東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第9回(12/5)

どうも
授業を始めます
例によってプリントを待っている
今日はちょっとプリントが多く時間がかかるので雑談もしない

本当は今ドゥルーズの「管理社会について」の一部を読んでいることになっていた
しかし予定を変更して、
ブログとかで問題になっていると風の噂で聞いた歴史修正主義その他に関して話す
例外版
「ポストモダンと情報社会」とは関係ない

基本的に僕が展開している主張はきわめてシンプル

まず第一に僕の立場を明確にすると、
私的には南京事件はあったと思う
 南京事件はこの際例に過ぎない、なんでもいい
数十万ではないだろうけど、数万規模であったと思う
専門家でもないのでこれ以上は言及しない

ブログを見てもぐっている人居る?
…居ない
なら構いません

二番目
公的な信念としては、こう思う

1、
南京虐殺があると断言する人
ないと断言する人
かなりのボリュームでいる
まずこれは事実

2、
ポストモダン系リベラル
絶対的な真実は無い

3、
これを合わせると、
たとえそれが個人的に腹が立つことだったとしても、
南京虐殺がなかったという人たちに対してある種の場所を与えなければならない
論理的にそう

4、
右と左の立場を逆にしても同じ

これがポストモダン系リベラルの基本的な条件

発言のポジションを与えたことで、
とんでもない奴だと糾弾する奴がいたら、
そいつはポストモダン思想もリベラリズムも何もわかっていない

あんまりこういうことはいいたくないけど、
これは論理的な帰結だから、
これがわからないのは本当に頭が悪い

次
でもこれじゃああまりにも相対主義的
ここからはちょっと頭が良い問題

ここに何かの事件があった
そうすると2つの立場がある
・歴史はすべて物語である
 僕はこの立場
・すべてが物語だったら、そういう相対主義的な立場だったら、
 最悪の物語(侵略戦争はない、田母神論文ナショナリズムおk)
 そういうものに対しても場所を与えることになるが、
 それはやってはならないのではないかという批判
 ホロコースト否認論者、南京虐殺は無かった、第二次世界大戦はなかった
 すべてが物語なら何もかも否定できる
 これでいいのか
これはまともな批判

高橋哲哉という哲学者がいる
『靖国問題』で有名
もともとジャック・デリダを専門にしている
僕の指導教官

『歴史/修正主義』2001年
野家啓一を批判している文章
まさにこの形
すごく厄介
説明するのが面倒

90年代後半は歴史修正主義が最も盛んだった
・小林よしのり新しい歴史教科書をつくる会
日本は悪い事やってなかったんじゃね、という奴が結構増えた
団塊ジュニアがダイレクトに受け取った
戦後もっとも右傾化している世代
10代が終わった頃に冷戦が崩壊し、90年代はネオリベが勝ってる経済状況
ロスジェネは就職状況が悪くて労働運動に行ったから左翼的な方向にいった

日本OK的言説がある
小林よしのり的なものに対して、
野家啓一は歴史はすべて物語だからそんなことを言うのは意味が無いと批判

僕がもともとジャック・デリダを読み始めたのは、
大学2年の時、駒場東北大学から野家啓一が集中講義にきていて、それをもぐりで聴いて、
分析哲学の文脈でもデリダが読み解けるということを知ったことがきっかけ

高橋哲哉も批判的
立場は同じ
でも高橋さんは野家さんを攻撃している

高橋さんの考え
歴史はすべて物語だから、国民の物語を立ち上げるのはよくないと野家は言う
しかしすべてが物語ならこういうものも肯定しなければいけない
野家では弱い
我々は絶対的な真実を確保しなければならない

おそらく今、どこかで展開しているらしい、僕に対するはてなサヨクの批判はこの構図
東は相対主義、東の言い方では歴史修正主義に場所を与える
高橋・野家論争を見ればはてなでブロガーがやってることはほとんどわかる

高橋さんは最終的には矛盾している
そういう立場は取れない
野家氏の方が一貫しているかもしれない
すごく素朴
その素朴さは弱さがあるよと言うために、高橋さんは無理をしている

高橋哲哉氏の話の中に、「正義」とか「正しさ」が出てくる
デリダの専門家だったので、高橋さんが言っていること、デリダが言っていることが、
本当にそうなのか、1990年の『法の力』を、
英語とフランス語で持ってきているのでお教えします

