東浩紀「ポストモダンと情報社会」2008年度第12回(1/9)

ようやく更新。もはや日記の日付に何の意味もありませんが!

どうもあけましておめでとうございます
今年もよろしく

今年の授業が今日入れてあと2回しかない
今日が9日
16日がセンター試験の前日で休み
次が23日
30日はシンポジウムの振り替えでなくなる

あと2回しかないことに授業の直前に気づいたので、
レポートの提出概要を配らなければならないがそれを忘れた
4000字くらい
2月の真ん中くらい
今期の授業は非常にイレギュラーなので、テーマは自由
あなたの考える現代社会と哲学
それさえ触れていれば、あらゆる点で自由
採点はちゃんとやる

テーマに沿ったレポートはつまらないので自由に書いてください
100点とか1人くらいは出してる
参考文献とかくっ付けたりしてください
レポートっぽく論理的っぽく

来週にもちゃんと告知する

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歴史認識問題で寄り道をしているうちに残り2回 まだ引っ張るのかと思うかもしれないけど、 この冬休み、知覧に行ってきた 鹿児島県南 特攻隊が離陸したところ 行ったことがなかったので行きたかった 基本的には指宿に行く旅行の企画 砂蒸し温泉 首まで砂につかる そんなのはどうでもいい 大事なのは知覧 知覧の特攻平和会館 改めて記憶と戦争についた思った 日本人の第二次世界大戦の記憶のひとつのパターン 大きな展示スペースの外壁は顔写真のパネル その下に、ガラス窓が斜めになった展示物を置くようなキャビネット その中に遺書が置かれている この展示は遺書と顔写真に特化している 戦争が何で起きたのか 特攻隊の役割 そういう説明はミニマム 基本的には特攻兵士たちの話 特攻する人たちはこれから死ぬのはわかってる みんな遺書とか手紙を残している 戦争が終わった後、遺族たちがそういうものを送っているのだと思う こんなに膨大な数の遺書は始めてみた 数千数の遺書 デジタルで呼び出せる ちずこちゃんごめんね、コリントはできないけど、 何とかかんとか、お母さんも元気で、さようなら、死ぬ そういうのが莫大にある 結論を出すつもりはないけど、 戦争をどう記憶するか 日本ではこういうふうに記憶しているという感じ 誰が加害者、誰が被害者 遺書は全部無化する力がある すべてプライヴェートな記憶 政治については語られない 想像するよりも遥かに右翼臭、靖国臭はない 単なるプライヴェートな呟きの集合 政治はない 行くといきなり人が泣いている ぐすぐす 滂沱な涙 そこにある感覚は戦争とかじゃない 若い奴らが家族を残して死んでいった悲劇がただ蓄積している 関連本も売っている 買って読んだりすると、 おいおい人としてどうなんだ的なストーリーもあったりする 徹底してプライヴェート 日本人の戦争に対するひとつの傾向 大東亜戦争がどうだ、原爆がどうだ、特攻の決断がどうだという考え方ではない 人間一人一人が巨大な災害に巻き込まれた 家族たちとの情愛がどうだったか そう焦点化した物語を大量に生み出している あるタイプの人達、ある国の人たちからすると大変気持ちの悪い場所 政治性が剥奪されている 政治性の剥奪こそが最悪の政治だとも言えるけど、 第一のレヴェルではあんまり政治性はない 特攻は英雄視すべきとかあまり書かれていない 実際には特攻はあまり効果良くない 20%くらいしか当たっていないので、 日本の平和にとって役立ったとか論理的に書かれているわけではない 日本の追悼のひとつのパターン ああいう記憶の仕方をする
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今日配った資料の冒頭に英語の文章がある ピーター・シンガー 動物の解放とかで有名 動物にもある程度人権を認めるべき 胎児には人権はないから堕胎おk 物議をかましたこともある生命倫理学者 今から数年前、 オランダの新聞にムハンムドを馬鹿にした漫画が載って問題になった それと同時期に、 オーストリアホロコースト否定をしたデービット・アービングという人が投獄された ドイツとかオーストリアでナチを賛美したりすると結構犯罪になる その2つの事件を絡めて、 宗教的に重要な人間を戯画化パロディ化する権利は誰にでもある 言説の自由は大事 したがって、オランダの漫画化事件は漫画にする権利は認められないといけない 当然ながらデービット・アービングも釈放されなければならない