幸さんの『戦後の思想空間』 この本から「虚構の時代」という言葉を借りて コジェーヴの話を日本的スノビズムからアメリカ的動物へ変わったんだと読み替える 1945年から1970年を理想の時代 1970年以降を虚構の時代 と言えるのではないかと大澤さんは言う 理想の時代 人々が理想に向かって邁進 高度経済成長 敗戦からの復興 イデオロギー的には左翼的な革命の理想 革命、成長、復興、何らかのイデオロギーがある ばら色の未来、大きな物語に向けて驀進 1970年あたりに限界を迎える 三島由紀夫の自殺 連合赤軍内ゲバ 理想を追い求めるのが滑稽な結末になるのが明らかになった 三島由紀夫は近代的な美を追求して、 それが無理なので日本型の天皇主義に反転 それも無理なので滑稽なかたちで自死 大阪万博 サブカルチャー的には大きなモチーフ『20世紀少年』 近代社会の夢と日本社会の夢が重なった 夢の極限 以後こういった万博は行われていない 愛知万博とか誰も覚えていない 1970年がひとつの屈曲点 虚構の時代は別の言葉でメディアの時代 日本でだけではない 情報化社会、メディア時代、ポスト産業社会、知識社会 実体経済ではなく、ものについての情報を動かすことが強くなっていく 金を儲けたければものづくりなんて愚の骨頂 簡単に金儲けしたければ投資 最近離婚したマドンナの資産は5億ドル YouTubeは16億ドルで売れている YouTubeはコンテンツではない プラットフォーム テレビ、ラジオ、新聞といった マスコミ、情報産業が注目される 革命の理念のようなものが打ち砕かれていく 革命とか明るい見ないを誰もが信じなくなる 嘘を嘘として知りつつ、 革命とか未来とかいう言葉を発信者は使って、受信者も受容する 広告 嘘の塊 しかし完全な嘘ではいけない みんなが本当であると信じていないといけない 全て真実だと思う人もいない 1980年代 ニューアカデミズム ポストモダンブーム バブル経済 まさに虚構の時代の象徴 東京の地価でカリフォルニア州が買えるとか、 下手をすると日本列島だけで地球全体が買えるのではないかと言われていた 株価も3万8千円くらいまでいっていた 実体経済とは無関係に虚構的言説だけでぐるぐる回している それでも株価も良くなるし本当の経済もよくなっているかに見える 虚構の時代の頂点 虚構の時代も1995年に限界を迎える 大澤さんは「不可能性の時代」と名付けている こなれない言葉だけど、「動物の時代」もそんなものか いずれにしても何か違う時代 虚構の時代というのはまさに日本的スノビズムではないか 実質がなくなって形式だけがまわっていく 誰も革命とか未来とか信じていない 革命や未来を信じているかのように振舞うことが強くなる スノビズムは日本では虚構の時代のときに強くなった精神性 次はどんな精神性が来るのか アメリカ的動物の方が強くなったのではないか 虚構の時代を日本的スノビズムに適当に当てはめているだけなのでは? それはそう 問われているのは同じ問題で、どう社会の問題に当てはめるかは個々で違う ポスト歴史ではどういう精神性があり得るか スノビズムか動物かという2つのパターンしか考えられない 日本においては一時期スノビズムが強かった ある時期から動物性の方が強くなった、くらいの話 繰り返していくのかもしれない アメリカだって全部が全部動物じゃない 95年を境に日本社会が大きな変革を遂げたのは確か かなり一般的に色々な人が言っている 家族構成の比率 犯罪のあり方 何が変わったのか? スノビズムと動物という2つの理念形の力関係 # ようやくプリント配られる ・柄谷行人の業績について東浩紀が書いた文章 ・『戦後の思想空間』 14ページ分(虚構の時代の話を書いている) ・柄谷行人マクベス論 この授業のコンセプトは文章を読むということにしようと思っている さっくりではなく味わい深くやっていく 戦後の思想空間 192ページ  内向の世代  こういうふうにして、六七年から七二年くらいの移行期において、  社会を批判するための基準となる理念とか理想とか、  そういうものがだんだん空虚なものになっていってしまうんです。  