東浩紀「ポストモダンと情報社会」2007年度第4回(11/2)

今日は、ベーシックインカムなど、昨年にはなかった切り口の話が多かったです。

# 10分強遅刻

去年もそうだったんだけど
風邪を引いた
例年この時期には僕は風邪をひく

今年もはやっているところでは流行っているそうなので
皆様も気をつけてください
今日はたらたらとローテンションでいく

雑談したいが雑談がない
風邪で倒れたくらい
去年も一回休講した

風邪は鬱になるからよくない
俺はどうしてこんなに行き詰っているんだろう
うちの娘はどうするんだろう
俺はいつまで生きるんだろう
そういう悩みはすべて風邪のせい
風邪のせいだと気が付くまでがきびしい

最近安部総理も鬱になったらしいので
鬱病は恥ずかしい病気ではないように思われてきた
だからって首相が鬱でやめるのはどうか
でも何年後か安部総理は回復して
「あの時は俺は鬱だった、でも今度は大丈夫だ」
と再チャレンジしたら日本人は受け入れてしまいそう

最近は三分の一くらいうつ病だという
これはすごい
社会人としてやっていると、仕事関係の人が結構うつ病になる
こんなんでよく社会が回ってるな、と思う
ひきこもりは100万人
島根だか鳥取だかよりも多い
いったい誰が働いてるんだと思う

# 汗を書いてきた
# やばい感じだな
# 非常によくないケースだ

働ける社会と働けない社会
これは雑談のように見えて授業と関係している
労働は生存のために必要、という考え方
誰かが働いて、働けない子供や老人、障害者の方々を養っていく
つまり生存と労働はセット
これは僕たちの頭の中に刷り込まれている
働かないやつをどうやって食わしていくか
最近のニートの問題、ワーキングプア
どういう方向で対案するかというと
ちゃんと正社員雇いましょう、労働できる環境を整えましょうという考え方が基本
しかし生存=労働は本当に正しいのか

これから高齢化社会になる
たぶんあなたたちが老人になったら全人口の三分の一が老人
これは本当にすごいこと
2050年の日本の平均年齢は55歳
10歳のやつがひとりいたら100歳のやつがひとりいる
すごい時代
実はいろいろ調べると、高齢化は地球全体の問題
ネットで厚生省か何かにアクセスすると公開されている
高齢化社会の伸びはアジアでもすごい
特に中国ですごい
うろ覚えだけど2060年だかで20億だか30億が老人になる
そんな人類社会を、労働しないと食えないという考え方で維持できるのか
20歳から60歳までの40年間だけが働ける
全人生のうちの半分しか働かない
労働するやつがお金を稼げる
労働しないやつは扶養の対象
という考え方では対応できなくなる

