東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第10回(12/14)

# 4分遅れ

どうもこんにちは
ついに今年も最後の授業になりました
素晴らしいことですね

だいたいこの授業、本当は昨年の授業を繰り返していればいいのに
講義録をネットにアップする人やもぐりの人がいるために
多大な負担を強いられている

今日は授業中に品川ケーブルテレビというところが一瞬撮影に来る
世界文明センターはいろいろ熱心なところで
これから講演とかがあると品川ケーブルテレビと協力していく
体制を整えるための社内資料向けの撮影

だらりと雑談からはじめる

たれきっているのは何故かというと
朝8時から講演会をやらなければならなかった
国会議員の研究会のため
国会議員は偉いですね
9時から委員会があるのでそれまでの時間
8時からご飯食べながら聞いている
僕の抽象的な話
こんなの政治に役に立つのか

例によってつながりの社会性とか
国家とか公共性とか
僕の議論は突き詰めると
議員とかいらないということになってしまう
ハイブリッドに模索する必要があるとかないとか言う昼間寝てしまったので頭がぼんやりしている
朝8時から毎日研究会があるらしい
偉いですよ
僕には出来ないなー
選挙とか行かないといけないのかな
いや行ってますよ
白票投じた

それにしても8時ですよ
講演終わっても9時前
どんな世界なのか
規律訓練の極致

  • -
視覚的メタファー 近代の世界は視覚的な世界 情報世界が引き起こしていくのは非視覚的な世界 見えない、見渡せない世界 どういうことか 僕たちは社会の全体についてGoogle的なイメージしか持てない 全体が見渡せない中、好きなキーワードを出してその答えが返ってくる しかし全体は誰にも見えない 例えばパースペクティヴという言葉がある これは視覚的なメタファー 歴史的なパースペクティヴを考えた場合の例として 最近でも、昨日EUが従軍慰安婦に謝罪しろと可決した 従軍慰安婦はあったかないのかわからないけど そういう歴史認識を考えてみた場合 初期のネット論は、いろいろな情報がオープンにされてどんどん明らかになり、 正しい歴史が確定するに違いないと思われていた Wikipediaのようなもの しかしそれこそWikipediaを見ると制限中だったりする どうしてこういう争いはいつまでたっても終わらないのか 嫌韓厨は歴史的な事実を持ってくる その逆もできる 都合の良い歴史を作るのにいいツール スパイラル 竹島問題も、ググればいっぱい竹島が如何に日本の領土かとかそういう情報が出てくる 韓国語だったら違う 都合の良い情報しか見えない 過去の事実も見えなくなっていく 情報社会というのは、見えるというのが機能しなくなっていくプロセス 情報だけは集まるけれどパースペクティヴが失われる
  • -
サイバースペース〜」の連載1回目は 空間のメタファーでサイバースペースを捉えるのは良くないんじゃないかという話 その後フロイトの話 「不気味なもの」という概念がある das Unheimlich フロイトの思想的読解とかではすごく良く出てくる言葉 例えば英語だとhostileは敵対的 hostだとwelcomeみたいな感じ 親密性と非親密性を同じ言葉で表すことが度々ある das Unheimlichは家の外にあるものという意味だけど その逆の意味もある フロイトの思想ってどうなっているのかというと 流体力学のようなイメージ ここにリビドーがある ここになにもない 繋ぐとリビドーが流れる これが欲望 障害物があると溢れて変な症状が出るとか フロイトの治療は言葉の治療で うまく別のところにリビドーを流してやる そうすると症状が治まる ホメオスタシス リビドーをどうやって均衡状態に持っていくか ダムが溢れるとまずい ある時決壊してやばいのでなんとかする これはフロイト精神分析にとって大事なこと 1910年代後半から後期フロイト ちょっと立場を変える リビドーのホメオスタシスモデルを捨てて 死の欲動ということを言い出す 人間は基本的に器 普通は水面がじゃばじゃばしてそのうち安定するけど