つまり、自分で自分を批判していくうちに自分自身のベースがなくなってくる。 僕は批評家でもある 小説とか読むのが仕事 一番影響を受けたのは柄谷行人 セカイ系ライトノベルとかにも関係している 内向の世代とは何か   このとき出てきたのが、移行期的な、したがって短期的なものですけれども、  「内向の世代」と言われている一群の作家、批評家です。  「内向の世代」というのは小田切秀雄が使った言葉で。  彼は、非常に批判的な意味あいで使っています。  しかし、この語が、結果的にはその世代の雰囲気というものをよく言い当てていたために、  批判的な含みから独立して定着してしまったわけです。  「内向の世代」と言われる小説家とか批評家は、  皆さんもよくご存じの人たち、  たとえば、古井由吉であるとか、後藤明生であるとか、黒井千次であるとか、  あるいは評論家であれば川村二郎とか秋山駿とかですね。  たいへん表面的な水準で整理してしまえば、彼らはもう、  他社を告発したり批判したりするための根拠を持たないんです。  社会の変革にストレートに参加していくというときの自分の立脚点を持たない。  だから、基本的には、内側に視線が向かっていくわけです。  それが「内向の世代」の批評家や作家たちの特徴であると、  教科書的に言えば、そういうことになるわけです。 これは重要なこと 皆さんご存知の通りといってるけどほとんど知らないと思うけど、 純文学の世界では非常に重要な人たち 社会との関係を持たない 内面に向かっている 何故70年代に出てきたのかというと理想の時代が終わったから 文学は理想と関係が持てない 自分の内面に向かっていく と言う変化   この「内向の世代」というのは、この七〇年代までに起きてしまった、  ある理念の真空地帯というものにちょうど対応する形で出てきたのではないかと思うんです。  もし、そうだとすると、  この「内向の世代」というのは過渡的なものだということになります。  実際、このことをはっきり示したのが、柄谷行人です。 柄谷行人 1969年に27歳でデビュー 日本のある時期において最も影響力があった批評家 今でも活躍中な重要な人 理想がなくなってしまった時代を体現している批評家  彼(柄谷行人)は「内向の世代」を自己破綻にまで導いてしまうわけです。  柄谷行人が示したことは次のようなことです。  「内向の世代」というと、外界には関心を抱かないけれども、  しかし、内面的には非常に豊かである、といった印象をもちます。  しかし、内面しかもたない「内向の世代」は、  その内面においてすらも貧困であるろいうこと、  柄谷氏は、このことを示してしまったんです。 これも厄介な話 ここにいる東工大の人たちは文芸評論とか関心がないのではないか まあなくても良いと思う 文学は社会を映している 内向の世代とかは社会を映さなくなった 社会を映していないこと自体が社会を映している この文章はその後、柄谷行人マクベス論が面白いということを延々と言っている 久しぶりに読み返してなるほど面白いと思った 199ページ  廣松さんの場合は個人のアイデンティティから人々を解放したし、  山口さんの場合は共同体の持っている価値とか規範の重みから人々を解放した 廣松渉 主体が主体に見えることが錯覚みたいなことをいった 山口昌男 社会を捉えるのに実存から捉えるのではなく社会の構造を捉えるから違うようにみえる こういう人たちは実存を解体するために出てきた 主体性を解体する 理想の時代というのは主体の時代でもある 理想とか未来に走っていく 文学、政治といったら主体を持つこと 虚構の時代は主体とはなんじゃらほいということになる 成熟モデルもない 主体はあるのか? これがポストモダニズムと言ってもいい 主体の話も歴史的には繰り返されている 何も新しくないといえば新しくない しかし20世紀後半に何故クローズアップされてきたのか 一方にある現象が新しいと言うと、 そんなものは昔からあったという議論が出てくる 最近起きていることであれば文脈が変わっている 新しい側面もある 主体ってあるのかよという議論 未来と革命 ・日本の社会の未来を担うモーレツサラリーマン ・革命の尖兵の主体 イデオロギー的には対立しているけどがつんとしている主体 虚構の時代はもっとちゃらんぽらんに生きようぜ 200ページ  その結果、出てくるのが出てくるのが、八〇年代の思想です。  