と言っている シンガーはユダヤ人 家族はホロコーストで被害にあっている でもシンガーは、 ホロコーストを否定する言論の自由を認めなければならないと言っている シンガーはホロコーストはあったと思っている 親族が殺されている なぜ否定論者を認めなければならないのか アラーを侮蔑してはいけないとイスラム教国と一緒になってしまう 最も尊いものを他人が馬鹿にしても許す そういう世界でないと言論の自由は保てない シンガーにとってホロコーストがなかったと言われるのは、 アラーを馬鹿にされるイスラム圏の人たちと同じくらい屈辱的 でも許す 釈放もされなければいけない ホロコーストがあったか否かに関わらず否定論者の言論の自由は守られないといけない 僕の主張は荒唐無稽なことではない シンガーも言ってるし 気が向いたら読んでください
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授業に戻る 様々な価値観が共存するような社会において 南京虐殺があるという人と、ないという人 それを共存させてしまう社会 それは悪いことかもしれないけど、 リベラリズムの理念は文化相対主義に向かう もうひとつ、情報社会の発達 この2つで多様な価値観の共存という方向に向かう 基本的に是とされる 善とされる 僕たちが生きている社会 多様な価値観が共存している中で公共性とは何か ・やっぱり公共性は必要、ベースはいる ・公共性はある意味価値観フリーに設定しなければならない という対立がある この問題を扱っている フーコードゥルーズ動物化歴史認識 ずっと出てくる問題 この問題は基本的な枠組みとして持っていても悪くない リベラリズムという言葉を使わなかったとしても、 僕達が今社会で思い悩んでいる問題 まず一つ伝えておかなければならない このような発想への政治哲学の側からの応答 ロバート・ノージックの思想を紹介する いったい何者なのか 1938年生まれ 2002年に死んだ 『アナーキー・国家・ユートピア』が有名 1974年の本 思想的にはリバタリアニズム 創始者ではないが理論的な支柱 リベラリズムとは少し違う 自由至上主義と訳されたりする リベラリズム自由主義という言葉には、歴史的には変な歪みがある リベラルで自由だから国が色んなことに口を出さない 個人が自由にやればうまくいく 19世紀 古典的リベラリズム 自由放任主義 個人の自由にできるだけ任すのが元々のリベラリズムの意味 ところが20世紀に入ると、 1920年代に恐慌があり、国がマーケットに介入するという新しい国のかたちが出てくる 福祉政策を充実させる方が実はリベラリズムと呼ばれるようになってしまった 20世紀に入って大恐慌共産主義が登場 西側の陣営も結構福祉国家が充実 福祉国家をサポートしていく政治的立場がリベラリズムと呼ばれるようになった 国がマーケットに介入することを進める政治的立場を指すようになった 仕方がないので、本来のリベラリズムを指す別の言葉が必要になった それがリバタリアニズム 古典的リベラリズムの復権 自由放任主義 日本ではよくネオリベと言われる 今やあまりにも曖昧な言葉 ネオリベとか言っておけば全ての原因、悪が名指せるような感じ 規制緩和、小さい政治、自己責任 ああいうものは思想的にはリバタリアニズムに近い しかしそれにごちゃっと厄介なところがネオリベにはある リバタリアニズムはそれを削ぎ落として純粋 森村進『自由はどこまで可能か』 講談社現代新書の本の冒頭部分 結構いい本で薄い 暇があったら読んでみてください リバタリアニズム   おそらく一番わかりやすいリバタリアニズムの説明は、  諸個人の経済的自由と財産権も、精神的・政治的自由も、  ともに最大限尊重する思想というものだろう。                 リバタリアン                 /    \            リベラル         保守 尊重↑個人的自由(人格的)↓軽視\    /軽視↓経済的自由↑尊重                  権威主義 普通リベラルと言われている立場 個人的な自由、人格的自由、市民的自由、それは最大限に尊重する 一方で、大きい政府、再分配の尊重、 金持ちからなるべく多く税金取って貧乏人に渡す 累進課税相続税法人税、資本家からお金を取ることも支持する 経済的自由という点ではあまり認めていない 金持ちがどんどん金持ちになる自由は認めない それがリベラル 経済的自由はそんなに尊重しない、政治的自由は尊重する 逆に保守派 どっちかというと今ネオリベと言われているのがこのイメージ 金持ちはどんどん金持ち 若手のベンチャー立ち上げろ その代わり、雇用調整、派遣切り、 突然家も職も失い貧しくなっても自己責任 ネカフェとかうろうろしていれば? 