東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第3回(10/19)

#7分遅れて登場

どうもどうも
どうもこんにちは
3回目の授業
来週は工大祭なので休み

前回の続きの前に雑談

思想地図という雑誌を北田さんと創刊する
創刊シンポジウムを東工大をやると言う話をしたけれど
その雑誌で論文アブストラクトの公募をした
2000字だったか4000字だったかのアブストラクトを募集した
新しい書き手を見つけたい
15日締め切りで30件くらい来た

僕が設定した課題は
日本人は日本語で物事を考えるような意味について
ほとんどぶっち
無関係
課題をちゃんとやってないものを落とすと全部落ちるから
課題をちゃんとやってないものを選ばざるを得ない
82、83、84年生まれがおおい
88年生まれもいる
すごく若い
オタク論とかアニメ論が多い
俺が募集するとこうなるんだな

僕の時代に比べると
2000年代前半は思想っぽい言葉を使ってサブカルを語る空間は成熟しているが
別の空間では閉じていて
ブログの炎上を考えても
世界のブログの炎上については考えない
日本語圏のことしか考えていない
日本語圏での密度が上がったから外国の理論、事情を気に出来なくなってしまった
こういう状況の中で思想史とかを作ると
日本に閉じてしまうのが嫌だなあと思ったから
ああいう課題を設定した
しかしそういう問題があることは認識されていない
危機意識が共有されていない
深刻な問題

情報社会、ネットコミュニケーション
理論としては外国のものを読むけれど
世界のネットがどうなっているかは関心はないと思う
僕も良く知らない
あまりにも広大だから
はてながどうなのかは安直にわかる
世界はそう簡単にはわからない
わからないから何もいえない
ネットの話をしていても意外と国内の事情に閉じている