昔から思ってる
2chブログとかで吼えてる人
じゃあ質問に来い、お前知ってんの、というと何も知らない
ここに居る人たちくらいにはちゃんとしたことをお教えする
ちょっと高度な話をする
でも基本的には上のことが確認されるだけ

高橋さんは『歴史/修正主義』2001年
議論が盛り上がっていたころ
高橋さんとしても攻撃的

新しい歴史教科書に対する野家の批判が甘い、
従軍慰安婦問題に対する上野千鶴子の批判が弱い
同じロジックで語られている

歴史は複数だから、物語は複数だから、
加害者の歴史だけ語られるのはだめ、
被害者も語られなければならない
そして加害者の歴史の優位性を壊す
ところが加害者の歴史の存在を認めることになる
加害者が被害者を抑圧していたという政治的倫理的コンテクストを無視して、
単なる相対主義
抑圧していたからこそ被害者は声を上げる必要がある
絶対的に被害者の側に立つ必要がある
だから相対主義的な立場は許せない

そんなことは本当に出来るのか
それは自分自身に跳ね返ってくる批判ではないか
というのは今日後で示そうとすること

高橋哲哉さんの話もほとんどしたことがない
面倒だから
南京とか何とか書いたらはてなサヨクが知りもしないでばーっと書いたように、
彼らは党派性でうごいている
友とか敵
話を聞いてくれない
面倒だから相手にしたくない
僕は高橋さんの本もほとんど読んでる
少しはみなさん勉強したほうがいいと思ってしまった