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どのように授業と関係するのかというと 国家というのはどういうものかを考えている いろんな国の像があるが次の3つを考える ・暴力の独占装置(夜警国家)  夜中とかに盗人のような犯罪者がうろうろするのを取り締まる ・富の再配分装置(福祉国家)  20世紀にすごく出てきた考え方  稼げる人は税金を納めて稼げない人に配分して生活  資本主義だとすごく金持ちとすごい貧乏人が出てくるけどあまりひどくならないようにする ・共感の調達装置(ナショナリズム)  毎日毎日新聞とかで北海道や沖縄の事件を読んで共感する  福岡で暴走した車がワゴンに突っ込んで死んだりして犯人死ねとか2chで盛り上がったりする  でも上海で同じ事件が起きると何も共感は起きない  中国人は死んでよかったとか2chで書かれる  起きるかもしれないが共感の起きかたがちがう  共感の範囲を設定する機能が国にはある 後の2つは歴史が浅い 国は人類が始まったときからあった、という時の国は夜警国家 それを象徴する話をWikipediaで読んだ Wikipediaによるとパスポートの歴史は極めて浅く、 第一次世界大戦前は多くの国が作っていなかった 国の外に出るやつは勝手に出ればいいという考え方があった 入るやつだけ審査すればいい ところが今は世界で使える身分証明書 それがなければ何もできない 国が全面的に覆ってしまった 20世紀は後の2つの考え方がばーっとでてきた ナショナリズムの問題はマスコミと関係がある 「想像の共同体」 マスコミはどうやって発達していったか ナショナリズムはどう関係しているのかというと、 マスコミはどこからどこまでが自分たちの仲間かを設定する
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ポストモダン、情報社会の中で 今の社会はこのままで維持可能なのか # 本当に調子が悪いので話がいったりきたりするかも # 今日はもう空気的に休講になっているようなものだと思って # 頭がぼーっとしている # 帰りどうするんだろ 上に挙げた国の3つの考え方が維持できなくなっていく ナショナリズムはネットによって怪しくなっている 日本人にとっては、日本語を喋る人が日本にしかいないからあまり考えたことはないかもしれない 韓国人も同じ でも例えばマレー語、インドネシア語、インド語、中国語 国境を越えて複数の国で同じ言語が使われていると あるネット上の書き込みがどこの国から書き込まれているかわからない 言語を共有していればどこで起きている出来事なのかわからない もしインド人が英語でブログを書く すると英語の世界につながる そのコミュニティは現実に生きている物理的空間とは関係ない マスコミが作っていた境界の範囲設定を壊していく 全く別のさまざまな仮想コミュニティを作っていく これはマイナス面にもなる 国は国全体で何か物事を考える いろいろな考え方をもったひとが一同に集まって決めていく でもネットだと同じ意見の人間が集まる 違う意見は彼らの検索にひっかからない 朝日新聞を読んでる20代と2chを読んでいる20代では全然考え方が違う 「インターネットは民主主義の敵か」という本にあるけれど 似た人間が集まって周りの人間とは関係なくなっていく 富の再配分の理論的な基盤はジョン・ロールズ「正義論」 ある金持ちがある富で幸せになるぶんよりも 貧乏な人がその金でより幸せになるなら云々 経済学の原理をつかっていろいろやる ここの罠は 一番貧乏なやつはどこの範囲で一番なのかということ 富の再配分は国の中ではできる でもグローバルな社会では成立しない これは重要な問題 日本ではワーキングプアとかニートは大きな問題になっているが しかし他の国、人類社会ではどうだ 子供とかばんばん死んでいるんじゃないか ワーキングプアとかどうでもいいんじゃないか 格差問題といわれているのは国内問題 でも国内とか国外というのは昔ほど絶対的な問題ではない Amazonで洋楽のCDを買ったりする その逆もある 経済もグローバル化して人々の生活に入ってきている 「フラット化する世界」は まさにITというのは何を可能にするかという話 例えばアメリカでエアチケットの予約をしようとする 格安の予約センターはアメリカにはない インドとかにあってインド人が電話に出る コールセンターのオフショア そういうものがすごく進んでいる 税理士も同じ 日本の場合は税理士と契約している個人は珍しいけど アメリカではふつう アメリカにインド人や中国人が進出して アメリカの顧客によって雇われる 言語が同じなら賃金格差のせいで安い国に仕事が流れる 日本は日本語に守られている 日本は特殊な条件に依存している 英語はそうではない 経済そのものがグローバル、という考え方をしない 経済は国で自立した単位 輸出とか輸入はあくまでオプション 国民経済の中で富の再配分をしなければいけない しかしこれからの世界の状況、 アメリカ人がインドの税理士に発注をかけるということが起きていくと 富の再配分を一つの国の中でやることにどれほどの意味があるのか じゃあそもそも富の再配分は本当に必要なのか 最近のネオリベと呼ばれている風潮は富の再配分はやめるべきだという そうすると格差が広がる 