東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第2回(10/10)

この日の授業は出席できなかったので、後で録音を聞いて講義録を作りました。わざわざ。しかしこれは今後はあんまりやりたくない作業です。まず時間がかかりすぎるのが問題。音声というのは、本当に限定された情報しか持っていないということがわかります。高速にメモるには仕草とかも重要。それに、丁寧に書きすぎてしまうというのも大きい。かかる時間を無視しても、リアルタイムに書くのはスポーツみたいで面白い一方、録音から書くのはまるで仕事のよう。

でも講義内容はとても面白いですね!

プロジェクター等の機材を使うための鍵を忘れてきたので
ちょっと取りに行ってきます
プリントが5枚あるので取って見といてください

# 8分くらい待つ

どうもお待たせしました
鍵はなかった
もしかしたらここにあるのかもしれない
教務課の人が来るかも
本当はパワポ作ったので上映したかった

先週は低調だった
今日は元気良く力を入れていこう
コピーまで持ってきたし

先週何故やりにくかったか
「ポストモダンと情報社会」ということで授業をやっている
昨年も一昨年も同じ内容で喋れと大学からは言われているにもかかわらず
毎回全ての講義録をネットにアップしてる人とかがいる
なぜか今日はいないけど

昨年までとはやり方を変えて
別の入り口から入る
昨年まではポストモダニズムは何か、
ポストモダンの概念から説明していた
そういう順番でやる必要も無い
そういう順番でやったものはネット上にある
だからやり方を変える

最初は前回で言った大塚英志さんとの対談『リアルのゆくえ』、
公共性の話を詰めていく授業をしたい

この間京都の大学で講演をすることがあって
その時に使ったパワポを援用する

前回とちょっと重なるけど
授業で僕がやりたいのは情報社会をポストモダンの理論を使って説明すること

今回は現代社会はこう見えるという角度からやる
『リアルの行方』は全く話が噛みあっていない
何故かというと公共性の理解が違う
・動物化したら公共的でないという立場
・動物化してもいい公共性を考えるという立場

「動物的」というのは僕の本のキーワード
『動物化するポストモダン』という2001年の本から取っている
動物化とは一体何か
この本で僕は何を言っているか
何故オタクから社会を見なければならないのか

ポストモダン化という現象がある
1970年代くらいから始まっている
日本社会にも色々関係している
日本社会はどのように変わったのかというのは色々な観点から見られるけど、
オタクに注目する事でよく見えるというのが本の趣旨

まず大きな物語の崩壊
社会の全体性を人々がイメージできなくなる
それをオタクからみるとわかりやすくなる
この本はほぼオタク論だと思われている、
オタク論の観点からしか読まれていない
でも実際にはポストモダンは幅の広い概念

近代社会からポストモダン社会に変わりましたという話をするとき、
僕が考えているのは1970年にばっと変わったわけではなくて
もっと前から始まっていてもっと長いスパンで変わっている

一時期日本でポストモダン思想が流行したというのがあって
ポストモダンを結構狭く使っている人が多い
オタクの世代論、
1980年代生まれはポストモダン、
60年生まれの人は近代で、という捉え方をする人が多い
そういうことではない
オタクは例でしかない
大事なのはポストモダン1920年代や30年代から始まっている
ゆっくり社会を蝕んでいって
イデオロギーの崩壊的な意味で言うと1989年くらいに大きく変わった
世紀単位の話
何が変わっていったか

世紀単位の変化について2つの観点がある
・思想家達が何を言っているか
・実際に社会はどう変わったのか
世紀単位の変化というのを念頭に置いたうえで
GoogleYouTubeなどの情報技術を議論する

動物化はどういう意味か

虚構との戯れの時代
1980年代はすごく日本はメディア社会化した時代
テレビで流れている番組を嘘だと知りながら楽しむ
ちょっとシニカルな態度
それが消費者に蔓延していた
スノビズム
それに対して動物化している