経済的自由は尊重するけど個人的自由は尊重しない ネオコンという言葉もある ネオリベとの区別も非常に面倒くさい ネオコンサバティヴ もともとの思想は左翼にあったりする 保守的な伝統回帰と結びついている 安部政権 規制緩和を推し進める 同時に美しい日本も復活 経済的な自由でみんなが生き生きと自己責任で頑張れる為に、 伝統的価値観も復活させてセーフティーネットを張り巡らせる 道徳主義とかナショナリズム教育 と ベンチャー支援、自己責任型の規制緩和 それが結び付きがち 左にリベラル、右の保守派 しかしリバタリアンはどちらでもない 都合の良い図でリバタリアンが一番良く見える 経済的な自由も最大限 人格的自由も最大限 道徳教育、ナショナリズム教育もしない そういう立場 あらゆる意味で規制がない どういうものなのか 詳しくは森村さんの本を読んでもらうとして、 『アナーキー・国家・ユートピア』の現代的可能性について喋る 1974年 微妙な年 重要な本が色々出ている この本自体はJ.Rawlsという別の有名な政治哲学者の『正義論』 1971年 『正義論』に対する応答として書かれている 『正義論』はどういう本か 20世紀の政治哲学で重要な本10冊くらいに入る本 20世紀の政治哲学で最も重要かも 僕はあまり好きではないけど リベラルな福祉国家の哲学的基礎付けを社会契約論を復活させることで果たした リベラルな福祉国家は謎 何で金持ちが貧乏人をサポートしなければならないのか 目の前に貧乏人がいて自分が金持ちだったら、個人的にはお金をやりたくなる しかし社会制度化して必ず見知らぬ貧乏人にやらなければならない 根拠としておかしいのではないか 経済対策としてとりあえずやらないといけないというのはまあいいとして、 我々は儲かってるのになんで搾り取られないといけないのか 当時公民権運動とか色々あってアメリカも激動していた時代 金持ちから金を取って貧乏人に配る それは哲学的に根拠がある 国家はある種の社会契約に基づいていて、それはこういう原理になっているからだ それをかなり難しく書いた本 結構難しいので概念、重要なところだけ言うと、 格差原理 どういうやつか 社会的な不平等が許されるのは、 その不平等によって最も不利益を被っている人の利益を少しでも好転させる場合においてのみである あんまり好きではないから説明するのが難しい 社会的格差の存在はあっても仕方ない 全員が全員平等であるのは無理 それが許せないのは共産主義の立場 ロールズはあっても良いという ただし、許容されるのはどういう状態なのか 一つの原理がある それは、 格差があることによって、格差の中で最も不利益を被っている奴 年収だったら年収の最低ライン 格差があることによって年収の最低ラインの奴もちょっと上向く場合、 格差があってもいい いきなり全ての年収を平らにするために一気に共産主義になる みんな一気に年収500万 みんなの経済水準が落ちる 今悲惨な奴はもっと悲惨になるかもしれない なら多少格差があったほうがベター 格差の中の順番の一番下の奴も、平等な時よりちょっと上になる そういう場合において格差は許される それが格差原理 格差原理とか色々なものがあって、 リベラルの福祉国家、富を再分配することを哲学的に基礎付けたのが『正義論』 ところがその後ノージックが『アナーキー・国家・ユートピア』を書いた 富の再分配はまったく正当化できない もし国家が存在するとすれば暴力の独占装置とだけ存在する 最小国家 それだけが正当化される 富の再分配は哲学的には正当化されない もしすごい金持ちがいる 目の前に飢えている人がいる 金持ちが飢えている人に対して富を分配するべきであると思うのは勝手 しかし分配せよと命令する権利は誰にもない 何故か ノージックの哲学においては私的所有権、 自分のものは自分のものである、というのが最も重要 全ての権利はそこから発生する 人間が人間としてお互い人格として尊重していきていく中で最も重要 これを侵害しないことが社会の正義にとって徹底的に重要 例え全ての人間が自分のものは自分で処分することが正義だったとしても、 殺し合ったりするのでぎりぎり暴力の調整装置として最小国家はできる