でっかいトラウマがどかーんとやってくると器が曲がってしまう ずーっとリビドーが安定しなくなる 1910年代は第一次世界大戦の時代 フロイトは孫か息子かを亡くしている それでショックということもあって死の欲動ということを言い出したといわれている また当時、トラウマ、精神的外傷が初めて発見された 戦争ですごくトラウマを受けて、自宅に戻っても幻覚とか幻聴が直らない 反復脅迫という症状 これにどう理論的に対処できるか ホメオスタシスモデルでは弱い リビドーはもう安定しないと考えるべきだ 何度も何度も反復する 自殺しようとしたり、突発的に道路で走る その欲望を開放してやれば安定するのではない 曲がった固着のようなもの 前期フロイドの外側にあるもの 前期フロイトは、リビドーは快感原則に従う 現実原則にぶつかると変になる、という簡単な話 後期フロイト第二次世界大戦後になって フランスの思想家たちに発見されて深読みされていくのは死の欲動があるから 人間は何で生きているのか 飯を食って生きていくため セックスした満足して生きていくため これだけだったら簡単 フロイトはそうではなかった とにかく死の欲動というものがあった 「不気味なもの」は、文学に死の欲動が侵入してきたもの うまく説明できるかわからないけれど 「不気味なもの」は1919年に書かれてた論文 ちくま学芸文庫あたりに入っているかもしれない なんとなくそんな気がする 短い論文で、E.T.A.ホフマンというドイツの小説家について書いたエッセイ ホフマンの小説は『砂男』とかいろいろあるけど 自動人形とかアンドロイドのようなものがいっぱいでてくる 街を歩いていると突然暗号が伝わる そういうものを見たときに我々が感じる感情の起源は何か、という変わったエッセイ フロイトが言っていることを僕流に解釈すると 虚構世界、小説世界のようなものがある この中に外側に何かが入り込んでいる 小説の中の理屈とはまったく違う理屈が断続的に入っていると 人は不気味に感じる これは「嫌い」とかとは違って快感原則のかなたにある あとは読んでください 僕はこれを使って サイバースペースは不気味なものが満ちていると考えることができないかと思った 情報技術というのは見渡すことができない 別のレヴェルで言うと 見渡すことができるというのはレヴェルが確定しているということ 議論のレヴェルが確定している 情報技術の中では コミュニケーションとメタコミュニケーションが等価になってしまう 南京虐殺について語ることはネタだった、 ということに語ることは罠だったみたいな 論理的な決定審級が確定しない それが視覚的でないということの意味なのだ、と当時言った 論理的な決定審級は不気味なものの問題として考えられている 断続的に別のレヴェルのイメージが入り込んでいる ひとつの言説がありながら常に別のレヴェルの言説が入り込んでくる これを使って空間的なメタファーを乗り越えられないか ギブスンは簡単なサイバースペースのイメージ こっち側にリアルワールド あっち側にヴァーチャルワールド スイッチするだけ 『マトリックス』もそう こっち側ではサラリーマンで、あっち側では変なものにぶくぶく漬かっていた 一対一で対応している サイバースペースは仮想空間というイメージ 実際はそうではないんじゃないか、と思った サイバースペースの登場で起こることは、 現実空間があったとしたら、 現実空間の中に別のレヴェルの空間が入り込んで、そこにもまた別の空間が入り込んで、 現実について語られているのか、メタ現実について語られているのか、 だんだんわからなくなっていく ネタだと思っていたら本当だった それが情報技術の本質、ということを言いたかった フロイトがホフマンを読んだように、 僕も小説を読もうと思った 情報技術が変えていく世界のイメージを文学化している作家はいないのか フィリップ・K・ディック この人の作品は非常に面白い この人こそ情報技術が社会をどう変えるかという観点から読み直すと面白い 『ユービック』『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』『ヴァリス』 