思想地図を創刊し、
僕の推薦か北田さんの推薦のものが載る
議事録に書かれるので詳しいことは言わないが
面白いものもあった

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ポストモダニティの話をしていた ポストモダンとポストモダニティを分けなければいけない ポストモダンの特徴は3つくらいあると言う話をした 社会現象  虚構と現実の区別がつかなくなっていく  ゲームと現実の区別がつかなくなって  ひぐらしを見て斧で殺すということではない  さまざまなタイプの暴力が定義されて  どういった事件があったのかが虚構化されていく  口喧嘩で誰かが誰かを傷つける  これは微妙な問題 解釈の問題  現実がすごく不定形、心の層、言葉の層 現実の多層性が露呈していく 全体性の喪失  これから話す 権力の変容  これも後で話す
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全体性の特徴に関する話については リオタールの「ポストモダンの条件」をお勧めしておく 今でもどこかの本屋で手に入るはず 1979年に書かれたすごく古い本 リオタールはカナダのケベック州の政府から依頼されて 現代社会についてのレポートを提出した これが本になった 行政的なレポートなのでわかりやすい ポストモダンというとわけわからない感じがするがこの本は簡単 リオタール的にはポストモダンとは情報社会のことを考えている 情報技術が高くなり、近代的な知のヒエラルキーが崩れて社会が変わる 今読んでも結構面白い 「大きな物語の凋落」ということを言った 「物語」という日本語の独特な感じを十分に発揮できるヨーロッパの言葉がない 「物語」という言葉から誤解を受ける その誤解がポストモダンで日本でもてはやされた重要な要素なのかもしれない フランス語に「動物化するポストモダン」が訳される 物語はいいとして、「設定」という言葉 少なくともフランス語にはない 結局、英語だとarrangementという言葉でいこうと言った こんな簡単な文章もヨーロッパに翻訳しようとすると難しい ぜんぜん概念が違う 作品に物語と設定があるという概念がない 多様な知を統一する大きな物語とは何か 「俺は大きな物語を信じている」という反論がある でも近代の大きな物語は非常に強力なもので 一種の進歩の物語 今はそれはない 例えばイスラム教原理主義は大きな物語ではない ふつうに理解されているそれは、 「人類全部イスラム化するべきだ」ではなく 「俺たちに入ってくるな」という主張だから違う むしろアメリカの、「テロとの戦い」「悪の枢軸」と言う方が大きな物語に近い イスラム教を信じている人が多いといったことは問題ではない 「人類全部ヨーロッパ化するべきだ」、という大きな物語はない このような大きな物語論はヨーロッパでは構築されていて 僕はあまり好きではないけれど ヘーゲルという哲学者がいてこの人はかなり偉大 真に偉大な人としてはカントという人がいて 僕がカントに感動したのは 宇宙は無限なのか有限なのかは答えられない なぜか 人間が世界について認識するときに認識構造が2通りである 全てのものは有限である 物である以上、有限でないといけない 他方では 何かが有限であるならそれよりも大きいものがある 宇宙とか神はあらゆるものよりも大きい どんなものを設定してもそれより大きいのだから無限 宇宙とか神が神秘的なのではなくて私たちの世界認識に齟齬があるからだ これはエレガントの理論 世界を認識するときに世界が神秘ではなくて人間の認識に齟齬がある これは私たちの世界認識に大きな影響を与えている カントからドイツ観念論という人たちがいっぱいでてきた 19世紀 思想的にみると真に偉大なのはドイツ人でフランス語は偏狭、だと友達と話した それくらい大変豊潤な時代 ヘーゲルは 人間は常に矛盾を抱えているがそれゆえどんどん発展してきたといった AでもAの否定でもない Bが立ち上がる BでもBの否定でもない Cが立ち上がる そうやって人類は進歩してきた 高まっていく過程で、家族、国家、人類、絶対精神 人類史というのは絶対精神へ向かっている 僕の認識ではカントはエレガント、ヘーゲルはそれを宗教化している ヨーロッパは僕たちとは違うメンタリティがある ヨーロッパと言うのは常に世界の先端たる責任がある と言う考え方は僕たち日本人にはいっさいない 第二次世界大戦のときちょっとやる気になって玉砕 20世紀はアメリカの時代、おそらく21世紀もそうだろう しかしヨーロッパはぜんぜん違う強さを持っている 唯一ドルに匹敵する通貨はユーロ ヨーロッパはヨーロッパという理念がある ヨーロッパというメタアイデンティティ ガシュっとまとまる まだまだ侮れない 大きな物語はそういうヨーロッパの力と関係している 20世紀後半になってヨーロッパの力が崩壊してきた 共役不可能な言語ゲームが乱立 そもそも哲学は学の学として君臨していた だからこそ学の統一性が保たれる 図書館の分類も哲学は一番最初 そうしたメタ学問としての哲学が存在しなくなっていった もともと哲学の下になった学問が知の最先端とみなされるようになった 現代思想文化人類学マルクス主義精神分析など、 学問を導いているのは哲学ではない コンピュータの出現で情報科学という哲学とはまったく別の概念がでてきた 近代的な知の体系からはみででいる リオタールはブレインストーミングに衝撃を受けたらしい ヨーロッパの弁証法的思考では 僕が喋ると、相手が「僕はこう思う」と言って ちゃんと議論して先に進む しかしブレストは違う とにかくわらわら喋ろう 本質と関係しなくても何かアイディアが生まれるかも 今のネット上のコミュニケーションはそうなっている みんな勝手にばかばか喋っている 一部だけ引っこ抜いて勝手に議論を作ったりしている もう弁証法はない