しかし金持ってるやつから巻き上げて金持ってないやつに分配する権利は誰にもない 哲学的に正当化できる唯一の国家は暴力を調整する機能しかない 警察と防衛しかない 他のあらゆる機能は拡張国家 余計なことをやっている ロールズノージックはまったく違う 私的所有という問題 人格の個別性 考えてみると面白い話 ノージックの思想はあまりにも殺伐としていて非人間的なんじゃないかという気もする 100万ドル持ってるやつが100ドルの奴に分け与えればハッピーなんじゃないか ぼんやりと思う 哲学的には最大多数の最大幸福 ベンサムに端を発する功利主義的な立場 僕が車3台持っている あなた達が自転車しか持っていない 3台目までの満足が9 4台目を買うことによってそれが10になる 1しか増えない しかし自転車しか持っていない皆さんは、僕が車をあげると0だった効用がいきなり7になる 合わせた効用は、僕からあなたたちに車を移転した方が増える したがって富は移転するべきだ 功利主義的哲学的立場 こういうのをやるのが倫理学 そういうのにロールズは近い しかし功利主義ではなく社会契約論でやった みんなの幸せを考えた 対してノージックはまず人間の個別性は絶対に尊重しなければならないという立場から始まる ノージックの方が原理主義的 どんなとんでもない奴なのかと見えるかもしれない ただ人格の個別性、私的所有の絶対性はなかなか侮れない 倫理学系の議論で引き合いに出されるのは、眼球のくじ もし目の移植に関する様々な免疫の問題がパーフェクトに解決され、 目の移植が100%安全に可能になったとする ここに2つ目を失った人がいて、 ガラガラとくじをやる 当たった両目見える奴は1つ目を移転する 当たった奴はちょっと不運かもしれないが、 圧倒的に効用が高い 腎臓とか肺とかにも言える これは良いか悪いか ここで問題になるのは、多くの人は直感的に違うと思うということ 違うと多くの人が思っている、というところから社会設計をしなければならない なぜ違うと思うのか 自分の身体は自分のものであって、 自分の身体が他人の幸せを上げる手段として使われるということに関しては同意しない 自分の目が奪われて他人が幸せになるなら問題ないと言えば問題ない けれども我々の生理的な正義感に抵触する 眼球のくじに抵抗を感じるということは、 我々は私的所有の観念からなかなか離れられないのだ だからそこから始めなければならない というタイプの議論 眼球のくじはすごくシンプルな思考実験 色々なヴァリエーションがある 興味があったら東海大学出版から出ている『バイオエシックスの基礎』 この論集が一番いい 著者名はエンゲルハート他 これを読むといい 眼球のくじの話はハリスという人の論文にある 面白い思考実験がいっぱい載っている 中絶問題に関する非常に印象的な思考実験とかもある 英米系の応用倫理学者はこういう思考実験をいっぱい作っている 極端な思考実験を仮構して人格主体を考える 大陸哲学にはない面白い伝統 どんな病気でも絶対に直す薬が完成したとか、 それは一人の人間の脳をすりつぶして二人分の薬ができる 一人殺せば二人助かる 何でこんな思考実験を考えるか 生態臓器移植をどう考えるか 1人の人間をばらばらにすれば5人助かるといったことが考えられ得る そういうシチュエーション 1人の生きいる人間をばらばらに切り刻むことを我々はしない でも何でしないのか 限りなく近い例 電車の切換器 片方が5人がいる もう片方は1人 その時にゴーッと電車が来て、避けさせないといけない 1人の方に誘導するのは倫理的に許されるかどうか 形式的には5人でも1人でも同じ これだと多くの人が1人の方にやる そういう場合には1人を犠牲にしても良いとみんなは言うらしい ところがさっきのような極端なシチュエーション みんなが臓器移植を待っていて、 そこに健康な奴が颯爽と現れてこいつ殺すと5人助かる でもそれは駄目だという その境界はどこにあるのか それを考えるのが倫理学という学問 結構面白い話なのでいくらでもできてしまうけど授業が止まる 身体の絶対的な所有は動かしがたい 人格の個別性 僕が3苦しむことによって誰かの幸せが10上がる でも3苦しめと僕に言う権利は誰にもない そういうふうに人は考えがち 倫理や快楽の単位は一人一人の人間にある この配分を社会的な単位としてやってはいけないのではないか そういう倫理的な立場 ノージックはこの立場 人格の個別性は絶対 昔から言われている話 カントの 全ての人間を目的としてだけ使って手段として使うな