東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第5回(11/9)

定刻どおりに始めてみました
40分ぴったり
定刻どおりは不自然だと思う
次回からは順調に遅れる

前回はわき道にそれて話をした
風邪はまだひいている
皆さんも気をつけたほうがいい
まあ若いからいいか

さっきある雑誌の編集者と話をしていた
日本の自衛隊は平均年齢が高いらしい
普通は中卒とか高卒とかで鍛えられるはずだけど
そういう人は2割しかいない
地方公務員と同じ
試験を受けて採用されて
生活の安定のためにそのまま
昔でいう一等兵とか二等兵とかのひとが40とかで
平均も30くらい
日本の兵隊は若くない
日本とアメリカで合同訓練をすると
アメリカは20代
日本は40のおやじ
一緒に走れない
大変深刻
兵隊が年取っているからそもそも戦争できない
日本は全体的に高齢化
若者は就職する気がないし自衛隊に行く気もない
こういう国はどうなるのか
想像するにそのうち自衛隊の平均年齢は40を突破して
腹の出たおやじが一等兵とかで20代だとすげーみたいな
そんな軍隊を持った国は存在しただろうか

軍隊は若いやつがやってると思われているけど年寄りがやっている
徴兵制で若いやつをかき集める
この国は若いやつが少ないうえに若いやつはだれている
徴兵しても駄目なんじゃないか