ポストモダン化は動物化という現象に深く結びついている
人間が動物化していく
現代社会を捉える上で重要なコンセプト
ニュアンス的にはみんな馬鹿だって多くの人は思う
それだけではない

本が出てから7、8年経って、
本に対する批判もなんだかどうでも良いなという気がしてくる
これは社会学の本じゃない
人文とか哲学とかに興味を持って授業に出てきたなら社会学の事は忘れていただきたい
社会学は新しい学問
とても限定された方法論しか持っていない
その背後に哲学とか思想が広がっている
哲学とか思想は統計とか実証とか関係なくずっと続いている
実証や証明も無いのに偉そうなのはなぜか?という疑問はある意味では正しい
でもそれで続いてしまっている

ニーチェは色々な事を言っている
これは実証性があるのか、論証できるのかと言っても意味が無い
しかしニーチェは無意味ではない
影響も現実にたくさんある
哲学や思想はそういうもの
何か言ったからといって証明、論証できるようなものではない
そういうところで僕は仕事をしている

読んでみればわかるけど、この本はオタクの話は少なくて、
コジェーヴがどうとかジジェクがどうとか思想の話をしている
こういう仕事に批判を浴びせている人は、これは実証できるのかと言うが、
実証しなくていいと思っているわけではなくて、
哲学とか思想、批評の方法論は社会学の方法と全然違う
どうしてそれがわからなくなっているのか
僕から一回り下の読者の反応を見るとそう思う
論証とか実証がないのであればつまらないというなら
この授業は取らなくても良い
僕の仕事はそういうものではない

じゃあどんな仕事か
簡単に言うと
過去の哲学的、思想的蓄積のうえに新しいコンセプトを作る
昔の哲学者のものを新しい地点で読み直す
もともと哲学とか思想というものはすごく後ろ向きで保守的
そういう立場を選んでいる

オタク、ポストモダン、情報社会という現象を
過去の哲学的、人文的な用語がどのように再利用可能なのか
実証可能かどうかというのとは違う

動物化というのも単に動物化していることを証明しろということではなくて
過去にそういう哲学者がいた、
今の観点からはこう捉えられるという話

それがどういう哲学者かというと、
アレクサンドル・コジェーヴヘーゲル読解入門』という本がある
そこに動物化という言葉が出てくる
今の時代の感じで読むと重要に見える
結構授業っぽく読んでみたい

この本はまずどういう本か
この間も言ったけどヘーゲルというドイツ哲学者がいる
ヘーゲルの『精神現象学』という本をフランス人のコジェーヴが読むという本
『精神現象学』の注釈として作られている
その本の中に注として入っている部分

# 配られたプリントを示す

ここは東工大なので皆さんほとんど触れたことがない文章なのではないか
こういう文章をどうやって読むかというのが僕の仕事の基本

なんでこんなことを言うのか
一言で言うと、
『動物化するポストモダン』が社会学的に読まれていることに腹が立っている
というのもアレだけど、
哲学、思想、文学、僕の仕事はある種そういうものの権威付けを壊していく、
そういうものから人間はできるだけ自由であるべきだ、
ということでやってきたつもりではある
しかし『動物化するポストモダン』は基本的には哲学的な思想的な伝統に乗っかっている本
その一部分だけを取り出されて、
第三世代オタクは動物化しているというけどそんなの統計的な裏付けがあるのか、
と言われると、がっかりする以前に軽蔑
だから僕がどういうことをやっていたのか、哲学とか思想は何なのか
少し真面目に教えないといけないと思ってきた

『ヘーゲル読解入門』は読んでるとすごい謎
存在ないし空間これが自然〜云々
さっぱりたぶんわからない
こういう文章を読んでいく訓練を1、2年していくとわかりやすくなる