という有名な定言命法 定言命法仮言命法の対置語 もし〜なら〜の方がいいよというのが仮言命法 もし〜だったらというのがなくて、絶対的に人間に要請される命令 それが一つある あなたが今行動している基準が普遍的に妥当することを望むようにして行動しろ という命令 自分がやってることが、みんながやっても大丈夫なようなことだけをやれ 嘘をつく 嘘をつきたいとしても、 みんなが同時にやったら意味がない みんなが真実を喋っているときに意味がある みんなが同時に嘘をついてほしいと思いながら嘘をつくことは人間にはない 自分のやっていることの原則をみんなに普遍的に適用する そういうことを望む形で行動を制御せよ というのがカントの定言命法としてあって、 全ての人間を目的としてだけ使って手段として使うな は、そこから引き出せる幾つかの予備定理の一つ 僕があなたと喋る あなたと喋ることを目的とする それで何かを実現する、手段として使う それはやってはいけない カントの倫理 結局ノージックはそれ 僕を苦しめて他人を快を高める 僕を手段として使っている 奴隷解放とか色々なことと関係している 資本主義体制下における労働者はまさに手段 ハンナ・アーレントのlaborとworkとaction そういう労働者の阻害とかのずっと前にあるのはカントの定言命法 労働者が手段として使われているからいけない 資本の増大のための手段 労働者は労働によって自分を実現していない 単なる道具、機械、手段 実際ロボットに置き換え可能 人格である必要がない そういうマルクス主義的な資本批判 あるいはなぜ奴隷は解放されないといけないのか そういうものと人格の個別性の問題は深く関係している こいつの快楽が減ってもあいつの快楽が増えたからいいだろは許せない という倫理的な判断 人格の個別性があるということは、私的所有絶対 その人の体はその人のもの 誰にも譲り渡せない 快不快を決めるのはあくまでもその人 そこには他者は介入できない この立場から見ると、ロールズみたいな考え方は不純、原理に基づいていない 格差原理とか定言命法とか厄介な話をしてしまったが、 それを言わないと醍醐味ゼロ カタカナで書くと頭がおかしくなりそうだけど、 リベラリズムリバタリアニズムが対立していて、 リベラリズム < - > リバタリアニズム 福祉国家 < - > 最小国家 大前提として、ロールズの『正義論』はすごく評判が良い 学会ではいっぱいいろんな議論が出ている しかし現実世界を見てみると1970年代くらいから福祉国家批判が始まっている レーガンサッチャー、中曽根 民営化、規制緩和小泉改革、 小さい国家になれ もちろんその場合の小さい国家はノージックの言う小さい国家とかなりレヴェルが違う ノージックはもっともっとラディカルだけど、 すごく大きく言えば、ノージックの考えていたように、なるべく国家の機能は小さく 私的所有権 自分のことは自分で考える 自分の財産は自分で処理する 自己責任的パラダイム ノージックの言っていた方向へと世界は動いた しかし最近はそれもまずいだろうというところで、 リベラリズムパラダイムが有力になりつつあるのかもしれない 曖昧なところ
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ノージックの哲学的な魅力は何なのか 価値観が多様な世界において如何に公共性を作り出すか そこから魅力を考える どうして国家は最小でなければならないのか 『アナーキー・国家・ユートピア』の最後、 第10章でこういうことをいう 「ユートピアのための枠」 枠はframework ここで非常に重要なことを言っている 本当はもっと細かくやりたかったがせめてここだけでも P481   最初国家を越えるどんな拡張国家も、正当化はできない。  しかし最小国家の概念または理念は、渇望の対象となる魅力に欠けるのではないか。  それは、心をぞくぞくさせ、人々に闘争と犠牲の気持ちを奮い起たせることができるだろうか。  誰か一人でも、その旗の下にバリケードを築こうという気になるだろうか。 