この授業のテーマは脱社会的存在をいかに抱擁するか
そんなことを話していた

おもしろおかしい日本の暗い未来を話してると楽しいけど
それだけだと未来がないので授業もやるか

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忘れてるかもしれないけどポストモダンには3つの特徴がある 全体性の喪失  社会はこうあるべきだという規範が共有されなくなった 現実の複数化、虚構化  仮想世界とかそういう話だけではなく  消費社会では何にお金を払っているのか  ジャケットは使用価値で値段が決まるわけではない  ブランドだから高い  虚構に喜んでお金を払う 環境管理社会化  内面とか道徳を必要としない秩序維持 この3つの特徴が重なり合っているところにポストモダンの像がある 3つの違うポストモダンイデオロギー的にも 全体性の喪失 リベラルユートピア 共生社会 みんなが自由でさまざまな意見を言う お互いがお互いを尊重しあう リベラルという言葉は今は寛容という意味を表すことが多い 北田暁大『責任と正義』を読むとわかる リベラルはどこまで拡大可能か 他国を占領する自由、殺す自由、それを許してはまずい これは論理的な問題 非常に込み入った議論 僕が『エイリアン』が好き やつは『エイリアン2』が好き 新しい敵はSF映画を見ない さらに新しい敵はそもそも映画を見ない 調停者とは権力関係が発生する それを防ぐにはどうするか そんなこと考えてどうするんだというやつに対してどうするんだ ということも書いてある 環境管理社会化 いろんな考え方の人たちがいて 『エイリアン』が好き 『エイリアン2』が好き 映画見ないやつ、なにもしないやつ いろんなやつがいる そんな中でどう維持していくのか この2つのポストモダン論は思想方向的にもぜんぜん違う 前者はポストモダニズム楽天的で空想的な未来論 みんなVRにジャックインして世界中にコミュニケーションみたいな 後者は監視社会論系 インターネット社会は巨大な監視社会で云々 ネット社会は果たして幸せにするのか 前者は増す増す 後者は超まずい 相補的 mixiは小さな共同体の乱立で 好きなことを書いて好きな仲間とつながっていく 全体を支えているのはmixiのシステム そのシステムには何らかの規制がかかっている その限界を超えたら弾かれる 完全な自由ではない 昔はいろんな個人がいるときに その個人を維持するためにでっかい価値観で支えていた 教育、軍隊、病院、監獄、会社が価値観を植え込む 国家のイデオロギー装置 一人一人にイデオロギーを注入 ポストモダンではみんなばらばら イデオロギー装置もなくなっていく ばらばらを向くインフラそのものが社会の役割 監視技術が張り巡らされていく 昔だったら町のみんなを町の安全を守る 町には共同の感覚があった 今は同じ町に住んでいてもお互いに無関心 考え方も生活リズムも違う 自警団のようなもので守れない 仕方ないので監視カメラとか携帯メールで守る 一言でいうと規律訓練から環境管理 前者だけに注目すればすごく自由 田舎町では夜中3時に散歩をしたら不審者 しかし杉並区の西荻窪では2時とか3時でも平気で酔っ払いが歩いている コンビニにも常に客がいる ライフスタイルは完全に自由 何時に起きて何時に寝ても文句を言われない しかしそこには監視カメラがある 秩序によって守られた秩序 みんな新聞読んでる? 僕は読んでない 何故読まなくなったのか オートロックのマンションは下にしか新聞が届かない 朝下に行くのはいやだ ネットで済ませる 冗談じゃない だから読むのをやめた オートロック社会で新聞の配達はどうなるのか 新聞配達とか郵便局員はキーだと思っている コミュニティが崩壊した日本社会において一番コミュニティを知っている 地域社会をわかっている 杉並区にいるときヤマトの宅配業者と仲良かったけれど 彼らはすごく生活リズムを知っている 何時に僕がいなくて何時にいるのか知っている 町ではお互いは関心を持たないが流通はある 流通業者が地域的なコミュニティをすごく持つようになった ポストモダン社会では流通業は重要な役割を果たすのではないか 関心という言葉は英語だとcare careからsecurityへ 去年も言ったけれど securityという言葉は語源的にはcareがない状態を意味する careとcurは同じ語源 安心=配慮しない セキュリティ技術は人々に配慮しない技術 隣の人は、通行人は、どういう人なのか 関心を持たないと生きていけない セキュリティ技術によって関心を持たなくても生きていけるようになる 人々が本来関心を持たないといけないことを肩代わりするのがセキュリティ技術 子供にはGPSを持たせる 親が子供に対してcareし続けられない 親も仕事に行かなければならない 児童はどんどん減っているのに学童保育は需要が逼迫している 共働きと離婚した人がすごく増えている 家族形態が変わっている 関心から技術へというのはあらゆるところでおきている 人に関心をもたない生き方 ある種深刻なことで マンションで人が殺された 26歳の女性 近くのやつは30分くらい悲鳴を聞いていた おかしいなと思っていたとみんな答えているのに誰も通報しない これはすごいこと どうかと思う そんな社会でいいのか 僕が理想としている社会はそれでいいのかもしれない こりゃまずい、と考えたとしよう やっぱりみんなcareを持とう、という方向 旅行とかしてるんだったら管理人や隣人に言って帰ってきたらお土産渡す でもそれはちょっとうざいんじゃないか? 僕たちはそういうやつになってしまった そうすると必然的に技術がでてくる マイクとかいっぱいつけてやばそうな音がしたら自動的に通報するとか マンションに監視カメラいっぱいつけて不審者が入らないようにする 社会にとって良いことなのか でも僕たちが望んでいるのだからしかたない いずれにしてもそういう社会に向かっている