『ユービック』1960年代 まあSFなんですけど 人間が死んだ後も死んだ人間たちが半分生きているみたいな 脳だけちょっと凍結されていて電流とか流すとなんか答えてくれる 半生状態 だんだん自分も半生状態なのではないかという疑問が生まれる 反転反転していって決定不可能な形で終わる 現実と虚構が行ったり来たりしている 行ったり来たりすることは決定不可能だということを描いている しかしまた別のモチーフがあるけど読んでもらうしかない 『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』これが一番好き こういうものを読んでいくと何が言えるか 虚構と現実を行ったり来たりというのは、ディックのあらゆる作品にみられる 私たちの生きているのは本当に現実なんだろうか ヴァーチャルワールドなんじゃないか この時は冷戦構造があった アメリカとソ連はどっちが本当のことを言っているのか 実はNASAは月に着陸しなかったとか 核兵器の基地はどこにあるのか 何が真実なのか、アメリカ側と共産圏は言っていることが違う ある種の共存関係 観念的な問題と、政治的な意識が密接に重なり合っているのが ディックのSFの特徴 ディックの基本的なモチヴェーションはどっちが真実かわからない 政治的な、観念的な状況からどうやったら脱出できるか どっちが真実なのかを考えたら救済はない これが真実だとしたらすぐにひっくり返る これが常に起こる そこで真実は別の形で描かれないといけない そこでフロイトの不気味なものというイメージ 不気味さというのはかわいさと紙一重 綺麗なのかどうかのかわからない 醜悪なんだけどかわいいもの 生きているのかどうかわからない こういったものはディックの小説にいっぱいでてくる ブレードランナーみたいな映画だとスタイリッシュになってよくわからないけど ディックの小説で特徴的なのは鞄がなんかしゃべっていてうるさい とにかくものがよく喋る しかも面白いことに、 大雑把にいうけど不気味なものとかかわいいものとかが無限後退している 一方では悪夢的 しかし不気味なものによって脱出できる これはすごく重要な意味を持つ インターネットが何を起こしているのかというと コミュニケーションが飽和していて何が真実なのかわからない 従軍慰安婦問題の編集合戦とかはまさにこのようなコミュニケーションに巻き込まれている 決定不能 何を信じることによって現実性と関わりを持っていくのか それを考えるうえで、ディックの不気味なもの、かわいいものが有効なのではないか 当時の僕はそんなことを思っていた この話はすごく面白い話で延々と続けたいけれど ポストモダンと情報社会の話から離れていく この連載でも5回目くらいからやめた いきなり連載のトーンが変わって失敗作 わかってくれたらわかるとおもうけど これは非常にアクチュアルな問題 別な言葉にすると 『東京から考える』で北田さんと論争している リベラリズムの課題  僕はこんなにリベラル  他者がきたらリベラリズムを拡張していく  終わらない リベラルの方法論に似ている そういうことをいくらやってもダメなんだというのが脱構築 『東京から考える』では僕はローティの話をしている 小さい共感性で事実性によって乗り越えるしかない ほとんど何も考えていない、子供が出来て馬鹿になった、と思われるかもしれないけど 真実は何か、無限後退、論理的な後退のロジックは結局人をどこにも導かない 突破するには不気味なものへの現実的な接触しかない それが『東京から考える』だと、ロールズ対ローティの話になっている この問題は哲学的にもっと深くも言えるけど 何かについて立ち場を決定するときにどこで何を基準にするのか 不気味なものでフロイトが考えようとしたことは大きな意味を持っていて ディックの作品も大きな意味を持っている これは深読みではなくてディックはかなり自覚的 『パーマー・エルドリッチの三つの聖痕』 ヴァーチャルトリップを行うには2つの方法がある ・CanD ・ChewZ 2つの薬物 地球人がいて火星にいく 不況なので火星に行ってもやることがない アメリカの古き良き60年代を懐かしむために