富の再配分装置が壊れるのはグローバル経済の必然 そんなわけで 暴力の独占装置の夜警国家としての国家が強くなっている 国家の拠り所はここがほとんど テロの問題とかが大きくなっている 3つの国家の像はお互いに支えあっている みんな日本人だというアイデンティティを持つと徴兵しやすい 富の再配分もやりやすい しかし後の2つが弱くなっている 世界中の国家が陥っている そんな中で情報技術はどうなるんだろう # ポストモダンとかもどうでもいい # ポストモダニズムという思想は何かの役に立つから使う # ポストモダニズムそのものを学ぶことが目的ではない 今までネットについて語るときは エンジニア系の語りとマーケティング系の語りしかなかった これからはそうではなくて 人文社会系のネットを使ってリアルな社会をどう変えていくか考えていくフェーズにきている セカンドライフも現実だしmixiも現実 ・それを作り出した技術 ・どうやってお金が流れていくか だけではなくて ・それでどうやって社会を作っていくか考えていく 情報技術は国家を根底から変えていく 国について、ぼんやりと、あるなあと考えている 日本は特殊だから国家が人工的だとみんな思わない 国の人工的な部分をマスコミが支えている ネットが国の存立基盤を崩していく そういうことについて考えなければならない 20世紀の国家は3つをがっちりと組み合わせていた 今は世界的に見れば富の再配分と共感の調達装置は国以外のところへ向かった グローバルな共感の調達装置は複雑で、もはや国は関係ない これからどうやって富の再配分をグローバルな社会が考えていくかは非常に重要な問題
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最近惹かれている考え方は、 さっきの生存とか労働に関係しているのだけれど、 皆さんがもし興味があったら調べればわかるけれど ベーシックインカム(基礎生存所得)という考え方があって これはいい考えなんじゃないかと思っている すごく右からもすごく左からも出てきている考え方 一言で言うとひとりあたり年間100万円やる、っていう考え方 子供だろうが何だろうが 生きていたらとにかく100万やる 100万やるから黙っていろ なぜ良いのかというと 暴力と富と共感をセットにしている近代国家では 働いていないやつに働けという指令を下す これはまさに規律訓練的権力 ポストモダンとか情報社会では規律訓練的権力から環境管理に変わっていく なぜ規律訓練が成立しないかというと価値観が無根拠になっているから ネットとかも絡んでいる いろんな情報を各個人が集められるようになった 各個人が生き方ばらばら 引き籠もりとかオタクがでてくる 30になったら結婚しろといっても聞かない 規律訓練は崩壊した じゃあ何もやりたくないという人間をどうするのか 何で働けと言えないかというと 生存と労働がイコールで結び付けられないから 今はものを作って売って儲けるとかではなくて 会社作って上場するのが一番儲かる 成功者の影には失敗者も1000人とか2000人とかいてギャンブルのようなもの 成功すればすごく儲かる 失敗すれば終わる でもギャンブルとして割がいい 普通に働いていたら100億とか絶対手に入らない じゃあ金を稼ぐって何だろう? クリエイターが正当な対価を云々かんぬんという話があるけれど そもそも正当な対価なんて存在していない 労働に対価は存在しない 労働は労働で存在している いい仕事をすれば評価されるかもしれない それは一つのゲーム それが金になるかというのは別のゲーム すごくいいイラストを描いて神として尊敬されても 同人誌が売れる程度で大して金にならないかもしれない 金になるのは別の論理 いい仕事と金になるのはまったく別 経済というのはゲーム 金を持っている人はみんな口を揃えて言う 権力もゲーム すごく能力があるから首相になるわけではない しかし経済は所詮ゲームといってるとマジで金がなくて死ぬやつがでてくる ちゃんと働いている人間がちゃんと社会のリソースを配分してもらい…みたいなことを 初期の共産主義者は言い出した 資本主義社会では労働は対価にならないということの反発 労働は対価になるべきだという主張 経済はゲームではないんだという主張 ホリエモンが500億とか誰がどう見てもおかしい 大富豪はひどいゲームだけど現実もあんなもの ゲームの規則がそうだからそんなことに怒ってもしょうがない 現実のいいところはゲームがいろいろ重なっているから 経済のゲームが全てではない でもこれを否定してもしょうがない しかしゲームであると認めると ゲームのせいで死ぬやつがでると困る だからベーシックインカムみたいな考え方になるしかないのではないか