 人間はいったん人間としての特有性において構成されるやいなや、
 自然と対立し、それにより新たな生成を生み出していく。
とか何とか
これは何を言っているのか
コジェーヴが読んだヘーゲルの考えでは、
人間と言うのは自然と対立する
ヨーロッパの哲学では非常に重要なコンセプト
それに対して動物は自然と調和している

「人間としての特有性において構成される」という変な文章があるが、
僕達は今ホモサピエンス、
その輪郭ははっきりしていると思っている
黒人でも白人も人間
オランウータンは違う
この認識が出てきたのは18世紀後ろ
ヨーロッパに猿とか類人猿はいなかった

大航海時代で色々なところに人間そっくりな動物がいると驚く
オランウータンアボリジニの区別は自明なものではない
どこまでを人間と呼んで良いのか
そんな中で哲学的言説が作られている

人間が人間である事は何かというと、
人間は自然と対立していること
自然とともに一緒に暮らしているアボリジニは動物に分類される
それなりに実質的な意味がある
ヨーロッパの人間はそう考えていた

火が無いから木を伐採して火を作る
石を積み上げて家を作る
水が無かったら運河を掘って水を持ってくる
自然を壊していく事によって自分達の快適さを作る
それが人間を人間たらしめている
これがヘーゲルの考え

これに対して注が付いているところに、
動物化スノビズムという言葉が出てくる

また謎な文章
 したがって歴史の終末における人間の消滅は宇宙の破局ではない
歴史と言うものの終末において人間が消滅しても世界全体は壊れない
人間の消滅と言う別の概念を考えなければいけない
人間と言う概念はホモサピエンスとは違う
これは重要

ホモサピエンスは種
自然的、科学的に規定されている種と人間と言う概念は別
人間中心主義
これだと、アボリジニはホモサピエンスだけど人間じゃない、
ということが起きてくるから問題だとよく言われている

こういうホモサピエンスとは全く関係なく人間性、ヒューマニティっていうのを
種として独立して考えると言うヨーロッパの思考は徹底している

ピーター・シンガーというオーストラリアの哲学者、生命倫理学者
類人猿にも人権を与えるべきだと言っている
ヨーロッパにおいて堕胎を認めるかどうかは強い対立がある
日本はそうではない
生命、人間はどこから始まるのかは政治の問題を孕んでいる
それが政治的な対立にならない日本はちょっと頭が悪い

人間性というのをどう定義するか
人間の人間性を規定しているのは人格、パーソナリティ
ある種の主体性
ホモサピエンスだからパーソナリティを持っているとは限らない
例えば胎児
妊娠4ヶ月5ヶ月とかになると人間の形をしている
しかしそいつは人格を持っていない
それどころか生まれたすぐの人間は人格を持っていない

そこでピーター・シンガーは、
だから類人猿の方が新生児よりも人格、人権を持っている、
というラジカルな主張をする
実際オランウータンとかゴリラは頭が良い
あるテストを類人猿の成人にする、
新生児にも同じテストをする
どちらが人格があるか明らか
類人猿の方が新生児よりも持っていると彼は考える
人権、ヒューマニティから解き放ってしまっている

この人の本は面白い
『実践の倫理』今でもどこかで買えるはず
動物解放運動とかで結構有名

動物の痛まない権利、痛みを覚えないで快適に暮らす権利
そういうのに配慮しないといけない
最近EU指令か何かで出した

ピーター・シンガーが極端というわけではなくて
ヨーロッパ、オーストラリア、アメリカでは
人権という概念が人間以外にも拡張できると考えている
ホモサピエンスの中でも人間の奴もいるしそうでない奴もいる
ホモサピエンス以外も人間になれる奴はいる
これはすごく面白いことで、
だから彼等はイルカとか鯨に反応している
僕達にしてみれば明らかに人間ではない
彼等には人間に見える
下手をすると黒人よりも人間に見える
ヨーロッパの強さ、傲慢さでもある
人間とは何か、今でもリアルに政治的に問われている