パーキー・パット人形という人形セットを使う 昭和30年代ブームみたいなもの ジオラマを作ってCanDを飲むとその中に入る 2つの薬物が争っている CanDはよかったけどChewZが普及してまずい CanDはノスタルジーに入って効果が切れたら戻る ChewZはすごくやばくて 一回やるとパーキー・パット人形と現実の区別がつかなくなる 現実でもパーキー・パット人形の出来ことがおこったりする 現実と仮想が入り混じって不気味なものが世界に増殖していく この2つが対比的に捉えられている ChewZによってしか不況の世界を救えないみたいな話 不気味なものとして義肢義眼のようなものがでてきて教科書的 さらに言えば、もともと僕が「萌え」が使えるかなと思ったのは 不気味なキャラクターへの萌えしかないのではないかと思ったから もはや『らき☆すた』しかないという話になっても困る すごく洗練させると使えるのかもしれない 文学のイメージの話だったのでピンと来ない人には来ない とにかくこういうことをやっていた 4章目まではそういう話 読者を置いてけぼりにしているのではないかと思ったので 5章目から大きく方向転換した
  • -
視覚的なメタファーは近代で、 視覚的なメタファーを超えたところにポストモダン この話を別の観点から 前にも言ったけど元々、精神分析というのはすごく映画に近い構造を持っている どういうことか図で説明する ラカンの1960年代前半に書かれた、「精神分析の4つの基礎概念」 ラカンのセミネールでは一番いいセミネール すごくわかりやすい # 図がプロジェクタで見せられるけどそれらは省略 そもそも人間はどのようにして世界を認識するのか 普通に考えると、ここに他者がいてここに自分がいる そしてこれが世界 私は他者を見る 私が他者を見て、他者の物真似をする 他者に自分のイメージを仮託する あの人みたいになりたい これはラカンでいうと想像的同一化 想像というのはイマジナリー、イメージによる同一化 ラカンは、人間の同一化の構造はこれだけではないという これはすごく有名な図 le regard 視線 image ecran スクリーン 主体はスクリーン上のイメージに対して想像的に同一化する ラカンの考えでは、これを全体的に見ている他者の視線がある 人間は誰かの視線に見られているということがわかる この三角形で完結しているわけではない それを包み込む大きな三角形を持っている その中では他者の視線が私を見ている 大文字の他者 この大文字の他者が私を見ている 大文字の他者にとっては、私はスクリーンに映ったものでしかない 私が誰かから見られているということに同一化するというプロセスがもうひとつある これが象徴的同一化 これはじつは哲学をやってればわかるけど 経験論的、超越論的の二重性と同じこと 他者の視線は見えない イメージとは別の回路で作られる 見えないから象徴界 言語を介してしか到達できない同一化 こういう二重構造がある これが実は映画の構造にすごく似ている 映画の観客がスクリーンを見ている スクリーンの中に映っている俳優に対して同一化する しかしシネフィルはフレームを見る 内容を見ていない ここで切り替えかー、この長まわしは何とかの影響だね、とか フレームは監督、カメラマンが作る 想像的同一化と象徴的同一化 見えるものへの同一化と見えないものへの同一化 メルロー=ポンティの晩年の仕事は『見えるものと見えないもの』『眼と精神』 メルロー=ポンティも結構面白い メルロー=ポンティとラカンも結構影響関係がある メルロー=ポンティは本のタイトルに端的に現れているが ラカンもまさにそうで 見えるものと見えないものによって私が立ち現れてくる 「サイバースペース〜」は何回も謎の隘路に入り込んでまずくなっている じゃあコンピュータのスクリーンはどうなのか カメラはない HDDしかない HDDから呼び出してくることによってイメージが作られる 向こう側にはデータベースしかなくて大文字の他者はいない コンピュータを見る主体はいったいどういう理論構成で考えるべきなのだろうか ということを考え始めた これも隘路へと突入し、やばいことになった