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ポストモダンの3つの特徴について他の側面から リベラルユートピア ポストモダニズムリベラリズム多文化主義 リオタール、デリダボードリヤール、ローティ、ロールズ 全体性の喪失の中どういうふうに世界を設計していくか リベラルとリバタリアンという言葉を説明する 去年も言った話だけど リベラルとリバタリアンは違っていて # ちなみにリベラリスト和製英語 自由主義リベラリズム これは19世紀に生まれた 個人的な自由主義 国家の規制がなく人間が自由にやる ところが20世紀に入ってリベラルという言葉の意味が変わってきた 自由主義福祉国家論 貧しい人、恵まれない人、弱者 その人たちに向けて十分な配慮にするのが本当の自由なのではないか 19世紀には福祉国家はなかった 当時のリベラルは今のネオリベラル 今は新しくリバタリアニズム 自由尊重主義 という言葉が出てきた # コミュニズム共産主義 # コミュニタリアニズム共同体主義 # 共同体主義は、コミュニティが中心になっていく感じ # 自由な個人、近代的な個人がどれだけ寛容になれるか # しかし人はどこかの生まれ落ちた土地を持つから抽象的な人間などいない # 人間はそこまで自由になれない、みたいな議論 # 「タリア」っていうのは多いけれどよくわからない # ヒュマニタリアンとか…どういうふうに訳すんだっけな リバタリアニズムは70年代に理論化されていく レーガンサッチャー福祉国家解体な政策 大きな政府から小さな政府へ 日本では中曽根がそうだった それ自体はネオリベラリズムと言われている リバタリアニズムは人文社会学系の言葉 ネオリベラリズムは政治系の言葉 リベラルが福祉国家を巻き込んでしまったことによって 失われたものを リベラリズムは弱者に優しい リバタリアニズムは個人の自由が優先される 森村進『自由はどこまで可能か』 国家の規制をなくしていった方が弱者も救われるのでは じゃあ個人の自由は何に基づくのか そもそも自由とは何かを考えるのは難しい 不自由は考えられる 自由という感覚はポジティヴにはない 政治哲学よりも心理みたいな話になるけど 自由って言うのは怪しい 人間はチョークを取りたいと思ってチョークを取る でもチョークを取りたいと思う前に、 手に対してその前にチョークを取りたいという信号を出している 人間の信号はとろくてかなり時間差がある チョークを取ると思ったときにチョークを取るには ちょっと前に信号を出さないといけない 意識下での決定 というのは認知心理に寄っている話かもしれないけど 例えば自由に散歩するというときに 歩いているということ自体を自覚しないときに自由だと思う アイザイア・バーリン『自由論』 50年代くらいの古典的なタイプの議論 強い自由と弱い自由 強い自由は自己決定 弱い自由は選択肢の多さ ・自分の意思は自分で決めるのが自由  大陸系 ・選択肢が多いのが自由  英国系 自分がこれを決定すると自覚するとそれは自由ではない 誰かを好きになったりする 自分が選択している、俺は敢えてこの人を選択していると自覚していたら それは本当に好きなわけではない 俺はこの人を好きになることが決まっていた、ならば自由 選択肢が3つあってとりあえず付き合ってみる、 というのは違うんじゃないかと言われる、恋愛とは思われない 強制されているのに自由意志だと思う 親への愛 子供への愛 親は選んでいない 俺は父親を好きなのか まったく別々の他人として自分の父親を見て 好きになるかはわからない まあしょうがない、もともといるし だからといってそれは自由意志でないわけではない 結局こういうパラドックスがある 自己決定が自由だとナチスになる ドイツに皇帝がやってきたわけではない ドイツの国民がおかしくなった ドイツは頭が良い国 民度も高い 近代的な民主的 なのになんでナチズムが発生したのか やばいのは自己決定だという議論 僕がさっき言ったのはどちらでもない われわれが本当に自由だと思うのは何も考えていないとき 自由に生活する 自由に歩き回る 迷路みたいになっていて、角ごとに10個くらい選択肢があって 毎回選択肢を迫られていたらあんまり自由じゃないと感じる 自由だと感じるときは何も考えていない 何も考えていないのに望んだものが出てくれば自由だと感じる 外部からうまい具合に導かれている、 一番管理されているときこそ自由だと感じる そんなに抽象的な話でもない 公園のホームレスをどうやって排除するか 警官に無理やり出て行かせると騒動になる なんとなく公園をホームレスが居難くさせるのがうまいやり方 ベンチでは寝れなくなっている 一見デザインに見えるのだけれど巧みにホームレスが寝れなくなっている そういうのが今はいっぱいある ホームレスの人がベンチを見て、 俺を排除していると自覚するのではなく、 ああ寝れないんだなと思って去って行く 選択肢を選ばせていない ホームレス自身は強制されているという自覚はない 自由に寝ている場所を探しているだけ Amazonのリコメンデーションとかも、 なんとなく振舞っていたら好きかもしれないものが手に入る 二層構造の問題を何回も強調するのは、 二層構造を頭に入れると 自由な社会なのか、管理社会なのか、それが両立することがわかる 僕たちの言葉は完璧ではない 今までの考え方だと自由といえば自由だし管理されているといえば管理されている 個人の自由みたいなものとGoogleの管理は両立してしまう そここそが考えるべき問題 # ローティは前者の自由をリベラルユートピアと呼んだ