リオタールはブレインストーミングから敏感にそういったことを感じ取ったらしい 正統化justifyではなくてlegitimation 正しいかどうかではなくてちゃんと権威付けられているかどうか 知をlegitimizeするプロセスは近代においては物語 ポストモダンにおいてはパフォーマンスになる この本ではパフォーマンスは遂行性と訳されている パフォーマンスはどういうことかというと 実際にそれが正しいかどうか、知の体系にあっているかどうかではなく とにかく使えるか、目立っているか、成果を挙げているかが重要になる そういう評価基準しかなくなる ここの大学もそうだけど独立行政法人化されて 授業をして役に立ってるか、学生が喜んでいるか、 そういうところで成果を判断する 目に見える結果しかない かつてはそうではなかった 大学の知は学生を喜ばすのでもなく企業に役立つわけでもなく 伝統的な知の体系の中でそれを体現するものだった そういったところが制度にも表れている ゼロ年代の論壇の言葉で言えば断片化、サブカル化
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現実の虚構性 複数ギー・ドゥボール ジャン・ボードリヤール この2人は発音が難しいですね とにかくこの2人がいて、この2人がちょっと有名 ドゥボールは「スペクタクルの社会」 基本的には見世物の話 ボードリヤールは「消費社会の神話と構造」「象徴交換と死」 アメリカのメディア論的には他にも有名な人がいる 筒井康隆の元ネタになっているブーワスティンのテレビ社会論の方が現代的に読み直せるかも この世界は物を買っているのではなくて記号を買っている 記号が自立しているのが消費社会 物の分析ではなく記号の分析をすべき シミュラークルはもともとボードリヤールの言葉ではないけど 有名にしたのはボードリヤール 現実でも虚構でもない オリジナルでもないコピーでもない 謎の記号の領域 こういうものが現代には増えている シミュラークルが増大して資本が動くようになっている シミュラークルの上手い例はなかなか思いつかないけれど 簡単に言えばメディア社会化、虚構化、仮想現実化 アイドルマスターのグッズ販売とか?
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環境管理 僕のポストモダン論の中で一番の肝で重要な話 環境管理の前に規律訓練の話をしなければならない ミシェル・フーコーと言う人がいる アメリカではフーコー研究者をフーコーディアンという Foucaultのtがdになっている 何故なんだ 現代思想オタクの豆知識 僕はこういうところでかなりマニアックな男 こういう話がすごく大好きだった 「監獄の誕生」を書いた 1975年 非常に有名な本でフーコーの解説書とか権力論とか 近代社会の誕生はパノプティコンにあった ヨーロッパで開発された刑務所のひとつの形 真ん中に塔があって まわりに囚人の官房がある 塔から囚人は見えるが囚人から塔は見えない よくわからないけど日当たりの問題? とにかくそうらしい 誰がいつ監視しているかわからないから 常に監視されていると考えて自分を自分で律するしかない 近代的な主体を端的に表している 近代人としてしっかりしようというものではなくて 本質は自分を監視しようというものがある このメタ構造によって人は近代人になる 近代的主体とは自分を自分で監視する この思想はフーコーの思想のなかでずっと連綿としているが そもそもわりと昔からあるのだけど フーコーは自分を自分で監視することををdisciplineと呼んだ しつけという意味 何か特定の規則に基づいて特定の規則に身をゆだねている 去年も言った話だけど 僕はフランスに行って挫折した 僕はフランス語が使えない 語学学校で挫折した 10年くらい前まではトラウマになっていた 僕は遅刻をするやつで語学学校もがんがん遅刻していた お前はなってない!というときdisciplineを使う しつけのなっていない僕は語学学校も登校拒否になった 頑張ればよかったな… disciplineはいろいろなものと結びついていて 授業はまっすぐ前を向いて座ることができる 近代社会が人々に植え込んでいること 行進は軍隊から来ているけれど なんで軍隊はああいうものを導入したのか 中世の傭兵は戦いのプロフェッショナルだった しかし近代の兵隊は国民兵 徴兵によって集められた つい最近まで農民だったのにいきなり戦えない 軍隊のdisciplineとして行進が必要 学校もそれまでてきとうだったが時間を決めていった 病院も身体を制御する独特の規則を設けていった 近代社会は自分を律することを大々的に導入していった そう考えていると、現在近代が壊れているかんじがする 夜中コンビニの前で高校生がビールを飲んでいる 圧倒的にdisciplineが崩壊している感じがする 近代社会はそういう連中を強制するのが近代社会の本質 一人一人壊れていっている 学級崩壊 足元から崩れている オーウェルの「1984年」 ビッグブラザーがいて全てを監視しているディストピア SF小説みたいな社会派小説 監視社会論とかでは監視社会の象徴していてよく使われる これはパノプティコンにそっくり ネタバレになるけど、 ビッグブラザーに人々はおびえている 主人公は反発していろいろ騒動を起こして 結局ビッグブラザーはいないことがわかる 近代社会の構造そのもの 近代以前の社会では王様が現実にいる 王は主権者 普通の国民よりも圧倒的に上位にいる特権的な存在 前近代において王というのは頻繁に民衆の前に現れて 残虐な刑罰をおこなって特権性を示す 近代社会はそうではない 死刑はどこで行われているのかわからない 国が一人一人の生死を決定できる死刑は前近代まではよく人々に見せていた 死刑を廃止すべきかどうか 