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余談 『CLANNAD』の舞台ということで10年ぶりに母校訪問した 「ネットスター」のロケハンのひとつ 僕は役割上同じ構図を探してカメラで撮る 今の筑駒の副校長がついてくる 20年前に教わった社会科の先生 久しぶり、寄付金とか出した? とか言われながら、 ここで風子と藤林姉妹が、とか撮っている 頭がおかしくなりそう 貸し作ったから今度講演会よろしくー、 とか言われて住所とかも書かされた 高くついたロケ 厳しかった 高橋さんに似ているタイプ 真面目な歴史の先生 50くらい 「ネットスター」や『CLANNAD』も全然わからない 全然わからない人が見張っている中で、 ここでバスケットやったから、ということでバスケットやってる 過酷 自我が崩壊しそう 叫びだしたくなる 副校長を前にして、すみません今日はつまらない番組で、と挨拶 スタッフが横に居るから悪口も言えない いやつまんないってわけでもない 勝手に自分でフォロー 誰に対して話してるんだ 20年の間にクーラーが取り付けられたり、耐震補強が行われたりして、 クーラーすごいすねーと話しながら、 あのだれだれが歩いてきたこのショットは中学の下駄箱か高校の下駄箱か 同時進行 2方向と話をしている 気が狂いそう 現実と虚構の渾然一体もいい加減にしてくれ 自分でわかった 映像で渾然一体ならいいけど ネットスター対応の僕、20年前にお世話になった先生との僕 二重人格みたいになっている 寄付金だせ、何故収めないんだ 住所とか教えてなかったんで連絡来てないっすよ、とか 国立で唯一の男子校 国会か何かで国民の税金を使ってるのに男子校とは何事かとか言われ存亡の危機 だから有名な卒業生とのパイプを強くしたいと言われたり、 やばいことが期待されている予感 共学になったらいいんじゃないですか 今は期末試験の前で、この2,3日休み テレビクルーと校門通ったら中に入ったら、 高校2年生の僕の読者が3人くらいまで待っていた Twitterで情報ゲットしたらしい そいつらを案内役にしようとしたら、副校長が試験期間中だからと止めた 『CLANNAD』の筑駒の比較動画を作ってた奴も居た 多分そこじゃなくて、このベンチが普段はこっちにあってここのショット 最初から言えよw 俺がやる必要ない 俺にとって聖地でもなんでもないしなんなんだこのロケ おちゃらけたトークの間に来るかと思っていた、 シリアスなプリントがまだこない
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すごい簡単に言うと ・歴史はすべて物語 ・それは無理だろ 高橋さんが挙げるロジック トラウマ論のようなものを持ち出す 精神科医のジュディス・ハーマンを引きながら、記憶というものには、 記憶には物語記憶とトラウマ記憶の2つがある  「記憶」というのがデリダ的 トラウマ記憶は物語の外部にある 他方ではトラウマ記憶を物語にしていく トラウマを言葉にしていくのが知識人の役割 じゃあそれは誰が決めるんだ? さっきと同じ 全てが物語だ、外部にトラウマ、 それだけだと不可知論 元々加藤典洋との論争から始まっている 高橋さんの立場は、  日本人は絶対的な犯罪を犯した、償いようが無い、  第二次世界大戦の記憶の前に無限に恥じるしかない だと思われていた この本の中でいやいやそんなことを言っていないと言っている 物語は外部にトラウマみたいなものがある それを物語化していく だとするとどういうふうに物語するか 右翼の物語、左翼の物語 物語化できない傷はどうやって償うのか 戦争に行った経験はトラウマなのかもしれない どうやって言葉にして語るか あの戦争はなんら恥じることは無い、すごく重要な戦争だった、と言えるし、 すごく傷を受けた、大失敗、とんでもない、とも言える ここはすごく難しい問題 パワハラセクハラもおなじ どう物語にするかは相対的、さまざまな権力関係で決める ここにこそ政治が働く この政治が相対的だとの野家啓一は言っているから、 反論になっていない 高橋さんは、被害者の側に絶対的な真実がある、と漏らそうとしてしまっている 加害者と被害者がいるならまず被害者の立場に立つ=正義 ここで高橋さんを批判したいのではない 例えば上野千鶴子さんはこういうことを書いている 従軍慰安婦問題を、 一方に、あれは戦場での良い思い出だった、退役兵士のマッチョな無神経な物語 他方には、辱められた被害者としての物語 同じ事件を指しているとはとても思えない そういう複数性の中にいる だからこそ被害者の声に耳を傾けなければいけない じゃあ加害者の物語の存在を認めて良いのか 確かに違う なぜ野家さんや上野さんはそういう言い方しか出来ないのか そこから一歩飛び越えたら、 絶対的な真実がある、それを掴めているのはのは自分、被害者だけ、 