八〇年代の思想と言うのは、今の七〇年代の展開を考えれば、  その必然の結果とも言うべきスタイルを特徴とする。  そのスタイルを、こう言ってもいいと思います。  「消費社会的シニシズム」と。 80年代は消費社会的シニシズム 浅田彰蓮実重彦 知識や思想を主体から解き放つ 全てネタに変えてしまう 80年代の思想はネタの思想 マルクスだのなんだの全てネタに過ぎない 2ちゃんねるの思想は80年代直系 大澤さんが柄谷行人に与えているポジションが重要 1970年当たりに色々変わる 政治と文学が離れた 95年まで続く 95年以降、文学と政治がまたくっついた ロストジェネレーション 彼らは文学によって政治を語る ロスジェネの問題というわけではない 批評が社会学化、心理学化した 虚構の時代は、すごく抽象的で現実と関係ないことが思想だと思っていた 95年以降、思想や文学に政治を求めるようになった 昔の文学作品について考える、脱構築がなんだ、そういったものが信用されなくなる サカキバラ事件や不況をどう分析するか、ということが中心になっている このモードはしばらく変わらないのではないか 1945  政治<->文学 1970  政治/文学 1995  政治<->文学 政治と文学が離れているかくっついているか 柄谷行人はちょうど間で出てきた人 両方の性格を持っている これが大澤さんが柄谷行人に注目している部分 1999年の東浩紀の文章 当時は頭が良かった感じがする 今の僕は10年前のこれを読んでだいぶ読み方が違うことに気付いた 柄谷行人『ヒューモアとしての唯物論』の解説  柄谷行人の活動はほぼ三十年前、六九年に始まった。  「意識と自然」と題された彼の最初の評論は、  主に「倫理的問題」と「存在論的問題」の絶対的差異について論じている。 倫理的問題と存在論的問題は違う しかし人間は混同してしまう すごく簡単な話をする 愛について悩む 愛って何でしょうか? 愛について答えるのは存在論的な話 倫理的な話の場合、 17歳童貞が愛について悩んでいたりしても、 実際にはやれないことについて悩んでいるかもしれないし、 本人もわからない 単にやればいいんじゃないのか?と言って、 やったらすっきりしました! 倫理的な話なのか存在論的な話なのかわからない 倫理的=政治の問題、モノとか経済、社会 存在論的=文学の問題、内面の問題 として考えてもいい 社会はどうあるべきか、 自分がどう生きるか 結びついているのが理想の時代 これが1970年代に壊れて切り離される 内向の世代という文学を生んでいく 今日は講義を途中で出ていく人が多い 出なくても単位あげるので出て行く人は今すぐ出て行って欲しい 途中で出ないで欲しい この2つは分けられる話なのに、分けられない、人は勘違いしてしまう という話を柄谷さんはしている ・結びつくべきだと ・心の問題しかない どっちでもないというところから出発している 結びつかないのだけど勘違いして結び付けてしまう 今の時代は政治と文学が結びついているように見える しかし95年以降は文学自体が複数化した 文学の歴史自体が複数化した 政治と結びついている文学もあれば、 結びついていない文学もある ライトノベル セカイ系 明らかに内向の世代に対応している 社会はもう描かない 自分のすごい近い恋愛と、世界の破滅しか描かない ロスジェネは、この2つは切り離されないと言う人たちに近い 理想の時代のメンタリティ 他方には虚構の時代のメンタリティ ごちゃごちゃっとなっている 心の問題と社会の問題 切り離せるのか、関係があるのか、あるとしたらどれくらいか 今でもアクチュアル そういう観点から読めば柄谷さんの文章は今でも重要なものとして読める 柄谷行人が1974年に書いたマクベス論 文芸評論と言うのは基本的には他人に仮託して自分のことを語る マクベスに仮託して自分の思想を語る 66ページ  彼が退けたのは自己の存在が無意味だという考えそのものであって、  彼は自分を何であれ意味づけなければならぬこと自体を退けたのである。 