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リバタリアニズムの中にノージックという人がいる 1973か74年くらいに『アナーキー・国家・ユートピア』という重要な本を書いた # 僕はボケはじめている # 固有名が出てこない # 一番いくと形容詞が出てこなくなる # 赤いんじゃなくて青でもない # もっと明るい感じ、白ではない…黄色! # これは結構やばい # そうならないように努力したい # まだ形容詞は大丈夫 ロールズの『正義論』はリベラリズム それにインパクトを受けてそれへの批判として 『アナーキー・国家・ユートピア』は書かれた ノージックのいう自由は 権源 entitlement 資格 人間個人は最終的には所有権に基づく資格を持っている その資格を分配する権利は自分にある ものを買う資格 特殊なクラブに入る資格 資格の組み合わせで自由が作られている 他人の資格を奪うことはできない 資格は抽象的だけれど最終的に根源を求めれば所有権 身体の自己処分によって基礎付けられる 他人の権源を犯してはならない ものを所有するとはなにか ・自分で物を作る ・誰のものではなかったものを発見する 今は後者は難しいけれど昔だったら大陸の奥地で金脈を発見するとか 机とか椅子とか作ってもいい 売って買って資産にする その資産も権源に基礎付けられている ロールズのジャスティスの考え方は違う 富は再分配しないといけない しかしノージックの考え方ではそれは泥棒 もちろん倫理的には金持ちが独占してしまっては良くない しかしそれを止める根拠がない 何とかしたいなら金持ちを説得するしかない 今の税金は説得ではない 否が応でも取る泥棒国家 メタユートピア 最小国家論 もし国家があるならば 共通のフレームで、万人が納得する基礎 最低限暴力の独占だけはしよう これは論理的に出てくる どんな人間は価値観に寄らず参加しないといけない それ以外はオプション 最小国家の上に、同意した人間だけが福祉国家を作る ロールズの議論は、福祉国家まで拡張可能 それこそが正義だ それは普遍的な正義だ メタユートピアはいろんな価値観が多様に存在している世界の枠組み インフラ論に近い 多様なコミュニティがいっぱいある それを支えるアーキテクチャ、インフラがある その部分はメタユートピア インフラ部分の上でどう自由に生きるか 資格の集合をどうやって判定するのか リバタリアンはこんな思考実験をする 三鷹市の作った公園はみんなが使える これは不思議なこと 昔の公園は私有地だった 今は公共に開かれている 公共空間は今はいっぱいある リバタリアンの考えではおかしい みんなが入る資格があるなんておかしい 権源がそれぞれある その人がどれだけお金を払っているかによって決定する その方が掃除や管理もうまくいく コモンズの悲劇が起こらない 道路一つ一つに関して誰が使う資格があるのか細かく決める これは実現不可能だった 情報技術はそのような管理コストを極端に下げる カードによってここ入れる、入れないということが決まることに慣れている 一人一人の権源を判断するようなシステムのインフラ まさにユビキタスが適している みんなに与えていた財を一人一人に細かく分け与えている リバタリアン的な社会を実現するために情報技術を埋め込んでいる ハイエクも重要 超有名 ベック ネグリ 9.11以降、グローバルな帝国が世界を覆って消費者が支配された このあたりも興味がある人は調べたらどうか 2層構造は重要で 2つに分かれているということは色々な発想を変えなければいけない どういうとか 2層は公と私に置き換えることもできる 大きな物語が社会秩序を維持する 大きな部分について社会論と人間の生き方が一致する われわれの社会はこうあるべきだ こうあるべく努力するやつを増やそう 戦後民主主義を大切にする→戦後民主主義を育てよう 社会にいうことと個人にいうことが一致する ポストモダン社会ではそれがすごく乖離する 3昔前だったら大学出てちゃんと就職してちゃんと会社で働けばみんな幸せ 今は何やってもいい ニートになっても良い ある特定の生き方を強制することはできない 多様な個人のかなりの部分は社会に関心なんて抱いていないのかもしれない 選挙も行かない、新聞も読まない 俺みたいなやつをどうするか そういう人がどんどん増えて行くなかでどう社会を安定させるか リベラルという立場の人たちは サヨとか揶揄されている人たち 僕と思想的には近いけれど違和感を持っている リベラルな人はみんなリベラルになるべきだと思っている 世界に対して寛容になれ、そうすればみんな寛容になる そりゃそうだろ 僕はリベラルな人を増やすことが目的ではない 8割くらいはドキュン 8割ドキュンな国をどうやって作るか 個人の生き方から切り離す ネットによってドキュンが増えた右傾化したといわれるけれど 単にそれが見えるようになっただけ 昔は情報を発信できなかった 元々この国はドキュンも多いし右翼も多い それは悪いことではない 今はそのまま露呈して出てきた 一人一人をリベラルにしようと啓蒙して行くとは別の発想から 工学的+アイロニカルな人間観 リチャード・ローティ この人も有名な人で『偶然性・アイロニー・連帯』 # こんなタイトル覚えていることを褒めてもらいたい # あと数年で忘れるね リベラルな立場を維持しようと思ったら アイロニカルな立場を取らなければいけない 公と私の分断を抱えなければならない 昔だったらマルクス主義者は革命を起こさなければならない しかしそんなことはもう主張できない マルクス主義者であってもいいかもしれないけど資本主義の君も認める そんなぬるい在り方しかない それをアイロニーという言葉で表している しかしそういうアイロニーを維持するのは難しい 変にアイロニーばっかりだと斜めから見ることしかできなくなる 生きていく指針を見つけながら、他人に通用しないのだということがわかる これは非常に難しい 日本人はどう生きるか 人間はどう生きるか 金より大事なものはあるのか 何か一つ信じたら他人にも伝えたい しかし僕たちの社会では本質的に伝えられない これはなかなかつらいこと また次回