というロジックになる もちろん加害者の物語が良いとは思っていない だから新しい歴史教科書を批判し、上野さんはアクティヴィストで頑張る しかし普遍的なロジックで言うならそういう言い方にならざるをえない 高橋さんはいとも易々と真実とか正しさで被害者のトラウマをぱっと掴む 高橋さんのある種の弱点 高橋さんの同世代にも色々なデリダ研究者が居るが、 その中でも突出して被害者の正義をナイーブに肯定している感じがする 高橋さんといえばジャック・デリダ デリダはこういうことを言う  法というのは脱構築可能だが  正義というのは脱構築不可能だ これはすごい有名 『法の力』1990年くらいの講演 Force de loi 90年代の左翼的なことをやりたいポストモダン系の人たちに受けた デリダはそれまで法や制度、いろんなものが脱構築可能だといっていた どんなものだって矛盾した立場、パラドックスを抱えている ところが90年になって急に正義は脱構築不可能だと言い出した やっぱりそうか、 すべて脱構築可能、相対主義的の外側に絶対的なトラウマ・現実があってそれは正義 デリダですらそういうことをいうんだ ということで評判になった けれども現代思想とか哲学とかやっている人間、 みんなさまざまな文章を詳細に読んでいるかというとそうでもない キャッチフレーズで捉えている これでデリダは評判が良くなってみんな引用するようになった しかし僕は、最初からなんか違うんじゃないかと思っていた 詳細に読むとこんな話ではない もっと変な厄介なことを言っている 僕と高橋さんだったら僕の方がデリダに近い 僕の立場はこう  これはもう昔から言われている話  一般的な回答を出そうと思っても無駄  全て物語、これだけが絶対的だというものもまた物語 当たり前な話 どうやって調停していくか 結局のところ、ある種の倫理 公的な倫理と私的な倫理に分裂させるしかない どういうことか 公的には、 普遍的に歴史はすべて物語 新しい歴史教科書もひとつの歴史観として認める しかし私的には絶対には認めない 公的には、いろんな歴史があるということを認める そういうシステムを認めたうえで、しかしどの歴史を選ぶのかと言ったら 俺は絶対に左翼の歴史を選ぶんだ 公的にはこう思う、のではなく、私的に表明するしかない 6月の秋葉原事件 あの時に僕としては非常に珍しく政治的な発言をした 僕の授業を来る人はだいたい飲み会目当て 先週気まぐれで飲み会に行ってしまったから今週は全然出てこない ネットで質問に来たらと呼びかけてもこない そういう連中はどうでもいい 今日は人数が少ないからこそ真面目 何で秋葉原事件でなぜ政治的な発言をしたのかと聞かれた 大澤真幸さんが編集をしている『アキハバラ発〈00年代〉への問い』という論集 そこのインタヴューで答えている 僕たちの世界においては、 ひとつのイデオロギー、政治的な立場が代表することは無い 知識人たちはこれが正しい見方であるとは言えない  これが大塚さんがぜんぜん理解してくれないこと 言えないけれども、私的に公的であるかのように言うことができるというのが僕の考え みんなマルクス主義を信じろ、信じない奴は殲滅 絶対的な真理だった しかしそれはもう保てない しかし信じることが出来ないわけではない 啓蒙もできる しかし欠けている 全員がマルクス主義を全員が信じるべきだというメタ言説が欠けている あるものが真理だと言うとき 自然科学の真理は自然が検証してくれる 仮説が間違っていたら間違う 人文科学は自己実現的 ・これが真理だ、正しい ・これが正しいと言っていることが正しい というのがセット それが人文科学的な真理の特徴 すごく厄介だし言説分析が大事になる 社会学、政治学を自然科学に還元できない 真理への考え方は2通りである みんながマルクス主義が正しいと信じなければならないという メタ言説だけ外せと僕は言う マルクス主義が正しいと私的にいうことはできる マルクス主義は正しいとみんなが信じることが正しいということはできない なぜなら大きな物語はないから それを作らない、と決めている これがほとんどわかってもらえてない これを文章にしても伝わらないのかもしれない 厄介すぎる 例えば、 秋葉原事件は若者の鬱憤、現代社会の問題の表出 だからみんな考える 僕はそう思う これはパブリック しかし本当の意味でパブリックになるには、 だからこの問題だけ考えろ、この問題こそが真実だ、と付け加える 僕はこのステップはやらない 僕は政治的にヘタレだと思われている あいつは口だけだ そのとおり ぼくはやらない 次のステップを踏み出さない それこそが倫理 ある観点からみればヘタレ それがヘタレだと思っている人たちは、ちょっと観点を間違えば暴力の担い手になる この授業は動物化と公共性について考える それと今の話はどう関係しているのか すごく密接 公共性というのはpolisとoikosの対立から出てきた