やばさの一端として図を一つ示す ポストモダン的主体はこんな図になるんじゃないか、とか書いている もう一つその頃実はシェリー・タークルという人が話題になっていて 今はあまり語られていないけど 日本のタイトル忘れたけど ちょっとラカニアンとか精神分析入っている人で 女性の研究者でインターネットの実地調査とかしながら 精神分析用語で研究してみました見たいな本を出した なんとかスクリーン それに対してジジェクが、 「サイバースペース、あるいは幻想を横断する可能性」だったかのタイトルで 批判している 僕はタークル、ジジェク論争を取り上げた タークルが言っているのは素朴な話で ``at interface value'' ``at face value''(額面どおり)という熟語のfaceをinterfaceにした MUDというテキストベースでやるMMORPGみたいなものがあって サイバースペースの文字ベースで 寄ってたかって女性プレイヤーをレイプした事件があった 女性プレイヤーはショックを受けた これはレイプなのか そもそもMUDで遊んでいる人間は何なんだ まったくの虚構しかも文章 そこにリアリティを感じて没頭している人間にとって、リアリティは何なのか タークルはat interface value 見えているものが嘘だとしても真実だと受け取るという心理的な準備 見えていないのにもかかわらず見えているように信じる そういう心理的条件 漫画のキャラクターは嘘のキャラクター 単なる絵 しかし漫画のキャラクターに感情移入する そこに人間がいるかのように感じる そういうことを人間はできる そういう約束事のうえに作られているリアリティ とタークルはいう ジジェクがタークルにいったことは 斎藤環東浩紀にいったことの元ネタ リアリティはそもそもそういうものではない それをもっと高級に言っている 最近斎藤さんとお酒を飲んで 斎藤さんは雑誌に、象徴界は絶対に弱体化しないんだ、と書いたけど やっぱり弱体化しているらしい 参っちゃったんだよねー、とか言うので やっぱり僕が正しかったじゃないですか、とか言ったり 現実がないのに現実であるように感じる これは何なのか ジジェクはちょっとだけ面白いことを言っている ややこしい言い方なんだけど 象徴的同一化の想像的シミュレーションのようなものではないか これ一体何なのか 人間というのはときどき、見えるものよりも見えないものを信じたりする これはどう見ても便器だけどアートなんだ これが文化 見えるものでしか判断しないというのは文化的に幼稚 現代美術 村上隆の弟子のMrのハイジの絵が1500万円 こんなの誰でもかけるのに1500万円なのか、と言う人はアートをわかっていない アートは見えるものにお金を払っているわけではない その絵がすごくよく出来ているからお金を払うのではない 見えない基準で動いている そもそも最初から見えないもので判断している ポップカルチャーはぜんぜん違う 見えるものしかない だから芸術じゃないといわれる ガンダムなフィギュアが高いのはよく出来ているから 感覚判断と市場が結びつく 読んで楽しいものは文化じゃないと言われる 昔からある構造 人間の判断は見えないもの、見えるもの、二つある 僕たち人間は元々、見えないものにリアリティを感じている 見えるものだけだったらリアルだと感じない イマジネールの背後にサンボリックなものがあるから 見えないものが弱体化したから 象徴的同一化が弱体化したのを想像的同一化でシミュレーションしている その結果、同一化の対象が二重になったり、 一方では単なる文字で、レイプするレイプするぞレイプしてやんよ、とか言われて 明らかに嘘なのに本当だと感じてしまう イメージの機能によって埋め合わせる このアイディアはすごく面白い いけるんじゃないかと思った
  • -