大きな物語がありました 自分の存在に意味を与えてくれる大きな物語がなくなると、 自分は無意味になる 70年代にそれは現れていた 俺って無意味だなー そこでこの文章 退けるべきは、自己の存在が無意味という考え 自己が意味を持つべきだということに人は囚われているから、 考えなければならない もう囚われるのをやめて単なる現実に素朴に立ち向かえ ということを言っている 『動物化するポストモダン』でもここの部分は非常に重要な要素 虚構の時代と動物の時代 スノビズムの時代は敢えての時代 意味はないんだけど敢えて意味があるふりをする 動物の時代には敢えてもなくなる 私は何故存在するのかという問いがなくなる 世界との即物的な接触 意味、無意味という分け方そのものがない そういう世界に対する感性が育ちつつある その傍証として、大澤さん、宮台さん、大塚さんの本を挙げている 何故この問題にこだわっているのかと言うと、 僕が柄谷行人から出発したから ジャック・デリダの読解本 「否定神学」の批判をやった 否定神学的思考が罠だという話 否定神学は虚構の時代に似た話で、 ドゥルーズ、リオタール、デリダに共通する方法論として否定神学がある ハイデガーに由来 何でそんな本を書いたのか それは「彼が退けたのは〜」の文章への違和感 意味とか無意味にこだわること自体が無意味だ、ということは循環している これはもう抜け出せない 無限に背進していく 評論なんて素朴 文学読んで社会を語るもの 自己循環の罠にはまっていく 意味を求めること自体に意味がない と言うことを意味づけするけど意味がない 軽やかに行こうとするけどぜんぜん軽やかじゃない 『存在論的、郵便的』の否定神学批判 意味とか無意味とか無意味だという言説の持っている罠からどう抜け出すか 本を書いた後も虚無感が残った それを壮大な博士論文にしていることが無意味なのではないか じゃあ別の観点からやってみようというのが『動物化するポストモダン』 どうやって抜け出すか 文芸評論のレトリックでは抜け出せない むしろ、柄谷行人の謎めいた文章を読んでも輝きを増してくる 意味と言う病、から抜け出すべきである、と言う本を書いていてはだめだ もっと実践的に批評を意味から解き放たなければならない 『動物化するポストモダン』は、だから社会学とか社会批評に似てしまっている でも柄谷行人のそのままの継承 大澤さんから組み立てているのもそういう文脈がある 社会学の本ではない 遥かに文芸評論の本 それが意味があるのか分からないけど、ジャンルの出自としてそう そういう批評史 政治と文学は切り離される立場  ポストモダンの思想もオタクサブカルも同じようなもの 結びつくべきだ  ロスジェネ どっちを取るべきなのか 2つしか選択肢がないのか 今でも、ものを考える上で非常にアクチュアル 政治と文学の話 リアルのゆくえの対立 ・大塚さん  動物化したら公共性がない ・東浩紀  動物化しているという上で公共性を考えている 基本的な立場の違い 今の話でどういうことを意味しているのか 大塚さんは理想の時代に戻りたいと言っている 僕の方は、虚構の時代を前提として思考しようといっている 大塚さんは江藤淳を評価して、 僕は柄谷行人を評価している 大塚さんの『サブカルチャー文学論』 これはいい本 お奨め サブカルチャー文学について語っている 新井素子とか 江藤淳 偉い人 70年代から80年代にかけて、 