polisは政治 公共的であることは政治 語源的にも日常的にもそう 動物化と政治の問題に置き換えても良い カール・シュミット『政治的なものの概念』を何回か取り上げた 何を言っているか 政治は友と敵を分けることだ 友と敵を分けることが政治 誰かが自分の存在を抹殺するかもしれないから相手を抹殺 精神的な意味でも隠喩でもない 1920年代に書かれた 未だに重要なものなのは何故か 国家とか政治は要らないのだという話はよくある 僕とかしている ポストモダンではなく、もともとリベラリズムがそういうもの まず個人が大切、個人の自由を基本に置こう 自由主義は元々英米系の思想 自由に放っておけばマーケットがうまくやってくれる ときどきマーケットがおかしくなるから補修は必要だけど 基本的に放置が一番良い シュミットはそういう自由主義が勃興している状況に対して 国家、政治が重要だと言うために書いた 今読み返してもアクチュアル この時にシュミットが考えていることは、 その人と付き合うときに自分が儲かる、正しい、美しい、 そういうのは政治的な判断ではなく、経済的判断、倫理的判断、美学的判断 政治的判断とは何か そいつと組まないと自分の存在が怪しくなる、なくなる その代わり相手は殲滅させる そういう関係が敵対関係になると政治 友と敵を分け、敵を殲滅する可能性のなかに置くのが政治 正しいことを言っている敵、付き合ったら儲かる敵もぜんぜんありうる 敵とも仲良くしたほうがみんながハッピーという奴はそもそも政治がわかっていない 相手が正しいとか関係ない 単純にやるかやられるか そこではじめて政治が起動する 政治、国家がなくなるかも知れないという連中への反論 シュミットの結論は政治はなくならないだが、 同時に、なくなったらどうなるかという文章も入っている コジェーヴの文章とすごく似ている ポスト歴史の動物たちの文章に似ている 政治とか国家とか世界全体で一つの国家になることはありえない その時には人間は友と敵の判断をなくしてしまった 正しいとか儲かるという判断しかすることがなくなり、 倒すとか政治的な意識が消滅 倒すか倒されるか、物理的存在論的になくなるかなくならないか そういう関係性にあるのが政治 世の中から国家、政治がなくなるなら 経済的、倫理的名関係の中でぐるぐるまったりと生きていくことになる これは前に配ったコジェーヴの文章に似ている シュミットはヘーゲルも参照している 共通の参照項 人間は基本的には政治的動物 何故か それは一生懸命議論するから? 集まってしゃべるから? 違う 友と敵を分ける生物だから もし国家が要らなくなるなら、友と敵を分けなくなる時 ラスキという人がいた 国家というのは色々なレイヤーがあって、色々なサーヴィス業の集合体として考えられる 大文字の国家を考えてもしょうがない、という そういうものに対してシュミットは友敵理論で批判 ガス会社、水道会社、労働組合、教会、色々な組織がある でもそいつらの誰が戦争になったら死ねというんだ 死ねというか言わないか それが政治的な団体か非政治的な団体かを分ける 絶対にそういう審級が必要 それが国家とか政治 ガス会社、水道会社がいくら集まっても、 サーヴィス提供して金もらってるだけ 政治的関係はない 政治的関係は友と敵の問題に関係している シュミットの考えでは、将来様々なレイヤーが集まって、 国家という最終審級無し、個人が様々な組織に多重所属、国境を行き来する それはもはや人間が政治的なものの概念を失った時 ほとんどコジェーヴが言ったことと同じ 僕の思想的なアイディアは何か コジェーヴとかシュミットは、 ポスト歴史の動物、ポスト政治の動物を基本的にネガティヴにみている まずいだろ、という 僕はそれを裏返そうとしている 我々は政治がなくてもいいではないか 相手に死ね、国民に死ね、殺せ、そういう権力はなくてもいい コジェーヴは、 鳥が巣をつくり、蜘蛛が巣を張り、蝉がコンサートを開く云々とかいってたけど、 それで良いじゃないか シュミットの概念ではさっき言ったような理由で、 政治と、自由主義リベラリズムは最初から相反している 自由主義は本質的に非政治的なイデオロギー 何かを批判するときには政治的なイデオロギーになるからこそ、 19世紀20世紀にかけて政治的役割を担ってきた 発想自体はもともと政治に敵対している 友敵を作らないのが自由主義 自由主義で国家を解体していったら人間が人間じゃなくなる そんなら自由主義ポストモダニズムにつくべきだ、と僕は考える ある種のヘタレ 一方では、私たちの社会はこうあるべきだと言いながら、 他方では、しかしこうあるべきだということを他人に押し付けない そういうへたれた空間世界でしかリベラリズムは存在できない シュミットは、そんなヘタレではだめだ、 最終的には何かの決断は必要、国家・政治は再来すると言っている 僕はヘタレで良いと言う