『動物化するポストモダン』が英語に訳されるときに、
ポストモダニティという単語はやめてくれと版元から言われた
彼等が提案したタイトルは「データベースアニマル」
本の中に「データベース的動物」が出てくるからそれの引用だが、
もちろんエコノミックアニマルを思わせる

1970年代日本といえばエコノミックアニマルと言われていた
この言い方は結構良いんじゃないか、言う得ていると思っている
彼等は、日本人はアニマルだ、と思っていた
彼等の考える人間の要件を満たしていない
自然と対立し、言論によって自分を認識する
そして文化を高めている、というのがヨーロッパの考えている人間
単なる外国の物まねで資本蓄積している日本人はアニマルにしか見えない

そんなふうにコジェーヴは人間について考えた

したがって、だからこそ、
コジェーヴヘーゲルは人間の終焉、人間の消滅をよく言っていた
ホモサピエンスは生き残る
文明も発達する
しかし彼等の考えている人間というコンセプトがなくなる
何故か

『哲学・思想事典』
「公共性」という項目を書いた人は齋藤純一さんという人
『公共性』という本も出している
一言でいうと、公共性というのは、言論の空間のこと
「国家行政のシステムに抗して市民が公衆として形成する自発的な言説の領域」
みんなで話し合って意見を戦わせる
こういう公共性の概念と、人間という概念は密接に結びついている

公共圏、公共性という概念はどのように発展していったのか
18世紀の末、文学サロンというのがヨーロッパにあった
貴族のお膝元で人間とか何かとかそういうことを議論する
19世紀に一般化し、市民階級の人が公共圏を作るようになる
それが制度化されて言論、出版の自由が出てくる
20世紀になって大衆社会が出てきて公共圏が実現できなくなる
どうなってしまうのか

大衆社会が出てくると、
市民的公共圏みたいな、しっかりと世の中について考えて、
議論を戦わせていくことができなくなる
人間の危機
人間観が危機に脅かされる

自然というものに対立し、
歴史文化を作って言説で世界を認識し立ち位置を認識し前に進んでいく
そういう人格的な強さで捉えていた
しかし大衆社会ではそんなのはごく一部で、
大衆と言う動物がいるだけだと多くの人が思うようになる

1914年までは近代市民社会
それ以後、ロシア革命、ワイマール共和国、ファシズム
一人一人の人間が自律した個人として考えることは実は以外とできないんじゃないか
世の中が荒れていただけではない
人間性というものにも危機感があった
全体主義というものに弱くなびく時はなびく
ユダヤ人どんどん殺してこれはまずいんじゃないか

第二次世界大戦の後は人間主義批判、近代主義批判がいっぱい出てくる
人間主義近代主義に何か欠陥があって、
人間は動物に成り下がってしまったのではないか
という危機意識

フランス現代思想
1950年代後半から60年代に盛んだった
ジャンク・デリダ
ジル・ドゥルーズ
ミシェル・フーコー
ジャン=フランソワ・リオタール
まだ30代だった
色々な形で近代批判、人間中心主義批判をやっていた
第二次世界大戦という激しい危機があったから

ナチズム
ドイツというのはすごく近代化が進んでいてちゃんとした国だった
ナチズムは選挙で政権を握っている
ちゃんとした市民が選挙で選んだ政党が全体主義政党
激しい人種差別、ユダヤ人をがんがん燃やしていた
そんなこと人間やるか?
そういう驚きと反省からポストモダニズムは始まった
これは重要なこと

ポストモダニズム批判がよくある
日本では軽薄な批判が多い
日本ではポストモダニズムが軽薄だったから
ファッション、逃げろや逃げろ、スキゾやパラノとして入ってきた
でもそういうものじゃない
近代主義人間主義が行き過ぎた果てにアウシュヴィッツ
これは批判しないといけない
ということは念頭に置いても良い