まったく展開しなかった話だけど アニメーションの絵はぜんぜん嘘 声優の声は本物 100%嘘の絵に一応人間の声が入っている そういうことが重要なんじゃないかと考えた 知覚されるものがぜんぜん別の高度 音は世界に近い 絵は違う そういうギャップ これも撃沈 これも難しかった サイバースペースは輝かしい失敗の記念碑 アイディアばかり アイディアだけで撃沈 すごく難しいから撃沈するに決まっている 象徴的同一化の想像的シミュレーションのようなことを言おうとして 新しい主体のようなものを考えた 何を気が狂ったのかやばいことを考えてもっとでかい事をやろうとした 見えるものと見えないものの関係 見えるものはI 見えないものはS しかしながらラカンにはRがある 現実界 現実界とは一体なんだろう 現実界こそがインターネットの問題なんじゃないか 見えるものでも見えないものでもない 見える見えないは視覚のメタファー ラカン精神分析現実界の問題を横におけばわかりにくい ラカンがわかりにくいのはRが入ってくるから 現実界の話をするとラカンはわかりにくくなる 視覚的メタファーにそぐわないもの 非視覚的世界に語ろうとした人 フロイトは同じ事を不気味なものをやろうとした おおここら辺で繋がってきた これは説明するとすごく長くなるからぱっというだけにするけど これの連載で妄想気味に言っているのは アラン・チューリングの、チューリングマシンの計算可能性に関する定理 これが1936年 つまり計算機科学の起源は1936年 ラカン精神分析の有名な講演も1936年 映画とフロイトラカンチューリング、 視覚的メタファーにそぐわない現実界を計算可能性がなんとかかんとか チューリングラカンデリダもでてくる ペンローズまででてくるやばい展開
  • -
また1月にもうちょっと整理された形で続けるけど 見えるものと見えないもので言っている話は何かというと メタレベルの話 背後に見えないものがある 見えないものと見えるもので安定する これはオブジェクトレヴェルとメタレヴェルの関係を安定させるということ これで主体は統一感がもてる これは近代ヨーロッパが作り上げた主体のモデル 情報技術はすべてがフラット これは本当に計算機科学の問題と関連していて チューリングとかゲーデルが1930年代にやったのは メタとオブジェクトを等価に扱うということ これ以上言わないけど例えば 鈴木健も同じようなことを言った プログラムとデータを等価に扱えるというのは オブジェクトレヴェルとメタレヴェルを等価に扱えるということ 同じデータで処理できるということ 計算機科学の発想の根本 近代の哲学、言葉で作り上げた哲学は メタとオブジェクトを分けることが現実性だといっていた しかし等価でも思考が動いていく そこには情報を操作する主体がどう情報に接触するか 大きなパラダイムチェンジがある それを言いたかった おそらく社会学的な現象でも現れている Googleは何かについてのコメント、メタコンテンツ、メタメタコンテンツ 全部等価に表示する あいいうタイプの情報はどうして存在しているのか そもそも計算機科学はそういうものだから そういう環境になれてしまった僕達は近代の教養の体系がもっていたヒエラルキーというか、 AとBからCを生み出すような弁証法的なプロセスが作れなくなっていく 記号に対する主体の関係 メタとオブジェクトの切れ目が崩壊 デリダデコンストラクション メタとオブジェクトレヴェルと切り分けられない テクストだけを単独で読むのはありえない 今ははっきりしている 何かのブログを読むときに リンクから飛んでいく メタデータから入っていく コメントから入ってコンテンツを見る これがデフォルトのコンテンツ消費 昔は違った テレビにはまずコンテンツがあった 順番が圧倒的に変わった メタデータを介してリンクするシステム 哲学的に、先駆的に言っていたのが、デリダデコンストラクション 思弁的に電波っぽくやったのが「サイバースペース〜」
  • -
といったところなので時間が来ているようなので ここで今年は終わりにします あとは来月、といった形にしましょう 思いつきなんですが これから忘年会をやろうと思うのでこれる人はこの辺に集まってください

そんなわけで先生および学生(?)十数人と大岡山いろはで飲み。そのほとんどが正規の履修者ではないところにこの授業の特徴が表れています。二次会は自由が丘土間土間。楽しい話がたくさん聞けて大変良かったです。本当にありがたいことです。