だから僕は政治的な発言をしない きわめて相対的な立場であるかのようになっている 基本的に僕の立場は一般的に思われているよりも複雑 動物・オタクたちが遊んでハッピーが世界が続けば良い、ではない 近代主義自由主義ポストモダニズム、その論理的な帰結として、 人間が必ず持っていた、立派な人間たらしめていた、 政治とか公共とかのある部分を失う そういう光景を前にして、確固たる現実がほしいと議論を立てている人もいるけど、 そちら側につかない 正義は脱構築不可能だとデリダは言った 高橋さんが言っていたのに比べると厄介なことを言っている どういうことか テキストが無いとやりにくい デリダって、こういう人 つまり例えば政治っていうものを考えたときに、哲学者とか知識人だったら、 ある種の政治的な振る舞いをしなければならない しかしその中に入らない 拒絶もしない 政治的なことを言ってるのか言ってないのかわからない それがデリダ 一方に相対主義、対して決断主義 みんな物語、いやだからこそ選ぶ 『ゼロ年代の想像力』の話 相対主義が一方にあって、しかしそういう世界だから無根拠に選ばなければならない 決断主義はもともとカールシュミットの言葉 宇野さんは多分意識してないけど、「決断」はかなり哲学用語 デリダは厄介 決断するんだけど、絶えず決断不可能なものにまとわりつかれていて、 決断したのかもよくわからない それが倫理 そういうタイプの哲学者 デリダ相対主義ではない 全ては脱構築ではない 外部にトラウマ、それが正義の拠り所、とも言わない 常に自分が決断不可能なことを決断してしまった、 ということに取り囲まれながら生きていくかなー きわめてへたれた男 僕はデリダをほとんど読んでいる 高橋さんの読みと僕の読みではかなり違う 何年くらいのテキストに注目するかどう読むか なんで違いが出るのか 決断しているように見えながら、決断不可能なものにまとわりつかれている、 というのがデリダの良いところだと僕は思う 高橋さんはそっち側には注目してない 別の形で解釈している 高橋さんが正しいかもしれない 僕が正しいかもしれない デリダでそんなこといっても意味がないのかもしれない 相対主義決断主義をアイロニカルに結合 僕たちの世界は、 公的な判断、私的な判断の分裂は避けられないのでそれでいくしかない 公的にはなにも決断できない 私的にはこれでいく 南京虐殺がなかったという奴がいたら説得するだろう はてなで書いてる人たちよりも知識があるし 南京虐殺がどうか、という局面で議論を戦わすのは良い けれども、僕たちの現実では、 さまざまな言説・解釈の枠によって、無数に意味付けされている 大学院生が南京虐殺の議論で殴り合い 何の意味も無い 2人とも同じような本を読み、サイトを読み、誰かに影響を受けて喋っている 伝聞情報によって作られている言説 本当に生産的な議論が出来る人は少ない 南京事件はでかいから、みんなが語る資格があるような気がするけど、 例えば部室でレイプ  レイプだと女性が主張  男性は和姦だと主張  性行為はなかったという説 そういう話題が展開されている時に、 その真実を明らかに出来る人はすごく限られる 当事者、ある種の専門家 知り合いの知り合いとかがあいつやった、こいつを信じる、とかで喧嘩しても意味が無い 歴史もほとんどそう 南京事件の真実性も象徴に過ぎない 僕たちはもう象徴としてしか使えない 象徴に落とし込めるわけではない そういうことを絶えず自覚しながら話すべき 歴史修正主義者だ、そういうことをいってたらしいよ この部分だけが問題になっている ちゃんと具体的な問題、被害者の声、何か怒っている、 そういう関わりの局面だったら、 もっと別の語り方をするだろうし、別の問題提起をする しかし人は何かをすぐに象徴にしてしまう 高橋さんは、 従軍慰安婦問題に関してはかなり具体的にアクティヴィストに活躍していた それは素直に尊敬する 僕は出来ない レッテル張りをして友と敵を分け、 こういう発言をしたから右翼だ左翼だ それが政治について語ることだと勘違いしている多くの人達 もっとも最悪の人たち 公的と私的 公的というのは公共性の空間 公共性の空間というのは共通の世界への関心と現われのコミュニケーション ということになっている これは裏返せば、言語の世界 しかし公的空間とか公共性は言語において作られている 言語そのものが孕んでいる様々な暴力がある 言語によって捉えられないトラウマがある トラウマを物語化すると高橋さんは言う トラウマは私的なもの 誰にも語れない、親しい人にしか語れない 公に出来ない、私秘的なもの 存在そのものすらも知らせない そういうもの 本当に隠されている だからこそ公共性にもっていかなければならない しかし… # プリントが来る 一応プリント配る 3つの本からのコピー 日本語の奴がいっぱいあって、 それと『法の力』の英語・フランス語対訳 この『法の力』はもともと、 「脱構築と正義の可能性」というカンファレンスの基調講演か何か それが法学系の学術誌に載った 後々単行本にもなっている これは来週使う