コジェーヴ
この注は変な注になっていて、
最初の段落は1946年、その先は1960年代に書かれている
第二次世界大戦を経た後で、これはだめだ、近代的な人間は終わった、
と思った後に、じゃあホモサピエンスはどうやって生き残っていくのか、
ということを考えて書いた文章
言葉遊びではない
統計とかには基づいてないけど

 歴史の終末における人間の消滅は宇宙の破局ではない。
 すなわち自然的世界は、永遠にあるがままに存続する。
歴史の終焉というものがあった後も普通に世界は続いていく
しかしそこでは、人間と言うのは自然、周囲の存在と調和した動物として生存し続ける
昔人間が持っていた対立軸、環境に異議を唱えて対立する気合が失われ、
与えられた環境でぬるぬると生きていく

コジェーヴの弟子、フランシス・フクヤマ
アメリカの国務省の職員
1989年に冷戦の崩壊
『歴史の終わりと最後の人間』という論文を書いて有名になった
冷戦=歴史の終わり、だと考えた
コジェーヴ第二次世界大戦=歴史の終わり

フクヤマはその後色々な本を書いた
2000年代に入ってから、『人間の終わり』
バイオテクノロジー批判をしている
バイオテクノロジーは極めて危険、
大脳生理学が発達して鬱になったら抗鬱剤、
脳を直にコントロール
自分の気持ちを変えることによって外界と調和する
それは危険な事
人間はもともと、周りの環境を変えようとして進んでいった
自分の脳を変えてどうするんだ
人間はもう進化、発展しなくなる、ということを強調して言う
あまり話題になっていないが、とても重要な本
西洋の哲学が何を重視しているかよく表している

新種のうつ病が色々あって、
職場でだけうつ病
休日とかは元気
それは今までうつ病だと見做されていなかった
病気だと気が付かれないことが多い
普通に考えてこれは病気じゃないんじゃないか
勉強の時だけうつになるとか言われたらキレる
アメリカの基準ではうつ病になったらしい

生きてて辛いなあと思ったときに、
俺はこの人と会っている時にだけ発症するうつ病だ、
そして薬を投与して解決する
ただ脳のなかだけが解決している
病気として認定する事はそういう解決を後押しする
フクヤマが言っているのは、自然の対立というのは、
その自然は社会環境も含む
職場の中で人と対立しているということが耐えられない
他者に働きかけるのではなく、自分の脳に突っ込む
それはもう動物
周りの環境と調和することだけが目的になってきている
調和は現代社会の鍵

近代社会は対立だった
対立は重要な概念だと思われていた
大塚英志さんが僕に対して、
「意見を戦わせるのが公共性だ」と言っていたのはそういうこと

ポストモダンでは調和を目指す
環境問題、情報社会の最適化
どういうふうに色々なサーヴィスを調和させるか
色々な意見を調和させるか

セクシュアリティ
近代ではゲイはヘテロと闘わなければならない
普通の人たちと闘って、自分達の特異性を主張する
ポストモダンではゲイもいればヘテロもいる
色んな人たちがそれぞれやりたい事を発展できるように支援しましょう
大まかそういう方向に来ている
ポストモダン社会は調和を重んじる
これは僕達の社会の向かっている色んな方向を規定している

調和した動物として人間は生存し続ける
 消滅するもの、これは本来の人間である。
 すなわち、所与を否定する行動や誤謬であり、
 あるいはまた一般には対象に対立した主観である。
例によってわかりにくい
しかし多少わかるようになったのではないか
無くなってしまうのは本来の人間
対象=オブジェクト
主観=サブジェクト
オブジェクトにサブジェクトが対立する構造がなくなってしまう

GoogleとかAmazonが出てくると、
人文系の知識人たちはああいうのを気持ち悪いと言う
本がリコメンドされる
Amazonに対立して、俺は敢えてこれを買うんだと対立しても無意味
Googleの検索に対立しても無意味
その行為がGoogleAmazonのデータベースを豊かにしている
何故気持ち悪いかというとそういう構造を持っているから