2chとかで吹き上がっている死刑にすべきという話は 今までの死刑廃止論とは関係なく見せしめ論に近い 近代的な秩序による信頼が壊れ始めているから わかりやすい見せしめに人々が戻ろうとしている 規律訓練の社会だから王様がいなくてもいい そういう時代が近代 ところがポストモダンの時代になるとそういう自分で自分を律することができなくなり それを再生産できなくなり維持できなくなる まず第一に大きな物語が壊れる 自分を自分で律するのはどんな価値観で律してもいいわけではない 共通の価値観を持つ必要がある ポストモダンの社会で ライフスタイル、人生設計も自由、何を信じてもいい これでは各自が各自を律してもばらばらの方向を向いてしまう 各自律しても制御できなくなる ドゥルーズ「記号と事件」のちょっと短い文章 1990年に書かれている もはや規律訓練の社会にはいない 監禁によって機能するのではない 近代の社会が人々に規律を埋め込むにはどこかに集めて 集団が同じような行動をするように鍛えていく ある種の囲い込みが重要 ところがポストモダンでは機能しなくなる 今の日本だとどんどん転職していく 入社して3ヶ月で転職が普通になっている 僕は就職したことないしそれで良いと思っているけど でも結構嘆かれている 第二新卒が転職サイトに食い物にされている!という議論もある つまりある会社の中に人が囲い込まれないということ 会社の中で規律訓練 福利厚生、寮の充実、社内結婚 人生全体が会社の中で完結する そういう時代では会社は教育、鍛錬の場 今はある組織があっても、 「俺のクリエイティヴィティを生かせない」とか何とか言ってどんどんやめてしまう まあいいと思うけど 「俺と合っていない」という自由が労働者の側になったら 規律訓練が成立しない 資格型になった 資格を転職サイトに打ち込んで年収見るとか 資格とか履歴を個人が持っていて会社、組織をわたっていく時代になった 人々はどんどん動いている どういった資格を持っている人々を管理しなければいけない 他の例 近代社会は規律訓練の社会 反社会化した犯罪者をどう更正するか 刑務所で訓練する 最近はどんどん刑務所が民営化していき成果主義になっていった 日本だとあんまりそうなっていないけど 昔だと性犯罪した人は刑務所で更正させる しかし今は 性犯罪は再犯率が高いからといって個人情報さらしてGPS付けて管理 韓国ではこのような方向になったのかな イギリスとかでもそういう話がでている 将来はそうなるだろう つまり規律訓練を信用していない 規律訓練をやってもいいけど 普段の管理と、瞬時になりたつコミュニケーション 瞬時にパトカーがやってくるとか 危ないやつを隔離して訓練して戻すと言うやり方をとらない 危ないやつがいるのはリスク、仕方ない でも常に監視する ある意味では監視社会 昔はビッグブラザー大きな国家が監視するというイメージだったが 今はビッグブラザーがないために監視社会化している 主体の自己統制を信じなくなった きちんと教育すればきちんとうまくいくことを信じない がんがんGPSチップとか埋め込む 昔は権力は人々の心の中にあった 親に「お前ちゃんと就職しろよ」といわれる、みたいな しかしポストモダンが進化していくと 誰も「お前ちゃんとしろ」と言わなくなる 言っても意味がない 内面から管理できないのであれば別の何かで管理しなければならない まさに情報技術はここで必要とされている ユビキタスとかに関係する仕事をするときには常に考えなければならないのは 人々を便利にするだけではなく管理する技術でもあるということ これは同じこと ICタグと個人認証を使って消費者を管理できるようになる 一人一人の個人的な趣味嗜好購買履歴がデータベース化されてマーケティングの材料になる 安全性を消費者が求めている セキュリティ セキュリティというと日本では子供の安全の話ばかりでうんざりする あんまりテロとか起こっていないからセキュリティというと子供の安全しかないのか 規律訓練から環境管理へ 環境と身体の直接的な管理 このように僕たちの社会は大きく形を変えていっている ポストモダン化 子供が玄関で刺されて殺された 痛ましい 子供がいるので普通に痛ましいと思う この事件に関してはユビキタス技術で助けられると思うけど 事件による不安はセキュリティ産業に向かう D・ライアン「監視社会」と言う本がある 監視社会論という日本だと左翼系の人がやっている 住民基本台帳ネット反対、人々を管理する技術はとんでもないとかなんとか これは的をはずしている ビッグブラザーが機能しなくなったからこそ監視社会化が進んでいる そもそも人々が画一化されていればこんな不安は起こらない ライフスタイルが多様化すると いわゆる「不審者」にいろいろな人が押し込められてしまう 一定の年齢になった人はちゃんと就職して昼間はぶらぶらしていない と昔は思われていた みんなのライフスタイルが一致していればセキュリティは保たれる 今は共働きの家庭も多くて昼間小学生は一人でいる メールのやりとりをして コミュニケーションの密度が上がっても不安ばかり増幅する ビッグブラザーはよくない、みたいな議論が多い中、 「監視社会」という本はそうではなく役に立つ 監視によって社会全体を調和をとらせる オーケストレイション いろんな人が勝手に楽器を鳴らす 集まって生活するためには調整をしなければならない 調整するために監視技術が必要 監視カメラがいっぱいあるから大丈夫 子供とつねにメールができるしGPSで場所もわかるから大丈夫 規律訓練に代わる社会管理 僕は不審者だといわれたことはない あったかなあ あったかもしれない 博士課程の大学院生は結構怪しい 昼間に起き出してぶらぶら 学校行けよって話だけど
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こんな感じで今日の授業はおわり 2週間後にまた