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まず『歴史/修正主義』 P33「II 歴史と物語」の冒頭 何で高橋さんは相対主義を批判しているか ナショナリズムがある 日本人はこう生きていた、こういう歴史を持っている、こうするべき それに対して歴史構成主義からの批判 そんなものは作られたものだ、自明なものじゃない 延々と言われてきた ところが90年代に入って、 どうせ物語を全部作るんだったら俺らが都合の良いのを作れば良くね? この立場が新しい歴史教科書をつくる会 逆手に取ったナショナリズム 高橋さんはもともとこれを批判しようとしていた 構成主義をやってたら新しい歴史教科書を作られる それはいかんでしょ 歴史修正主義という発想に歴史構成主義が入っている 野家啓一は歴史構成主義的視点から批判しているけど、 あいつらはそれを乗り越えてやってんだからダメだろ この高橋さんの問題意識は良い P48 ここで何を言っているか 相対主義だけではダメ 論理的な批判をやってもしょうがない 論理的に唯一だとか言ってもダメ 倫理的な政治的な批判を実践することを避けることはできない それはそう 高橋さんの括弧の多さは異様 ここに新しい可能性があるのではないか どうしたんだこの括弧の数は 多分あんまり意味ない P66以下 物語の記憶、その外側にトラウマの記憶 キーポイント それを回収して物語として再構成、それが知識人の役割 そういう話を展開 P84 上野千鶴子さんを批判している P85   「日本軍<慰安婦>制度という<現実>」と  「被害女性による<強姦>という<現実>」は、  「ふたつの異なる<現実>」であって、  「どちらか一方が正しく、他方がまちがっている、というわけではない」。  もちろんこれは、「どちらも正しい」という意味でも、  「どちらもまちがっている」という意味でもないだろう。  そもそも正当/不当の判断を行わない、という意味だろう。  だがそうすると、「日本軍<慰安婦>制度という<現実>」は  実は不当な性暴力のシステムだった、という判断は宙に浮いてしまうことになる。  「不当な性暴力だった」という判断は、  「元<慰安婦>たちにとっての<現実>」にとどまるのであって、  「正しい」とも「まちがっている」とも言えない、ということになるからである。 上野の考えに従えば、いかなる判断もできない云々 弱者の側につく、としてもまずい P86  ドイツおよび西ヨーロッパでは、「ナチ・ガス室はあった」というのが  「支配的な現実」であり、ホロコースト否定論者は単に「少数派」であるだけでなく、  その活動が刑事訴追の対象になりうる「弱者」でもある。 少数派だったらホロコースト否定論者につくことになる それでいいのか 弱者や少数のために闘うとしても何らかの正しさへのコミットメントがないとまずい 運動家としてはそれでいい でも同じデリディアンとして、というのは不遜な言い方だけど、 ここで「正しさ」と言う言葉を使って良いのかという疑問が出てくる デリダはそんなに簡単にジャスティスにコミットするなんていう言い方はしないのではないか ジャスティスを不断に疑わないことがジャスティス ある種の態度として、デリディアンからジャンプをしていると僕は思う
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次に『政治的なものの概念』 2時間あれば読める 高橋さんの本もあっという間に読める P18   したがって、敵とは、競争相手とか相手一般ではない。  また反感をいだき、にくんでいる私的な相手でもない。 私的な敵と公的な敵がいる 私的な敵は人間にいっぱい居るのは当たり前 こいつ殺したいと思う奴はいっぱいいる ここで問題なのは公的な敵 シュミットの中では公と言う概念、政治という概念、友・敵という概念は ぜんぶ結びついている 何かが公的である、ならば政治的、ならば友と敵の判断 現われのコミュニケーション、共通世界とはずいぶん違う どう折り合いがつくのか考えると非常に面白い 例えば、 公的な敵が誰か決めるのが主権者 日本人の敵が誰か決めるのが日本の主権 それを指定できない国は政治的な機能を失っている でも絶対的に平和かというとそうではない その国にとっての敵は誰か、誰かに決められている 誰かに組み入れられている 今の日本だったら、アメリカに組み入れられている 日本が公的に北朝鮮が敵だとか名指せない 他の国が決めた敵、 国連のお墨付きがある敵しか敵にならない 日本はかなり政治性を失っているとシュミットはいうだろう P30   このような闘争の可能性が残らず除去され消滅した世界、  最終的に平和になった地球というものは、  友・敵区別の存在しない世界、したがって、政治のない世界であるといえよう。  