例えば本屋の頑固親父が、
東は良くないからといって永井均を勧めてくるということがあったとする
すると、あの本屋の親父に対立するということはできる
Amazonはそんなことはやっていない
周りのやつはこういう本を手に取っているというデータを送っているだけ
Amazonのリコメンドに対立しても次の顧客のためになるだけ

近代的な権力、社会構造だけの話ではなくて
コジェーヴのたるい文章を読んでいるのは、
これは哲学的なものだということを知って欲しい
対立構造そのものが奪われる世界
検索エンジン協調フィルタ、何かに対立する構造を奪う
これは近代的な人間観とか哲学を学んだ人間からするととても気持ちが悪い
これが今の議論のかみ合わなさを生み出している

最近公共性といえば話題のGoogleストリートビュー
町田市の議会がGoogleストリートビューから
町田市関係の画像を削除しろという要請を出すということを決議した
もし要請したらGoogleは要請が着たら削除するという方針なので、
町田市だけなくなるということになる
次から次へとぼこぼこと自治体ごとにストリートビューがなくなるかもしれない
もしそうなったら面白い光景

ヨーロッパにおける人間の概念はそういうもの

歴史が終わると人間も終わる
ホモサピエンスが終わるのではなくて対立構造で発展する人間という概念が終わる
哲学では解釈できない新しい世界になる

僕はもともとMac派なんだけど、
ついMacの物理的な重みに耐えかねて、
ウルトラモバイルPCの世界へと突入してしまった
でもOpenOfficeとかでパワーポイントを作ったら、
あまりの字の汚さにむかついてMacで作ってpdfに落としている
ずっとMacの人間なのでWindowsは本当に汚いと感じる

1968年にコジェーヴはこの注釈に後の段落を付け加える

第一段落はホモサピエンスは種の話と人間の話は違うんだという確認

 人間が再び動物になるならば、そのもろもろの芸術や愛や遊び
 それ自体が再び純粋に「自然的」にならねばならない。そうすると、
 歴史の終末の後、人間は彼らの記念碑や橋やトンネルを建設する
 としても、それは鳥が巣を作り蜘蛛が蜘蛛の巣を張るようなものであり、
 蛙や蝉のようにコンサートを開き、子供の動物が遊ぶように遊び、
 大人の獣がするように性欲を発散するようなものであろう。

ホモサピエンスという種は満足するだろうけど幸福というものじゃない
区別して意味があるのかと誰もが疑問に思うところだが、
ヨーロッパ人は区別する
ヨーロッパの哲学はそういう意味では特殊
セックスをして満足をすることと、愛で幸福になることは原理的には違う
そんなことを考える意味とか理由はほとんどない
実際にはほとんど、いや全く同じ
何で違うのかというと、キリスト教とかが色々あるから、
とにかくそう考える、だからそういう発想になる

ポスト歴史の世界において、人間は満足するかもしれない、しかし幸福ではない
幸福と言う超越的なものはない、云々かんぬん

そして第二段落
1946年の第一段落では、
人間が動物に戻ると言う事は将来の見通しとしては考えられないことではない、
くらいに考えていた
しかし第二段落では既に歴史は終わっていたことに気付いている

 アメリカ的生活様式は、ポスト歴史の時代に固有の生活様式であり、
 合衆国が現実に現前していることは、
 人類全体の「永遠に現在する」未来を予示するものであるとの結論に導かれていった。
 このようなわけで、人間が動物性に戻ることはもはや来るべき将来の可能性ではなく、
 すでに現前する確実性として現れたのだった。

アメリカ=動物性という認識は、本質的にすごく正しい
動物性は人間の文化には依存しない
身体の快楽に焦点化した生活様式とか文化がアメリカでは発達している

9.11以降、文面の衝突とか言われている
アルカイダは本当の意味で反アメリカなのか
イデオロギー的には反アメリカだが、テクノロジーではすごくアメリカに依存している
アメリカの飛行機をハイジャックして、
アメリカの金融センターに突っ込んだということは象徴的
アメリカに対抗する文明の原理があったわけではない
アメリカのテクノロジーを使ってアメリカを襲っている