ここでノージックが言っているのは、 最小国家であるべきと言っているがそれは魅力がないかもしれない それに命を捧げる人もいない そんなのつまらんと思うかもしれない しかし違うのだということを言おうとしている ユートピアと言ったときに、最小国家ユートピアにならない しかし今やユートピアのイメージがいろんな人間によってあまりに多様 様々なユートピアがこの世界にある マルキシストのユートピア 自由主義者ユートピア ヴィトゲンシュタインテイラー、ラッセル、ピカソetcとか人名を挙げて、 それぞれの人間にとって共有のユートピア像なんかない 最小国家というのは、 いろんなユートピア共存させる最低限のフレームワーク ということを言っている 暴力の独占としての最小国家がある その上に富の再分配という別のアプリケーションが載った なんで最小国家しか認めないか そこの領域にある人は全員参加しなければならない 日本に住んでたら日本に強制的に参加 他の多くのサーヴィスは違う mixi 生れ落ちた瞬間にmixiに入らなければならないなんてことはない 国家は地域的に独占していて、絶対に加入しなければならない そういう強制力を持つものだから、できるだけ最小 しかしそれを拡張したい奴はやればいい みんなで集まって富の再分配をしたい奴は、その上にリベラル国家をつくればいい 共産主義をやってもいい 作りたい奴は作れ 最小国家の上にリベラルな再分配国家、共産主義国家、 近代産業を排除するアーミッシュみたいな国家、 そういうものを作ればいい しかしどのようなユートピアを構想したとしても、 最低限これだけは共有しているという、 あらゆる国家を作る上で共有しなければならないというフレームがある それが最小国家である 僕の理解では、基本的には、 色々なユーロピア論のOSを作るということ 様々な構想は最小国家論の上に載ってくるものなんだ フレームワークの部分は、セキュリティだけを担当している 印象論ではコンピュータに近い コンピュータやインターネットを解説するときのレイヤー セキュリティ担当の最もハードウェアに近い、低水準のソフトウェアの層 その上にアプリケーションを載っける その層だけは強制的に全てのコンピュータにインストールしなければならない というようなことをノージックは言っていると思う 政治政策、具体的な政策は置いといて、 ノージックの思想の一部を取り出して生産的に読もうとすると、 このframework for utopiaはすごく面白い章 色んなタイプの国家像があるなかで 最低限これだけは我々は共有できるよという国家像 そこには強制加入させられる 例えば自然状態で自由人として生きる 自分は殺されるかもしれないけど殺すのも自由 自然権として脅かしてくる奴は殺せる その状態は不安定だからみんなで社会契約 なんとなくそうだなと思う しかし同意しない奴がいたらどうするんだ 俺は別に社会契約なんかいらない ガンで自分で武装 小さい島国でみんな同じようなことしか考えていない日本と違って、 アメリカは結構そういう国 俺はそんな国家に入らず一人で生きていく そいつをどこまで国家に強制加入させられるのか どうしてそいつから強引に税金取れるのか 国家の基礎として危うい 僕の義理の父さんがアリゾナに別荘を持っていた 砂漠と新興住宅地の境界みたいなところで、 少し離れるとトレーラーハウスみたいなものが結構ある 朽ちたトレーラーハウスに人が住んでいる 数100m×数100m 鉄条網が張り巡らされている そこは私有地 銃とか持ってて犬とか飼ってる 自分で電気を起こしてタンクに水 義理の父さんの取材関係でトレーラーハウスの一つに入った ライフルも見せてもらった サバイバリストという 核戦争とか起きてもサヴァイヴする ゼロ年代サヴァイヴせよみたいな話じゃなくて本気のサヴァイヴァリスト 電気も起こせる 彼らの生活はハイテクに支えられている インターネットとかやってる 水は井戸ではない 車で買ってくる 高度消費社会に依存した矛盾したサヴァイヴァリスト こういう人達は国家とか全く信じていない 独自に武装 アメリカには結構いるらしい この存在は結構面白い 日本にはこういう存在はいない 北海道とかにちょっといるのかもしれないけどほとんどいない アメリカは土地が広いからこういう存在が出現する 稲葉振一郎さんの本に書いてある ホッブズとロック ロックは社会契約に入らない奴は抜ければいいと書いた ロックがその時念頭に置いていたのはアメリカじゃないか 自警団から抜けて勝手にやる 昔だったらできた 日本とかイギリスだとあまりに全ての土地に人がいるから抜けられない 足抜けしたいと思ってもどこに行っても人がいる そこは社会契約を考えるときのイメージが違うんじゃないかと 稲葉さんがある本で言っている 俺国いらないんだという連中をどうするのかという問題は国にとって常にある 理論的には常にこういう人達はいっぱいいる