その世界にも、おそらくはたいそう興味深い、さまざまな対立や対比、  あらゆる種類の競争や策謀が存在しうることであろう。  しかし、重要なことには、それを根拠として、人間達が生命を捧げるよう要求され、  血を流し、他の人びとを殺りくせよと強制されうるような対立は、  その世界には存在しえないであろう。  このばあいでも、このような政治なしの世界を、理想状態として招来しようと望むかいなかは、  政治的なものの概念規定にとっては問題ではない。 云々 コジェーヴに似ている とにかく、シュミットは否定的、というか、 政治のなくなった世界は人間が人間である限り来るわけはないと思っている でも僕は素朴に良いんじゃないかと思う ここらへんが僕の読み方の特異なところ P68   「社会国家」が、全地球・全人類を包括するばあいには、  それはしたがって政治的単位ではなく、たんに慣用上から国家と呼ばれるにすぎない。  またもし実際に、たんに経済的な、また交通技術的な単位を基礎として  全人類・全地球が統一されるのであれば、それはまだ、  まず第一に、たとえば同じアパートの居住者や、同じガス会社に加入したガス利用者や、  同じバスの旅客が、社会的「単位」であるというのと同様な意味での  「社会的単位」であるにすぎない。  この単位が、たんに経済的および交通技術的なものに留まるかぎりは、それは、敵をもたない。  ゆえに、経済党・交通党にまで高まることすら不可能であろう。  それが、この範囲を超えてなお、文化的・世界観的その他なんであれ、  「高次の」単位、ただし同時にあくまで非政治的な単位を形成しようとしたばあいには、  それは倫理と経済という両極間に中立点をさぐる消費−生産組合であるであろう。  国家も王国も帝国も、共和政も君主政も、貴族政も民主政も、保護も服従も、  それとは無縁なのであって、  それはおよそいかなる政治的性格をも捨て去ったものであるであろう。 政治的な単位は敵がないと無理 全地球がひとつの政治的単位というはありえない 火星人とかいたら違うけど ネットとグローバル資本主義によって結びついた これは単なる社会的単位 さらに育っても消費−生産組合 まさに今、ここ10年くらい思想の中では熱い注目を浴びている、 NAMとかロスジェネとかはぜんぜん政治的な単位ではない 友と敵を区別していないから お前死ねといわないから ワンアイディアしかない本だけど、かなりクリアなのでなるほどと思う P69  この地球ぐるみの経済的・技術的集中と結びつく恐ろしい権力が、  いかなる人びとの手に帰するのであろうか、ということが、  当然問題とされなければならない。  そのさいには万事がまさに「おのずとはこび」、物ごとは「おのずと管理されるであろう」、  またそのさい人びとは、絶対に「自由」なのだから、  人間の人間に対する支配など不必要になっているであろう、などと期待することによっては、  この問題は、決して片づけ去るわけにはいかない。 今でも言われてなるほどと思う  人びとが、なにをする自由をうるかが、まさに問題となるからである。  これに対しては、楽観的な推測で答えることも、  悲観的な推測で答えることも可能であるけれども、  これは結局すべて、人間学的信仰告白に帰着するものなのである。 そういう世界が存在したとして、政治の単位はどうなる  おのずからはこぶのか  政治の再来か 信仰告白しかない もちろんシュミットは悲観主義 今までの頭が良い奴はみんな悲観主義 自由主義は思考を麻痺させる だからまずい コジェーヴ的な政治なき世界 それだけで維持されるというと確かにそれは楽観主義 しかしこういうときにこそ技術的な進歩、 情報技術、コミュニケーションの技術、微細な政治的な効果、非政治的な効果 今までだったら友敵の関係をつくるところが作らなくても解決できるテクノロジーが育っている、 ということを考えなければならないと思う シュミットはそういう世界が来ることを予見しつつ、 しかしにもかかわらず友敵の問題は表れるでしょと言っている しかしそこで友敵の問題が表れないようにするにはどうすればいいか、 と僕は考える だから僕はシュミットの言葉で非政治的な思想家
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来週は『法の力』の話をする ドゥルーズはいつやるんだって感じだけど、 この問題は決着を付けなければいけない

毎度のことながらレポを取るとへとへとになりますが、今日はおそらく過去最長の分量で、さすがに指を酷使しすぎかなと思えてきました。如何に指を疲れさせず高速に打鍵するか考えなければなりません。授業の後、id:pggmid:noir_kid:takshiaikou、建築とかやってる方と四川で飯。