例えば
フィリピンのあたりにもアルカイダがあるらしく、それについての本
竹田いさみ『国際テロネットワーク』講談社現代新書
基本的にアルカイダはビジネスライクな組織
ネットワークのネットワーク、インターネットみたい
色々な組織がアドホックにくっついたりする鵺のような組織
貧しい少年達が竹やりで訓練しているわけではなく、ビジネスマンみたい
ビジネスクラスで移動
自動車爆弾は最も故障の少ない三菱の四駆とか使っている
PCを支給 タフブックみたいなやつをどかんと購入
ネットももちろん使いまくり
だから動画公開もできる
すごくテクノロジーに依存している
テロリストの会議もリゾートホテルでやっている
消費社会にまみれている

そういうのは昔からある
アメリカは嫌いだけど、コカコーラは飲んでいる
反グローバリズム、反米とか言う時に、2つのレヴェルを区別しなければならない
イデオロギーのレヴェルでは反米だけれど、生活のレヴェルではアメリカにどっぷり
アメリカで重要なのはアメリカ的な生活様式
イデオロギーはどうでもいい

20世紀において、アメリカの最大の貢献というのは、
民主主義とかそういう理念ではなくて、単に生活様式
コカコーラを読む、ネットをやる、僕達の着ている服もそう
週末には車でショッピングモールへ出かける
こういうタイプの生活様式
全世界にこれが広まったのは20世紀
これは生活様式に過ぎない
イデオロギーはいくらでもその上に乗れる
ここまでアメリカ的生活様式を享受していながらも、反グローバリズムを平気で言える
これってすごく矛盾している

日本のポップカルチャーもそういうところがある
中国とか韓国とかの日本けしからん死ねとか言ってる奴も日本のアニメ好きだったりする
日本のアニメが生活様式のレヴェルで受容されている
イデオロギーが脱臭されている
ポップカルチャーとか大衆文化が面白いのはそういうところ
本来はおかしい

明治維新の時に日本がヨーロッパを輸入したときはそうではない
フランス文化だけを輸入したわけではない
ドイツそのもの、フランスそのものをカポッと持ってくる
文化は民族のトータルな表現
ポップカルチャーだけ輸出するのは無理
ところがアメリカはそういうふうに輸出した
これは動物性の勝利
アメリカが20世紀にやったことは文化の動物的拡散
コカコーラを飲むのは、単に美味しいから飲む

アメリカという国がどかんと存在しているということ事態が
自分達の未来を象徴しているのでビビッた
コジェーヴが言っているのはそういうこと
彼はフランスの官僚で、それなりに視察とかしているから、
そのくらいには信頼していい話

しかしその次の段落
 私がこの点での意見を根本的に変えたのは、最近日本に旅行した(1959年)後である

この注はとても面白い注
最初の注はかなり前に書かれ、そして付け加えがあって、
でも更に違う可能性が見えてきたという

コジェーヴは誰かに入れ知恵をされて江戸時代を勉強したらしい雰囲気が漂っている
江戸時代は歴史の終末以降の世界
これはある程度わかる話
日本では歴史は戦国時代まで
今でも大河ドラマとか時代劇で人気があるのは大河ドラマとか明治維新
江戸時代は退屈
ある種停滞していた時期
歴史が動かなくなった時代

日本人の武士は命を懸けて世の中を動かす事(対立)をやめた
だからといって労働を始めたわけではない
この労働はマルクス的な使い方なのでちょっとやめる
それでいてまったく動物的ではない
人間的に生きるのをやめたのに動物的ではない

 「ポスト歴史の」日本の文明は「アメリカ的生活様式」とは正反対の道を進んだ。
 おそらく、日本にはもはや語の「ヨーロッパ的」
 或いは「歴史的」な意味での宗教も道徳も政治もないのであろう。
 だが、生のままのスノビズムがそこでは「自然的」
 或いは「動物的」な所与を否定する規則を創り出していた。