サブカルチャーが文学を侵食していた時期に積極的に発言していた 柄谷さんはサブカルチャー文学に対して冷淡 アメリカに行っていたのだけど、それにしても冷淡 文学によって社会を語ることができなくなっている思想家 熊野大学のシンポジウムで会った 「俺はもうやめたい」「意味がない」 30年前から言っている だから素晴らしいと思う 江藤さんのようにサブカルチャーを通して社会を語ることはできない サブカルチャー文学を普通に読んで普通に語る 柄谷さんはそれが壊れている 大塚さんが意識しているのも明らか 「新現実」 柄谷さんと大塚さんの対談 江藤淳柄谷行人の対立 政治と文学の関係をどう考えるか 『リアルのゆくえ』で公共性、社会哲学の話もしているけど、基本的に文学の話に近い 文学と言っても、プロットを読み解くという話ではない 文学的想像力 誰かの作品で社会を語る、 作品にひかれるのは社会的にどういう意味があるのか 昔は考えなくてもいい問題だった 好き勝手に好きなものが好きだ 現実の共通理解もない ある作品にひかれていること、読むこと それは社会にとってどういう意味があるのかわからない 政治と文学の関係をどう捉えるのか 江藤淳とか柄谷行人とか昔の人の話だけど、 今の社会にも関係しているといえば関係している 柄谷行人という書き手の生き様がポストモダンの病を典型的に表している これはほとんど誰も言っていないこと そういう観点で読んでみて欲しい 69年に文芸評論家として始まる 70年代になると変な仕事をやり始める 原理的、理論的 文芸評論でもなんでもない ソシュールはこういった ゲーデルはこういった これは全部同じで全部根拠がない 怒涛のごとくやっている 乱暴だからアカデミシャンには評判が悪い こっちは言語学、あっちは現象学、etc 本当に原典に当たっているのか 不思議な文章 アカデミックに価値があるわけではない なぜ日本と言う国の中で思想とか批評がこういうかたちを取らなければいけなかったのか 明治期に強引に文学や近代的な思想を輸入しているから ヨーロッパでは神学から始まっている 神様の学問に集約する 大学も文学も明治に輸入したもの すごく根拠がない ヨーロッパに追いつかなければならなかった テクノロジーを輸入しなければならなかった そのために語学を研究 だから外国文学の地位は高かった 文学そのものが尊ばれていたのではなくて、 文学によって国を強くしようという意味があった 70年代にそれがなくなる 文学が自立的に価値をもっているわけではない 政治性に支えられていた では人文的な知、哲学をやるのはなんだ もともと輸入だし、この国で文学やる、ものを考えるのはバカみたいだ その限界が70年代にはっきり現れる ようやく西洋コンプレックスから経済的に解き放たれる 日本は経済では世界一になる アメリカやヨーロッパから学ぶことはない そして文学、思想、哲学が危機になる 外国に追いつくためにあったのがその必要がなくなった どこまでそれを内向の世代の人が感じ取っていたのかわからない 政治と文学を切り離すのは、この国から文学の根拠をなくしてしまうこと 柄谷さんが 総ざらいして根拠付けることをやろうとしてしまったのは、そういうこと 江藤淳サブカルチャー文学に貪欲だった 1977年 新井素子 1976年 村上春樹 春樹も政治と文学の結びつきから完全に解き放たれている 純文学の世界も変動が起きるし、 ライトノベルという外側の文学も出てくる わけのわからない原理的な仕事もみんな連動している こういうことは語られない 新井素子読んでる人は柄谷行人読んでないから その逆も然り ものを書くルールが大きく変わっていく 95年にも大きく変わったけど、この変化を大枠では規定し続けている 『リアルのゆくえ』もこの枠組みで展開している 今日は文芸評論編ということで、次回は社会哲学系

授業の後、massunnk氏と話しました。1年半ぶりくらいでしょうか。彼のブログの名前は「童貞喪失」の方が良かったなあ。何が2.0だよ。とか何とか。