東浩紀×福嶋亮大「批評の技術、技術の文学」

東大の駒場で行われた東浩紀福嶋亮大のトークイヴェントに行ってきました。申し込みが必須だった昨日のジュンク堂のトークショーとは異なり、事前予約不要だったので、暇さの推測が全くできない自分も行くことができました。

東工大の講義と同様にずっとメモっていたのですが、風の噂によるとこのトークイヴェントは別の形で活字化されるようなので、自分の書いたメモは闇に葬っても良さそうです。

内容は、技術によって批評がどう変容していくかみたいなところから始まって、日本語で難しいことを語る事の難しさを通って、批評のわくわく感とか強度の話に。次の東さんの発言がハイライトでしょうか。

結局思想とか批評はメタ言語ではなく物として生き残る
メタ視点は必要とされなくなる
そもそも人間はメタ視点をとれない
もともと虚構
みんなが虚構だとわかっている
メディアも茶番そのもの
それでも討論番組やらないといけないのかなとぼんやり思っている
論壇誌もどんどんなくなっている
あと20年もしたら討論番組もなくなる

ゼロ年代の純文学の光景を的確に要約しても必要とされない
評論家として生き残るには対象となる作家の半分くらい売れていないといけない
解説しているから生き残るのではなく
物として

柄谷行人が偉大なのは
柄谷さんのせいで批評しか読まない人が大量に現れた
残念ながら多くの小説家は批評は作家を応援してくれるものと思っている
大抵の評論家もそうかも
柄谷さんは、正しいことも言わないし小説家を尊敬もしない
なぜなら「俺はすごいから」

真摯な態度
そのテクストがすごい
正しかったり誰かを応援しているからではない
「思想地図」まわりで常に話題になっているニコ動的生成力を
語ったり分析したりではなく
どう生成力を引き入れるか
2009年はそういう時代

賢しらげにいろいろなものを引用しながら
ustとかTwitterがすごいと言う時代は終わった
今まで読んだことのない文体で書かれた批評が読みたい

これより前の発言で、具体的にどのようなものが優れているのか語られています。

僕が優れた批評文だと思うのは、
言葉が二重と言うより文体が二重
英語のようにも読めるしドイツ語のようにも読める
この前の「思想地図」の濱野君の論文
IT系の人たちもITの話だと思って読めてしまう
思想系の人たちも読めてしまう
二重性、三重性を持っているものが批評として優れている
僕の評価基準
伝える能力とはまた違った基準

社会人としても二重性を持った言葉は重要だなあと思う今日この頃。文体を二重にするレヴェルまで到達したい。広いリーチと無限の言い訳可能性が得られます。