ヨーロッパ的な概念でいう人間とか対立はない
別種の人間とか対立が日本の文化にはある
それはなにか

 執拗な社会的経済的な不平等にもかかわらず、
 日本人はすべて例外なくすっかり形式化された価値に基づき、
 すなわち、「歴史的」という意味での「人間的」な内容をすべて失った価値に基づき、
 現に生きている。

すごく変な文章だけど、
社会的経済的不平等があったら、ヨーロッパでは革命とか起こらないとおかしい
日本ではその代わりあらゆる階級が単なる形だけの価値に基づいて、
形だけの価値、形だけの文化が再生産されている
かろうじて人間は生きている
こういったコジェーヴの直感はその後の歴史を見ると結構正しい

オタクは動物化している、と書いた
しかし日本は未だにスノビズムの国
格差社会
ホリエモンが居て、僕が居て、ニートが居る
結構みんな年収とか違う
でも皆同じアニメを観る
対立するはずの対立が起きない
ロスジェネは連帯しているけど、IT起業者をぶっつぶせとは言わない
オフ会とか出たら小飼弾さんに共感したという話になったりする

文化とか言説が階級的対立を駆動しない
『蟹工船』は階級闘争のために作られた小説
政治的な意味を失って、純粋に政治的に享受される
オタクってそういうもの

ガンダムみたいなロボットもの
70年代終わりから80年代にかけて作られたシリアスなロボットもの
韓国ではどのように享受される
結構ポリティカルに読まれる
徴兵制がある
北朝鮮と戦争中
ガンダムを見ると結構シリアス
日本では全然関係なく見ている
僕達の生とはまったく関係が無い
そういう切り離しがあらゆる場面で見られる
それがとてもアニメとか漫画を豊かにしているけど、
他の国から見たら異様

BL漫画を読むことは普通だったらゲイのためのゲイアート
ゲイの人たちがゲイに感情移入して楽しむ
ところが完全に切り離された女性達が受容している
良い悪いじゃない
かなり特殊

コンテンツの中の世界を形式的に受容する
これが強く発達している
この基本にあるのがスノビズム
実質的な内容を失ったところの単なる形式的な部分に着目し
文化をぐるぐるまわしていく
日本的なもの

その後の段落は面白い
 最近日本と西洋世界との間に始まった相互交流は、結局、
 日本人を再び野蛮にするのではなく、
 (ロシア人をも含めた)西洋人を「日本化する」ことに帰着するであろう。

未来形で書いているけど、事実上これはコジェーヴが望んでいること
コジェーヴとしては、アメリカ的動物性しかないということでがっかりしたんだけど
日本に来てこの方向があるじゃないかと思ったということ
ヨーロッパは日本化するべきだと言っている

80年代に浅田彰とか出てきたとき、この文章はすごく頻繁に引用される
日本人にとって嬉しい文章
歴史の最先端、しかも江戸時代から
フランスの偉い人が言っている

当時日本はすごくまだ上がっていた時代
坂本龍一村上龍のEV.Cafeに浅田彰が入っている鼎談
すごい快調
坂本龍一がNYに住み始めた頃
 最近畳とか流行ってるから、21世紀はみんな和服着て和食とか食べてるんじゃないか
 21世紀は間違いなく日本の時代になるでしょう
それが如何に滑稽だったか15年くらいすると分かる

とにかくそういう時代背景でコジェーヴの文章は一時期有名になった
『動物化するポストモダン』はそういう文章をひっくり返す
ちょっと意地悪なコンテクストを持った仕事

『動物化するポストモダン』をさーっと読んだだけではわからないと思うけど、
コジェーヴの文章はなかなか味わい深くて面白い
今年の講義はちょっと立ち止まって深く考えてみる感じでやっていく