ソマリアの海賊 アフリカも国とか存在しているのかわからないところが勝手にある 国の外側に勝手に国を作る 中南米とか 自分たちで勝手に国みたいに自警組織、互助組織、勝手に法律作ってやっている そういう集団に対して国家は何を根拠に介入するのか 最小国家 暴力の独占装置としての国家 暴力だけはひとつの土地のなかでどこかが独占しても良いんだ 何故良いのかという論理は本を読んでもらいたい 入りたくないやつがいても、最小国家、 警察の機能、防衛の機能に関してだけはそいつから税金を取り立てて、 銃を規制する時にはそいつから銃を取り上げる、そういう根拠はある しかしその上の段階、そいつが富をがめてて、 俺は俺の金でやっていくから、 お前らの国が貧しい人間を抱えていても、俺は知らない と言われたら、そこから先は踏み出せない とノージックは言っている 同じ土地に貧しい奴も居るんだからお前金持ってるんだから金出せよとは言えない 同じ土地に居るんだから銃は持つな、その暴力の権利はよこせ、とは言える その時に富の再分配やりたい奴は、伝統主義的なコミュニティやりたい奴は、 社会的同意を以て上にコミュニティを載っけていけばいい 哲学的には、政治思想的には実は リベラリズム vs コミュニタリアニズム とよく言われる コミュニタリアニズム共同体主義) リベラル・コミュニタリアン論争が80年代の政治思想ではホットだった どういう論争か リベラリズムは普遍的な人格、人間からスタートする 人間国民一般、抽象的な議論から考える 共同体主義はその名の通りまず共同体 人間はぽつんとどこかに生まれるのはない 日本人は日本人として、 アメリカ人はアメリカ人として、 そういうコミュニティの中に生まれてくる コミュニティに対する義務がまず第一 その義務をどう果たすかというところから社会設計を考えていく それがコミュニタリアニズム リバタリアニズムは変わった構造になっている ユートピアのためのフレームワークと言うか、 コミュニタリアニズムのためのフレームワーク 上に色んなコミュニティが載っかってくる そのためのインフラ それを国家がやるべき ネットっぽくいえばすごく簡単な話 TCP/IPに支えられたネット ウェブ、HTTPでもいい HTMLのページとURL、そうしたインフラの上にGoogleが載っかったりmixiが載っかったりする mixiに入ろうがGREEに入ろうが、 ウェブブラウザをインストールしてネットに繋がなければならない 今のはメタファーなので、winnyが、とかではない まずウェブがある その後にmixiとかGREEとかそういうサーヴィスがある というようなことをノージックは言おうとしていて、 リベラリズムノージックの考え方よりも、 もっとみんなにとって良い国家は何かってことを考えている 対して、コミュニタリアニズムは俺らにとって良い国家とは何か考えている リバタリアニズムは、 みんなが俺らにとって良い国家とは何か考えた場合に最低限共通するところを考えよう というのがノージックの思想 価値中立的な公共性 アーキテクチャ的な公共性 そういうことを先駆的に言っていた仕事なのではないか ちょっと異端的解釈、僕の特殊な解釈 僕としてはそう思う 最小国家に関しても、 なんでノージックで正当化できるか さっきは本を読んでくれと言ったけれど、そのロジックもすごく面白い 普通の社会契約論においては、みんなが自然的に暴力をやっている、 みんなが諦めて、誰かに委ねて社会ができる ノージックは違う みんな暴力を振るいたい しかしみんなが合理的に振る舞うと、 なんとなく集まって俺ら守ろうぜというやつが出てきて、 じゃんじゃかでっかくなっていくと、 いつの間にか暴力を売り買いするサーヴィスが出てきて、 いつの間にか今国家と呼ばれているものに限りなく近い構造を取る、 みたいなロジック ノージックは社会契約論を内側から食い破っちゃってるところがある みんなが自分の暴力を諦めるといったプロセスを踏まなくても、 自分の体を守ろうと思ったらいつの間にか国家みたいなものはできる しかしそれでできるのは最小国家まで そこから向こう側に進むためにはある価値観にコミットして契約が必要 ここから後は拡張国家、プラグイン 基本的な国家は社会契約なしでいつの間にか自然にできてしまう 非常に面白い社会思想 これは公共性、秩序の生成を考える上で大きなヒントになる発想なのではないか 今日はここまで あと1回しかないので何を言えるのかと言う感じだけど頑張る また再来週