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経済がゲームであるという考え方もすごくポストモダンな考え方 リオタールは大きな物語がなくなると知はゲームになると憂えた おそらくそれもしょうがないこと 権威のヒエラルキーがだんだんゲームになっていった 科学的な真理は検証可能性に守られている 人間が人間の中に持っている真理はそうでない 注目浴びている人が話せばそれは真実になる 言説のゲーム 特にネットはそう Googleページランクという発想がそう 内容には関係なくみんなからリンクされたものが高い 知はゲームでしかないということを、 システムとして提示しているGoogleは大変すばらしいと思う 注目を集めたものが勝ち 集められなかったら消えていく 全部ポストモダンの現象 経済がゲーム化していったときに、 それで人が死なない世界を作っていかなければならない 規律訓練から環境管理へという話は すごく簡単にいうと世界のゲーム化みたいな話 # 本当は今日はそっちの話からはじめる予定だった つまり規律訓練という考え方はヒエラルキー 王様、頂点、トップが批判を垂れている 王様がいなくても規範が内面化されて自分で自分を律しているのが近代 ヒエラルキーがないのにヒエラルキーが内面化されている 環境管理型の社会ではインフラとプレイヤーがいて プレイヤーは小さな世界の局所的な利益だけで勝手に動いている 統御されていない 各エージェントは自由に動いていい システムの外側には出られないのでなんとなく秩序が保たれている 東工大の人にとってはわかりやすいでしょう システムがあれば秩序がある じゃあ社会秩序の目的は何か 近代では主体が自立すること 近代社会ではひきこもりはまずいといわれる ポストモダンでは、ひきこもってもいい 引き籠もれるという選択肢が取れるようなレギュレーションに社会を変える こいつが死なないような社会 ゲームの中で引き籠もりを選んだことでがんがん死んでいくのはまずい だからゲームのシステムを変える これがポストモダン的思考 結果として同じような結果、 つまり引き籠もりの人がなるべく生きられるという結果だったとしても 発想が違う 発想は大事
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最近僕は国家に関心がある だから古い国家論とか読んでいる 例えばホッブスの「リヴァイアサン」 おいおい近代国家ってこうだったのか、やばいな、と思う 人間はそもそも私利私欲のために動いているので殺しあう これはまずいので誰か主権者を決めて 主権者の命令にみんなで従うようにしようという申し合わせ これがcommonwealth 国家 国家に参入した段階で、主権者に全ての権利を渡している 主権者が許したことしかできない お前の財産よこせといったら従わないといけない 従わないなら国を出ろ 世の中はそういうものだ これはすごく強い主張 ヨーロッパの近代的な国家の考え方の出発点 主権者に全面的に譲り渡す 日本だと国民主権 国民という曖昧なものが主権を持っている 憲法によって国が国を縛っている しかしホッブスにはその考え方がないので主権者は何でも出来る 今でもこの主権のロジックは重要な時に出てくる 戦争をするときに出てくる 容赦なく主権パワーが出てくる 日本は第二次世界大戦で頑張りすぎたのでもうやめようぜということになって もう主権パワーを感じない 日本はかったるい国なので北朝鮮から攻撃されても何も出来ないのではないか まあいいけど とにかく主権パワーはそういうもの ホッブスの考え方から どうやってたるい、ゆるい国を作っていくか それが人類の進歩 日本では、日の丸・君が代教育が愛国教育だといわれて批判される でもヨーロッパこそがそう ヨーロッパは気が狂ってるくらい愛国主義 ホッブス的な国の考え方だと 一人一人は戦士であり市民 良心的兵役拒否なんてありえない 市民が国の一部でありながら国に対して否を唱えることが出来る考え方 ホッブスからしてみればありえない でもそれを作ってきたことがここ400年とか500年の成果 国や主権者が守ってやってるんだけど、 市民はそのことについて考えず義務を負わない そういうゆるーい国家をつくっていく方向にじょじょにいっている 市民がやりたいほうだいやるなんて ホッブスからするととんでもない お前なんで国に居るんだということになる じゃあそういう方向はどうやって可能になっていくのか RPGに似ていると思う セカンドライフでもいいけど 会員登録してその中で自由にやっている その中でどういうことができるかはシステムが決めている セカンドライフの中で問題が起きそうになったらシステムを変えることをできる プレイヤー自体は、システムがどういうふうになっているかあまり意識していない 過分にそのことに義務を感じない 近代社会では大文字の主体が常に見ている プレイヤがシステムエンジニアの気持ちを考えている ポストモダンはそんなことを考えなくてもいい そうするとシステムがすごい権力をもってやばいんじゃないか でもそれには違う解決があって システムは一つだけではない 経済だけではない 知のシステム 評判のシステム いろんなシステムがさまざまなレイヤで重なっている 無数のゲームに同時に参加している Googleが世界全体を支配するということにはならない ヒエラルキー型でシステム作ってるやつのことを慮る社会から システムのことを考えない社会へ 動物化 僕自身がITもポストモダンにも興味がある 僕の考えていることの中心は 脱社会的な存在をどれだけ許容できるかを考えること ホッブス的な思考は脱社会的存在は定義上社会の中に入らない  税金払わないやつはでていけ  オタクで引き籠もりだから参政権をうばうぞ  社会に貢献していないなら生存権を剥ぎ取るぞ これはホッブス的な主権 脱社会的存在の許容のために情報技術が何かのヒントになるのではないかと考えてきた